第三章

七回裏の守り。三対二でビリオンスターズ一点リード。

ヒットと四球が続いて走者一、二塁の状況。先発の星は限界に近く、誰もが投手を交代するタイミングを察した。

ビリオンスターズの順位は二位。首位とのゲーム差は〇.五と、今日の試合に勝つと首位に浮上する。絶対に落とせない試合だ。

ベンチで出番を待っていた加治屋は立ち上がる。すでに、ブルペンで肩を暖めていたので、いつでも投げられる。

が、

「よし、ここは僕が投げよう」上坂は言った。

「えっ……?」

加治屋を含め、周りにいた選手は驚きを隠せなかった。

「ここは加治屋でいいのでは?」さすがの佐渡も口をはさむ。

「いや、このピンチは僕じゃないと抑えられない」

佐渡の助言も聞かず、上坂はグローブをはめて感触を確かめていた。

投手交代を審判に告げるべく、上坂はベンチを出る。

「待ってください! さっきまでブルペンで投げていたので準備は万全です。俺に投げさせてください!」加治屋は声をかけた。

「加治屋」上坂は歩を止めて、振り向いた。

名前を呼ばれた加治屋は「はい」と力強く返事をする。

「おまえの仕事は采配に口を出すことじゃない。与えられた仕事を完璧にこなすことだ」

「そうですけど……!」

「あまりうるさいともう試合にだしてやらないぞ」

「なっ……!」

〝試合に出さない〟。

選手を黙らせるにはいい文句。選手の起用を意のままにできる監督だからこそできる脅迫。加治屋は一歩引いて黙るしかなかった。

得意顔を浮かべた上坂は、

「それじゃ、行ってくる」とマウンドへ向かった。

加治屋は上坂の後ろ姿を眺めることしかできなかった。



ビリオンスターズ対グラサンシローズ。

三対八でグラサンシローズの勝利。

上坂は二回を投げて、三失点。負け投手にはならなかったものの、試合の主導権を相手に渡してしまった。

上坂の投球は直球、変化球ともにキレはなく、コントロールも悪かった。相手の打ち損じのお陰でなんとか二回まで投げきった。

一方、加治屋は九回を完璧に抑えた。

ロッカールーム。選手らが黙々と帰り支度をするなか、皆川は本音をこぼす。

「いやー、今日はひどかったですね」

「皆川、これから反省会だ」

「今からですか?」

加治屋は星を初めとして近くにいる人を誘ってみたが、断られた。結局、加治屋を含めた皆川、安宅の三人で反省会をする流れになった。

私服に着替え、外に出た。

てっきり、施設内で反省会をするものだと思っていた皆川は、

「あれ? ここでやらないんですか?」

「いいからついてこい」

大抵の選手は試合が終われば家に帰って疲れを癒やす。だが、試合での興奮が冷めない連中は反省会と銘打って酒を煽る。

山野食堂はすでに閉まっている時間帯。代わりに、近場の居酒屋に入った三人は注文を済ませる。

「今日も上坂が打たれて負けか……加治屋なんとかしろよ」安宅は言った。

「したさ。けど、口答えすると試合に出さないって言われたんだぞ」

「投手の問題は投手で解決してくれ。もう、四十肩のおじさんは投げないでくださいって言えばいいんだよ」

「……損な役回りを俺に押しつけるな」

「他にいないだろ、監督に口出しできる奴は。……皆川に言わせるのか?」

「言えませんよ!」

苦手にしている安宅を前に皆川は及び腰になっている。それを知っている安宅はあえて意地の悪い質問をした。

「皆川は上坂が投げることについてどう思うんだ?」

「どうって……答えづらいです」皆川は俯いた。

「正直に言えばいいさ。あいつのせいでこれまでに勝てる試合を何個も落としてきた。ビリスタがここ数年、優勝争いから遠ざかっているのは上坂が原因といってもいい」

「それでも、上坂が投げることを止められない……と」

上坂の登板を目的に球場へ来るファンも多い。ビリオンスターズ自体が監督の人気に依存している。試合を観に来てくれる人が多い方が――注目されている方が選手にとってもいいモチベーションを保つことに繋がる。

