第四章
「かんぱーい!」
ジョッキの重なる音が店内に響く。山野食堂に集った選手は互いに労をねぎらいあった。
一ヶ月間のボランティア期間を耐えきった選手らの表情は明るかった。
「マータイはどこに行ってたんだ?」加治屋は言った。
「農家さんのところで収穫の手伝いしてた。もう、へとへとだよ」
「そいつは大変だったな」
「早く野球がしたいよ」
と、皆川が二人の間に入ってきた。嬉々とした表情を加治屋に向ける。
「松戸選手の加入ってやばくないですか?」
松戸秀吉――ビリオンスターズの拠点となっている県の出身選手。高校生のとき甲子園で活躍して時の人になった。プロ野球選手になったあとも第一線で戦い、あらゆるタイトルを獲得し、ポスティングシステムで大リーグに挑戦した。だが、怪我のせいで活躍することなく、日本に帰ってきた。
加治屋が球団事務所を訪れた日に松戸の入団会見が開かれた。会見は全国ネットでも取り上げられ、地元局では生中継もされた。
松戸のおかげで、チーム全体の注目度も高まってきている。
「ありえない話だよな。……実際、加入するわけだけど」加治屋は言った。
「移籍の件、加治屋さんが一枚噛んでるって噂、本当ですか?」
思いもよらない指摘に、ないない、と加治屋は手を振った。
「確かに同じ高校で面識はあったけど、卒業してからは連絡すらとってないし。俺は関係ないよ」
「早く会いたいなー。でもって、野球のこと教えて欲しいなー」皆川はすでに自分の世界に浸っている。
配膳している山野は「これみた?」と新聞を差し出してきた。
開かれた頁には大きな見出しで〝ビリオンスターズ今年も赤字〟と書かれた。
内容は動員観客数の低下による収入減。創設時は黒字だったが、最近では赤字続きとなっている。
「経営は火の車って聞くし……大丈夫?」
「俺たちが大丈夫にしてみます」
自信満々に胸をはる加治屋に安宅は口を挟んだ。
「まーた適当なこと言って……」
「俺たちが活躍してチームが盛り上がればファンも増えてスポンサーも増えるだろ!」
「話が出来すぎだ」
「なんだとっ!」席を立つ加治屋。
「落ち着けって……」興奮する二人の間に星が仲介に入った。
「このままじゃいけないってことは二人も思ってるんだろ? それなら、今俺たちにできることをするだけじゃないか」
「できることって?」加治屋は星に尋ねた。
「後期リーグ優勝! でもって、チャンピオンシップ優勝!」
「そこを目指すのはいつものことじゃないか」
「でも、上坂さんがいない今。現実味が帯びてきているんじゃないか?」
上坂監督の離脱。これまでビリオンスターズが優勝を逃してきた一番の要因がなくなり、選手の士気が高まっている。加えて、松戸の加入。怪我から復帰したばかりだが、JPBで活躍していた選手だ。優勝できる可能性は高まったと言える。
「その分、ファンが減ったのかもしれないがな」安宅は言った。
「減った分を俺たちが増やせばいいじゃないか」
「ああいえば、こういう……」
案外、安宅の表情は明るかった。物事に対して否定的な安宅も満更でもない様子、自信があるのだろう。
前期リーグ覇者と後期リーグ覇者が出場することができるチャンピオンシップ。これまでビリオンスターズは制したことがない。もしかしたら――一同は期待せずにはいられなかった。
「いやあ、開幕が楽しみだね!」山野は言った。
後期リーグ開幕に向けて、練習が再開した。
ボランティアの日々を終えたビリオンスターズの選手らは喜びに満ちていた。野球ができる喜び。それを噛みしめるには余りにも長い時間だった。
選手、コーチはグラウンドの中央に集まった。佐渡の挨拶が始まる。
「みんなボランティアお疲れさま。今年も様々な団体や施設からお礼の返事がきている。我々はプロ野球チームだが、野球だけ出来ればいいわけじゃない。色々な方の支援があるから、野球ができていることを忘れないでほしい」
佐渡は前置きを済ませて、本題に移った。
