一章 見鬼眼の役立たず(3)

「とはいえ、あやかしのことよりまず自分の生活をなんとかしないと……」

 グラスを拭きながら、私はため息をついた。子供の頃から浮きまくったせいで、私のコミュニケーション能力は全く成長していない。友達はできないし、就活は悲惨だったし、バイトも色々とあって長続きしない。

 やっと雇ってもらったこのカフェで、今のところ平穏無事にやれているのは奇跡だった。正直、ここをクビになったら後がない。

 ここでもまた、前の時のような失敗を繰り返すわけにはいかない。今度こそ余計なことを考えずに仕事に集中すべきだ。

「福来さーん、オーダー上がったよ。五番テーブルにアイスティー持っていって」

「はーい……あっ」

 オーダーを確認し、思わず声が出てしまった。五番テーブルはまさに雪女の席だ。

 なるべく見ないようにしよう、と思いつつもやはりそわそわしてしまう。

「アイスティーお待たせしました」

「……あ、はい」

 返事はどこかぼんやりとしていた。グラスを置きながらちらりと窺うと、雪女は頬杖をついて額に手を当てていた。苦しそうに眉間にしわを寄せ、赤くなった顔にはびっしょりと汗をかいている。こちらをちらりとむいた目は潤んでいた。

 なんだか、様子が変だ。暑くてたまらないといった雰囲気に見える。

 けれど、席の周りは恐ろしく寒かった。テーブルの下にはうっすらと霜がかかっている。

 雪女は周囲に冷気を発するらしいけれど、これは明らかに強すぎる。具合が悪くて力が暴走しているのかもしれない。

「やっぱり暑すぎ……? どうしよう、今からでもブラインド下ろした方がいいのかな」

 悩みながらカウンターへ引き返した時、ふいに後ろで何かが倒れるような重い音とざわめきが起こった。

「誰か倒れたぞ!」

「ちょっと、店員さん来てください!」

「えっ、倒れた」

 店長が慌ててフロアへ飛び出していく。嫌な予感がして、私も慌てて後を追った。

 予想通り、騒ぎの中心にいたのは雪女だった。どうやら椅子から転げ落ちたらしく、床にへたり込んでなんとか上半身を起こしている。かろうじて意識はあるようで、心配そうに覗き込む他の客に弱々しく首を振っていた。

「うわっ、なんでこんなに寒くなってるんだ? やっぱりエアコンが壊れちまってるのか」

 店長がぎょっとしたように辺りを見回し、椅子の背にかけてあったブランケットを雪女の肩にかけた。

「寒くて体調を崩されたんだな。大丈夫ですか、お客様」

「い、いえ……」

「すぐに温かいお飲み物をお持ちしますから。もっとしっかり温まって」

 横から覗き込んで、息を呑む。

 ブランケットでしっかりと包まれた雪女は溶け始めていた。真っ赤になった氷の顔はあちこちにひびが走り、雫が滴っている。

 間違いない、これは――熱中症だ。

 私は急いでカウンターへと駆け戻った。氷水がなみなみと入ったピッチャーをふたつ、両手に掴んで引き返す。

「福来さん、ちょっと救急車……」

「今助けます!」

 私は店長を押しのけると、ぐったりと目を閉じる雪女へとピッチャーの中身をぶちまけた。周囲からどよめきが上がったが、構わずにもうひとつのピッチャーも逆さにしてたっぷりと氷水を浴びせる。

 氷水を頭からかぶった雪女の身体から、熱したフライパンを冷水に突っ込んだ時のような音がした。溶けかけていた氷の身体が急速に透明感を取り戻し、ひびが消えていく。

「大丈夫? しっかりして!」

 空になったピッチャーを放り出して肩を揺さぶると、雪女はハッと目を開けた。頬の赤みが引き、熱っぽく潤んでいたまなざしが力を取り戻すと同時に、当たり構わずまき散らされていた冷気が収まっていくのが分かった。

「すみません……!」

 小さく呟くと、雪女はさっと立ち上がった。ややふらつきながらもしっかりとした足取りで踵を返し、逃げるように店を飛び出していく。

「あれだけ走れるなら大丈夫そう。よかったあ……」

「――何が『よかった』だ?」

 雪女の背中を見送ってほっと胸をなでおろしたところに、こわばった声が飛んできた。

 振り返った私は、目の前に広がっている惨状にそのまま動きを止めた。

 派手に氷水がぶちまけられた床。ひそひそしながらこちらを遠巻きに見ている客。転がる空のピッチャー。

 そして、こめかみをピクピクとひきつらせながら私を睨みつける店長。

「あ、その、ええとですね……」

 このあとの展開が手に取るように分かって、今度は私が倒れたくなった。

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