そう易々と上坂に『投げるな』と言えなかった。

「さすがに次の試合は投げないで欲しいね。なんてったって、アンダーグースとの試合だからな」

リーグ序盤から首位を走るアンダーグース。次いで、ビリオンスターズが追いかけている状況だ。前期リーグの試合数は三十試合前後。一試合の勝敗が順位にかなり影響する。上坂は負け試合ではなく、勝負所でよく投げようとするので余計に質が悪い。

「そうですね……って、ちょっといいですか?」皆川は安宅に尋ねた。

「どうした」

「今日は反省会の予定じゃなかったんですか? さっきから試合のことじゃなくて、上坂監督の悪口ばかり言ってますけど……」

「その通りだ!」

「え?」

注文したビール瓶が届く。同時に、安宅は冷えたビール瓶をそのままラッパ飲みを始めた。

「反省会とは名ばかりで、実は上坂の愚痴を言い合う会なんだよ」

あー、と皆川は納得したようだ。

「だから、誰も反省会に来なかったんですね」

「昔はもっといたんだけどな。最近じゃ、俺と加治屋しかいないな」

「それにしても意外ですよ。安宅さんと加治屋さんが一緒にいるなんて。二人ってそんなに仲よかったでしたっけ?」

「いや」

「全然」加治屋と安宅の返答のタイミングはぴったりだった。

「俺と安宅は仲が悪い。だけど、上坂監督が試合の勝ち負けを考えずに投げるのはおかしいと思っている点においては同意見だからさ。……敵の敵は味方ってこと」加治屋もビールを煽った。

「烏合の衆じゃないですか」

「言ってくれるじゃねぇか、皆川!」安宅はできあがりつつあった。

他の選手が反省会に来ない理由がわかった。単に二人の憂さ晴らしに巻き込まれることになるのだと皆川は気づく。

反省会は二次会三次会まで続き、明朝まで行われた。



アンダーグースとの首位攻防戦を迎えた。順位は変動することなく、一位アンダーグース、二位ビリオンスターズ。

試合前のミーティングはいつも以上に緊張感が漂っていた。

スターティングメンバーの発表を終え、上坂の一言で締めくくる。

「知ってのとおり、今日は首位アンダーグースとの一戦だ。もう残り試合も少ない、ビリスタが優勝するには今日の試合は落とす訳にはいかない。皆、死ぬ気で頑張ってくれ」

誰もが話を終えたと思った矢先、

「展開によっては僕も投げる」

「それは――」加治屋は思わず口を挟んだ。

「何だ?」

「いえ、何でもありません……」

上坂の視線に萎縮した加治屋は縮こまる。この前の一件以来、上坂に目をつけられていた。もう、口答えはできなかった。

それでは解散、と佐渡の号令でミーティングを終えた。選手、首脳陣それぞれがベンチに向かうなか、加治屋はその場に留まっていた。

星が声をかけた。

「俺たちは一応プロだ。与えられた条件で最大限の成果を挙げることが重要だろ。何も登板機会を奪われた訳じゃないんだ。……そう、怒るな」

「怒ってないよ。……今日は勝ちたいなって思っただけさ」

「そうだな」星はそう言い残してベンチに向かった。

誰もいないミーティングルーム。加治屋は深く深呼吸して頭を冷やす。上坂が投げると決まったわけではない。上坂は勝負所で投げる傾向がある。つまり、ビリスタが早々に大量得点で勝負を決めてしまえばいいだけのこと。

加治屋は上坂が投げない展開を想像して自分を落ち着かせ、星のあとを追った。



ビリオンスターズ対アンダーグース。

二対九でアンダーグースの勝利。

上坂は三分の一回を投げて六失点。ワンアウトも取れず、負け投手となった。

ロッカールームでは誰も試合について語らなかった。着替える選手の衣擦れの音がやけにはっきりと聞こえる。上坂が選手と同じ場所で着替えている分、ロッカールームの空気は重苦しかった。