「知ってのとおり、後期リーグから加治屋が監督となり指揮をとることになった。……といっても練習や采配に関しては我々コーチ陣がサポートするので心配はしなくていい。加治屋にはプレーでチームを引っ張ってもらうことを期待している」
それでは新監督から一言、と加治屋は前に出た。
緊張していた加治屋は「えー」と一呼吸おいて、心を落ち着かせた。
「おはようございます。新しく監督になった加治屋昌隆です。しばらく……というか、後期リーグから俺が指揮をとることになったのでよろしく。
前期リーグの成績は三位という結果に終わりました。大事な試合で負けてしまった原因は上坂監督の采配にあったかもしれませんが、それを理由にして試合を捨てていたことも事実です。後期リーグの目標はもちろん優勝。最後まで諦めず、戦い抜きましょう」加治屋は一礼した。
加治屋の思いは選手たちに届いたようで、惜しみない拍手を受ける。思わず頬が緩んでしまう。
「続いて、新加入の松戸選手、一言お願いします」
佐渡に促され、松戸は一歩前に出た。
「初めまして。松戸秀吉と申します。ポジションは外野。守備よりもバッティングの方が得意なので、打ってチームの勝利に貢献します」
以上、と締めくくった松戸。ビリスタの選手は拍手を送る。
「これにて全体ミーティングを終える」
解散、と佐渡の号令で選手らは離散した。
松戸は練習に参加せずに見学することになった。早くチームの雰囲気に馴染んでもらうようにと下村の計らいだ。
そのせいか、選手たちはいつもより集中力に欠けていた。選手のなかには松戸を目標に励んできた者もいる。どうしても意識してしまう。
「松戸さんがビリスタにきてくれるなんて思ってもみませんでしたよ」案内役の加治屋は声をかけた。
「驚いたのはこっちだよ。きて早々に上坂さんが監督辞めるって知らされてよ」
加治屋は愛想笑いで返す。
「でも、どうして独立リーグに? 松戸さんの実績ならすぐにでもJPBに復帰できるんじゃないですか?」
「オファーはあったよ」
「それじゃ――」
「俺がJPBに戻るのは来シーズンからだ。今は少し野球と距離をおいてみようと思ってな。独立リーグなら試合数も少ないし試合勘も鈍らずに済む。練習場所には最適だ」
達観したように冷めた口調で松戸は言った。グラウンドを見つめる視線はどこか遠くを眺めているようだった。
「……贅沢な話ですよ」
「野球がうまい奴は野球に纏わることならわがままいっていいんだよ」
ここの選手なんだが、と松戸は切り出した。
「独立リーグだから舐めてたけど……動きは思ったよりまともだな」
「ひどい感想ですね」
「率直な意見だ……そんなことより練習が終わった飯を食いにいこう。いい店知ってんだろ?」
「一応は……」
「よし、暇な奴集めて加治屋の監督就任を祝うか」
「いいですよ。そんなことしなくて――」
「やりましょうよ!」
いつの間にか後ろにつけていた皆川は言った。
「皆川、練習はどうした!」
「加治屋さんが案内なんてずるいですよ。代わってください!」
「お前なぁ……」
「このチームは変な奴が多そうだな」松戸は大笑いした。
「否定はしません……」
暇な奴――ビリスタ選手の有志が山野食堂に集まった。普段は山野食堂を利用しない者もなかにはいた。加治屋の監督就任を祝うことよりも、松戸からJPBのことや大リーグの話を聞きたくてうずうずしている。
「ここが加治屋の隠れ家か……」松戸は辺り見回す。
「松戸さんはこの辺りの店は詳しくないんですか?」加治屋は尋ねた。
「全く。……高校卒業してから地元に帰るのは正月だけだったからな」
あの、と弱々しい声がした。
「よろしければこちらにサインをお願いします」
山野は松戸にサイン色紙を差し出した。緊張で手が震えている。
はい、と手慣れた様子で松戸はサインを書いた。
「ありがとうございます! うちの家宝にします!」山野は大事そうにサイン色紙を抱える。
「……俺らとの扱いの差がすごい違いますね」
一枚のサイン色紙に選手全員のサインを書かされたことを加治屋は思い出した。君たちとは格が違うからね、と山野は悪びれる様子はない。
席に着いた松戸は水を一口飲んで、
「聞いたぞ加治屋」
「何をですか?」
「お前、今年で引退なんだってな」
「まだ決まってませんよ。……確かに、このリーグを去ることになるのは確実ですが」
「まったく、スカウトは見る目ないよ。俺がスカウトならお前はもうJPBのマウンドに立ってる」
「言い過ぎですよ」
謙遜する加治屋に松戸は真剣に向き合った。
「いや、俺はお前のことは評価している。なにせ、日本人らしい投球をしているからな。今の時代、速い速球で三振のとれる投手が評価されるが、打たせてとる投球のほうが俺は好きだ」
「投手は派手な方がいいですよ。人気が出ませんから」
「そういうことを気にするのは売る側の仕事だ。……で、もし引退することになったらどうするんだ?」
「人のデリケートな部分を聞いてきますね」
「でも、実際にその危機が迫っている以上、考えておく必要はあるだろ?」
これまで加治屋がリーグ戦に集中するために、引退後のことは黙っていた。
誰かに聞かれても、曖昧な返事で誤魔化してきた。後期リーグが始まろうとしている今。選手として、監督として自分の考えを伝えておく必要があると加治屋は感じていた。
「教師をやってみようかなと」
「教師って……あの、学校の先生のことか?」
「はい。……変ですか?」
「変じゃないが。……野球はやめるのか?」
「できたら野球部の顧問をやってみようかなと」
そうか、と松戸は寂しそうに返事をした。
と、
「加治屋さんばっかりずるいです! 俺たちも混ぜてください!」
松戸の話を聞こうと皆が群がった。どうやら、加治屋の話は松戸にしか聞こえなかったようだ。
JPBに在籍していた頃の話をする松戸を前に若い選手らはいずれは自分も、と希望を膨らませながら耳を傾けていた。
後期の開幕戦を迎えたビリオンスターズ。
試合前の練習も終え、加治屋と皆川は室内ブルペンからベンチへ向かった。
「今日の試合、お客さんはどれだけ来ますかね?」皆川は興奮気味だ。
「そりゃ、松戸さんを見にたくさん来るだろ。試合前の練習のときから結構な数が来てたじゃないか」
開幕戦前の練習日にも松戸を一目見ようと、多くの記者やファンが高原スポーツ広場に訪れていた。今日の開幕戦には松戸が出場するので、多くの観客数を見込める。
「期待できそうですね」
ベンチに着いた二人は言葉を失った。
球場に押し寄せた観客で外野席は埋まっていた。全席自由席の独立リーグ。人気のある内野席はほぼ満席で、外野席にまで人が溢れることになっている。球場はかなりの騒ぎになっていたが、ブルペンにいた加治屋と皆川は全く気がつかなかった。
「これは……!」
「記録更新だよ!」下村はこれまでにないほど目を見開いていた。
「試合開始前で一万人も来てるよ」
「一万人……!」
普段の動員数は五百人ほど。二十倍だ。
観客の服装はカジュアルな私服がほとんどで、チームのユニフォームを来た人は少ない。松戸目当てで来場した人がほとんどだ。
「松戸さんすごい人ですよ!」加治屋も興奮を隠せなかった。
素振りをしていた松戸は球場をぐるっと見渡してから、ひどく落ち着いた様子で、
「そんなもんだろ? そもそも、座席数自体少ない球場だからな。すぐ埋まるだろ」
「そう言えるのはビリスタであなただけです!」
「これまで何人、人が来てたんだ?」
「多くて五百人くらいですけど……」
「草野球かよ」松戸は呆れている。
加治屋、と佐渡は呼んだ。
「これが初陣だ。円陣でも組んだらどうだ」
「そうですね……そうしましょう!」
佐渡の呼びかけで、加治屋を中心に選手らは円を描いた。
「上坂監督がいなくなって、周りの環境は変わりつつある。そんなチームのゴタゴタなんか気にせず、今日は野球に夢中になろう!」
鬨の声が上がった。選手らの表情も引き締まる。試合に臨む状態としては最高のものになった。
ビリオンスターズ対アンダーグース。
十五対二でビリオンスターズの勝利。
加治屋が監督として臨んだ初めての公式戦は勝利で飾った。
相手チームは不必要に松戸との勝負にこだわり、大量失点を招いた。松戸は五打数五安打で本塁打を二本打った。観客も選手も彼の実力をまざまざと見せつけられた。
試合後の選手による見送りには松戸を求めて長蛇の列ができており、列はすでに球場の敷地外まで及んでいる。列も乱れ始めて、混乱しているようだった。
松戸の人気は絶大だった。JPBで一流の選手だった松戸と握手ができるとなるとファンが殺到するのも無理はない。
「やっぱ、元JPBの選手は人気が違いますね」皆川は言った。
ああ、と加治屋は頷く。松戸以外の選手は相手にされていなかった。
加治屋と皆川、と二人は下村に呼ばれた。
「お前たち、捜したぞ」
「もしかして、俺のことを待っているファンがいるんですか?」皆川は言った。
「バカを言うんじゃない。松戸の列が収まりきらないから列の整備をしてほしい」
「……わかりました」
加治屋と皆川――松戸を除く選手全員で列の整理を始めた。
乱れる列を整える加治屋。並んでいるファンからはスタッフと勘違いされ、心無い言葉を受けた。
並んでいる人が知っているのは松戸だけで加治屋のことは名前すら知らない。
加治屋は改めて松戸の人気を思い知った。
「やっと終わった……」
時刻は夜の十一時。観客は全員帰宅した。
加治屋はボランティアの人たちと片付けの真っ最中。用意した松戸のグッズはどれも完売し、この日だけでビリオンスターズの年間グッズ売上を更新した。
「いつもこんなことやってんのか?」松戸は加治屋に話しかけた。眠そうに目を瞬かせている。
「いつもなら三十分程度で終わるんですけどね……」
「さすがにこの人数を相手にするのはきついぞ……下村さん!」
ボランティアの販売員と売上金を数えていた下村は反応した。売上がよかったのか口角が上がっている。
「どうかしましたか?」
「しばらくこの握手会は控えさせてもらいたい」
「えぇ! ……あと一日だけでもダメかな?」
松戸は黙ったまま、下村の返答を待った。
チームに松戸がいるだけで一万人にも及ぶ観客動員数。下手に機嫌を損ねて出ていかれても困る。下村も松戸には頭が上がらない様子だ。
「……わかりました。広報に伝えておきます」
「よろしくお願いします」
過去最高の観客動員数を記録した日から一夜が明けた練習日。
選手のモチベーションは異様に高かった。多くの観客の前で野球ができたことが図らずも良い影響を与えていた。
「加治屋聞いたか!」ブルペンで投球練習をしていた加治屋に星が慌てて駆け寄ってきた。
「何をだよ」
「スカウトが来るらしいんだよ! 次の試合に!」
「そうか」返事だけ返して、加治屋は練習を続ける。
冷静な加治屋をみて、星も落ち着きを取り戻した。
「……やけにテンションが低いじゃないか」
「どうせ松戸さん目当てだろ」
「たとえそうだったとしてもスカウトの目に留まるチャンスじゃないか」
「それも……そうか」
ここ最近、松戸を取り上げるメディアが目立って、つい松戸中心に物事を考えてしまっている。どうせ俺のことは誰も見向きしない――加治屋は卑屈な考えに染まっていた。
午前の練習を終え、休憩中。
ベンチに座って食事を摂っている加治屋にお疲れさん、と松戸は隣に座った。
「スカウトの話、知ってるか?」
「はい。星から聞きました」
もうそこまで話が広がってるのか、と松戸は呟く。
「昔、世話になったスカウトの人が挨拶に来てくれることになってな。ついでに、試合も観ていくことになったんだ」
「やっぱり、松戸さんに会うことが目的なんですね」
「ああ。俺が高校生だったときにお世話になった人だ。久しぶりに会いたいって連絡がきたんだ」
「そうですか」
と、松戸は口籠もった。
「どうかしましたか?」加治屋は指摘する。
「……加治屋はプロのスカウトからの評価を聞いてみたいと思うか?」
「それは……もちろんです」
これまでにも試合を見に来たスカウトはいたが、加治屋に興味を示す者はいなかった。スカウトの意見を聞くことができるのは又とない機会だ。
よかった、と松戸は胸をなで下ろした。
「実はおまえのためにスカウトと面会する時間を取っておいたからな。有効に使えよ!」松戸はサムアップした。
ありがとうございます、と社交辞令然として答える。ある疑問が加治屋の頭を巡った。
「一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
「俺と松戸さんって一年間、同じ高校の野球部で過ごしただけじゃないですか。それなのに、どうして俺にそこまでしてくれるんです?」
「好みだったからさ」
「え?」加治屋は体一つ分、距離をとった。
「俺、彼女いるんですけど……」
「違う! そういう意味じゃない。……前に加治屋は日本人らしい投球をするって話、したよな?」
はい、と頷く加治屋。松戸は話を続けた。
「俺は来シーズンからJPBに戻る。そのときにお前みたいな奴が一緒になって野球界を盛り上げてくれたら楽しそうだなって思っただけだ」
「野球界を盛り上げるだなんて……考えたこともないですよ」
いずれ考えるさ、と松戸は加治屋の肩に手をおいた。
「次の試合、楽しみにしてるぞ」
「……はい!」
松戸には目をかけてもらっている。その期待には応えたい。
オラクルエレフィンズとの試合日を迎えた。バックネット裏にはスーツを着た男が座っている。球場にはそぐわない服装で、すぐにスカウトだとわかった。
「あれがそうですかね」皆川は言った。
「見るからに……だな」
と、グラウンド外周を走っていた加治屋は異変に気づく。バッティング練習をしていた野手陣はホームベース付近で集まり、練習を中断していた。
加治屋は集まっている輪のなかへ飛び込む。マータイと安宅が睨みあっていた。
「何があった」加治屋は言った。
「安宅さんが替わってくれない」
マータイは事情を話した。すでにバッティング練習を終えた安宅が打席を離れず、マータイを追い返したようだ。
「本当か?」加治屋は安宅に尋ねた。
そうだよ、と素っ気なく答える。悪びれる様子はない。
「別にいいじゃねぇか。スカウトが来てる以上、たくさんアピールしようと思ったんだよ」
「それはみんな同じだろ。安宅だけ特別扱いするわけにはいかないな」
「……ちっ。都合のいいときだけ監督面してんじゃねぇよ」安宅はその場を去った。
誰だってスカウトの前でアピールしたいのは同じ。注意するのは当然のこと。
いや、監督する立場の人間として、やる気のある人間の申し出を快諾すべきだったのか。
加治屋の胸中は揺れていた。
と、
「気にするなよ。誰が見たって安宅が悪いことしてんだから」松戸が声をかけた。
「……はい」
「ちなみにバックネット裏にいるのがスカウトの篠原さんだ。今日の試合を観てくってさ。……しっかりアピールしろよな」
加治屋の背中を押して松戸は元気づけた。しかし、安宅の言葉は加治屋の胸の奥深くに突き刺さったままだった。
ビリオンスターズ対オラクルエレフィンズ。
七対二でビリオンスターズの勝利。
安宅成靖は四打数〇安打三三振と全く結果を残せなかった。
一方、加治屋は完璧と言っていいほどの出来だった。九人の打者に対して被安打〇、四球もなく、相手に一塁を踏ませなかった。
本来なら、正門前でファンを見送る時間だが、加治屋は事務室へ向かった。
「いやー、遅くなっちゃってごめんね」
スカウトの篠原は加治屋が着いてから、数分遅れてやってきた。スーツの上からでもわかるほどがっしりとした体躯に整った顎髭。四十代と聞いていたが、実年齢より若く見える。
名刺を受け取ると、さっそく本題に移った。
「俺のピッチングはどうでしたか?」
そうだね、と篠原は顎髭を触り、考える素振りをみせた。
「インパクトがなかったよ」
「インパクト……ですか?」
予想もしていなかった指摘に加治屋は戸惑った。
篠原は流暢に話し始めた。
「そう。何もかもが物足りなかったよ。コントロールがいいのはわかったけど、球は遅いし、変化球もパッとしない。投手としての魅力は感じなかったかな」
「でも、三回を完璧に抑えました」
「……独立リーグの成績に意味はないよ。いい選手かどうかはスカウトが見て判断するから」
「じゃあ、どんなにいい結果を残しても意味がないってことですか?」
「スカウトの目に留まりやすくはなるってことを踏まえれば意味はあるよ。……ただ、それだけの話だけど」
その後も篠原の話は続いた。
形式ばっていて退屈な話だ。見込みのないない選手には同じ話をしているのだろう、と加治屋は穿った憶測を立てた。もう、話の内容は頭に入っていない。ただ、相槌を打つのみで、無意味な時間が過ぎていった。
と、すでに篠原は帰り支度をまとめていた。
「今年で二十六歳だっけ? 君もいい歳だからあえて言っておくけど、ウチは君を獲るつもりはないから。ごめんね」
「……いえ、わざわざ貴重な時間を取っていただきありがとうございました」
「こちらこそ。野球選手にならなくても仕事は他にたくさんあるから。……君、礼儀正しそうだから会社員も向いてると思うよ」
それじゃ、と篠原は部屋を出た。
スカウトと話した時間は十五分程度。今から正門前に向かえばファンの見送りには間に合う。
だが、加治屋は早く帰りたかった。人目を避けてクラブハウスへ向かう。
ロッカー室には安宅がいた。額には汗をにじませ、頭をぐったりと垂らしている。微動だにせず、祈るように手を組む姿はどこか怯えている印象を受けた。
「冷やかしならごめんだ」安宅の声は弱々しく、すっかり老け込んでいた。
「そんなつもりはないよ」
「スカウトと話してきた奴が何言ってんだよ」
「君を獲るつもりはないって言われたよ」
安宅の眉がピクリと動く。けれど、それ以上の反応は見せず、黙ったままだ。
「……飲みにいくか?」
加治屋の誘いに安宅は手を組んだまま、動こうとしない。
しばらくして、「ああ」と安宅は頷いた。
駅近くの繁華街は深夜でも人通りは多い。表通りをすり抜け、裏道に入り、路地の一角にあるバーに入店した。
二人はカウンターに並んだ。加治屋と安宅はハイボールを注文して、一杯を飲み干した。
「俺さ……高校を卒業したらJPBに入れると思ってた」安宅は言った。
「昔はテレビの特集にも出てたよな」
「知ってんのか?」
「同い年だからな」
お互い、二杯目の酎ハイに口をつけた。
「高校のころは何人ものスカウトが練習や試合を見に来てた。みんな俺のJPB入りを信じて疑わなかった。けどさ、三年の春に膝を怪我してから調子落として……スカウトのリストから外された」
安宅は一気に酒を煽り、飲み干した。もう一杯注文をすませると、空いたグラスを揺らす。グラスに残る氷は互いにぶつかり、カランカランと音をたてた。
安宅はグラスを見つめながら話を進める。
「それからは落ちる一方だったよ。大学に入って野球を続けても調子は上がらない。……気がつけば独立リーグでプレーしてる自分がいた」
「どうして大学卒業のタイミングでやめなかったんだ?」
「人生の多くの時間を野球に費やしてきたんだ。今更やめられるわけがない」
三杯目の酎ハイ。一口つけたところで、安宅は聞きそびれていたことを思い出した。
「詳しく聞かせろよ。スカウトとのこと」
「全く評価されなかったよ」
「嘘つけ。今日はいいピッチングしてたじゃねぇか」
「独立リーグの成績をスカウトは評価しないらしい」
「冗談だろ? それじゃいくら独立リーグで結果を残そうが意味がないみたいじゃないか」
「そういうことなんだろ。俺たち定年組にとって成績なんて」
「……くだらねぇ」
お互い酒を飲むペースは早かった。加治屋は六杯、安宅は八杯グラスを空にしている。酒は楽しまず、やけ酒に近い。とうに限界を迎えているはずだが、意地を張って飲み続ける。
よし、と安宅は席を立った。
「今から野球でもするか」安宅のろれつは回っていない。
「馬鹿やろう。この時間で野球できる場所なんてあるか」
「あるんだよ」
駅のロッカーに入れておいた野球道具を片手に、加治屋と安宅は高原スポーツ広場を訪れた。二人は南京錠のかかったフェンスを難なく跳び越えた。
きれいに平されたグラウンドを歩く。
澄んだ夜の空気は火照る体を冷ましてくれる。だんだんと、酔った頭も冴えてきた。
安宅が照明をつけると、見慣れたグラウンドが姿を現す。
「よく使うのか?」手際のよい安宅に加治屋は尋ねた。
「使う訳ないだろ。見つかったら叱られるさ」
「おいおい……」
打席に立った安宅は素振りを始めた。酔っているせいか、足元はおぼつかない。
「今から何をするんだ?」
「一打席勝負に決まってんだろ」
マウンドに立つ加治屋はカゴの中からボールを一球取った。捕手はいないので、目測でコースを狙って投げる。
外角低めの球を安宅は空振りした。続けて、同じコースに変化球を投げて空振りさせる。
次に内角の直球。安宅のバットは鈍い音を響かせ、打球はゆっくりと転がる。ボールは内野と外野の間に止まった
「内野ゴロだな」
「もう一回だ!」
「一打席勝負じゃなかったのか?」
「俺が勝つまで勝負しろ」
「……とことん投げてやるよ!」
烏の鳴き声が頭に響いた。
目を覚ました加治屋は起きあがった。歩こうとするだけで、激しい頭痛に襲われる。二日酔いだ。太陽の陽射しが重い瞼をさらに細くさせる。なぜグラウンドで寝ていたのか理解できていない加治屋だったが、昨日の記憶が甦ってくる。と同時に、背筋に悪寒が走った。
安宅を連れて早くその場を去ろうとしたとき、朝の見回りに来ていた広場の管理人に見つかった。
管理人から説教を受けた後、ナイターの使用料を支払い、一件落着となった。代金は加治屋と安宅の折半で済ませた。
一度家に帰宅した加治屋は午後からの全体練習のために、高原スポーツ広場に再度訪れた。
練習後、スカウトと話していたことはすでにチーム内に広まっていた。星から話を聞かせてほしいとせがまれ、山野食堂で加治屋は事の顛末を話した。
スカウトから獲らないと言われたこと、安宅とやけ酒をしたことまで。
星は話を最後まで黙って聞いていた。
「どおりでグラウンドが汚かったわけだ」
「すまん」
「それはともかくとして……そうか、スカウトから直接言われると辛いな」
と、松戸が店に来た。料理の味と店の雰囲気が気に入っているらしく、加治屋たちがいない日でも店に来るようになっていた。
「おう! 篠原さんと話してみてどうだったよ」松戸は言った。
「……ありがたいお言葉を頂きました」
独特な言い回しに松戸は反応した。
「……何かキツいこと言われたのか?」
「君は獲らないとはっきり言われましたよ」
深くため息を吐いた松戸は呆れ顔で、
「……後で篠原さんに言っておくよ。余計なことは言わなくていいって」
「変に気を遣われるよりいいですよ。実力が足りないのは自覚してますから」
「だったら諦めるのかよ」
「え?」
「実力なんてJPBに入ったあとで、いくらでもつけられるだろ!」気落ちしている加治屋に松戸は怒鳴りつけた。
「でも、実力や可能性をスカウトにアピールできないと、穫ってもらえないじゃないですか。独立リーグの成績なんて意味がないって言われてるんですよ」
隣で同意する星。
「それは篠原さんの意見だろ? スカウトは他にもたくさんいるじゃねぇか。……自分の可能性も信じられない奴がこれから先、野球で食っていけるわけねぇだろ!」
加治屋も星も言葉を失う。卑屈になっているところを松戸に見透かされていた。
「ねぇ、加治屋」山野が声をかけてきた。いつものような明るさはなかった。
「はい?」
山野は店内にあるテレビを指差す。指は微かに震えていた。
番組の内容は芸能ニュースだ。知らないタレントが記者の質問に答えている。と、山野が指し示すのは画面上部の白いフォントのテキストだった。
〝ビリオンスターズは今季限りで解散することが決定〟。
「これって冗談だよね?」
加治屋も星も松戸もテレビのテロップに釘付けになっている。
山野の問いに答える者は誰もいなかった。
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