その雰囲気に耐えきれなかったのは上坂だった。

「文句があるならはっきり言ったらどうだ! 言っておくけどな、負けたのは点を取れないお前たちの責任でもあるんだぞ!」

上坂は気が立っていた。さきほどまでの登板の影響で額から汗が滴っている。

打たれたくて打たれているわけではない。抑えようと必死なのは加治屋も分かっていた。だが、四十歳後半の体で戦えるほど独立リーグは甘くはない。いくら野球の技術があろうと、老いはパフォーマンスを低下させる。

惨敗した今日は反省会をする気にもなれず、加治屋は誰よりも早く帰路についた。

と、

「上坂監督はいるか?」

「監督ならすでに帰りましたが……何か用事でしたか?」

「用事も何もない! なんだ今日の試合は! なぜ、彼に投げさせるんだ!」

「その件につきましては、その――」

通路の隅で佐渡は禿げた男と話していた。いや、一方的に男が怒鳴っていた。加治屋が聞き耳を立てていると、帰宅途中の皆川は声をかけた。

「カジさん? 何突っ立てるんですか――」

加治屋は近寄ってきた皆川の口を塞いで、物陰に隠れた。

「急にどうしたんですか!」

「静かに」

加治屋の並々ならぬ迫力を感じて、皆川は大人しく指示に従う。

「あのおっさんどこかで……」

加治屋は思い出した。前に下村を説教していたビリスタのスポンサーの人だ。あとで知った話だが、彼はスポンサーのなかでもかなりの額を出資している会社の社長らしい。

話の内容から察するにチームの采配に納得いってない様子。

優勝争いをしていたチームが首位のチームに負ければ誰だった憤りを感じるだろう。真剣に応援をしていればなおさらのこと。

「佐渡さん! 上坂監督を登板させたのは誰ですか?」

「それはもちろん、監督自身でありまして……」

「どうして止めなかった!」

「ひぃ!」

まだ、加治屋たちの存在に気付いていない。それをいいことに加治屋と皆川は盗み聞きを続ける。

「あのおじさんの言うこと、僕らと一緒ですね」皆川は言った。

「しっ! 静かに」

「下村さんにも言ったけどね。試合に勝ってもらわないと困りますよ!」

「それはもう重々承知しております……」

「それなら、上坂監督が投げるのは今後禁止だ。わかったか」

「ええ! そんな……私が決められることじゃ……」

「上坂監督にそう伝えておけばいい」

それじゃ、と男は立ち去った。

佐渡は力なく座り込んだ。

大丈夫ですか、と加治屋は声をかけた。瞬間、相手が誰か判別できなかった佐渡。しばらくして、決死の形相で怒鳴り散らしてきた。

「君たち! 見ていたならどうして助けに来てくれないんだ!」

「助けるって……話が采配の話だったから、俺たちじゃどうしようもないですよ」

言葉に詰まる佐渡。

しかし、すぐに開き直った。

「監督が采配に口を挟まれると怒るのは知ってるだろ! どうやって、このことを伝えたらいいんだ……」

ファンからの野次なら聞かなかったことにできるが、スポンサーの意向は監督に伝えねば己の首が危ない。

厄介事を嫌う佐渡は追い詰められていた。

嫌な予感がした加治屋たちはその場を早く立ち去りたかった。

「…………俺たちは試合の疲れをとらなきゃいけないんで……それじゃ」

逃げ出す二人の肩を佐渡は掴む。がっしりと掴んで放さなかった。

「見ていたなら君たちも同席者だ。この件に関して何かあったときは協力してもらうよ」

「ええー!」

アンダーグーズとの試合以降、ビリオンスターズの勢いは影を潜めた。一時期は優勝争いをしていたが、今はすっかり落ち込み、三位となっている。

明日は前期リーグの最終戦。すでに優勝の可能性は潰えていた。

明日に備えて早めに練習を切り上げて帰宅する者が多いなか、加治屋たちは山野食堂に向かった。

「お店に行って大丈夫なんですか?」道中、皆川は加治屋に尋ねた。

「どういう意味だ?」

「ビリスタはもう優勝争いを逃しちゃったじゃないですか。ファンの山野さんに怒られたりしないんですか?」

「……気になるなら本人に聞けばいいじゃないか」

加治屋は店のドアを開けた。

いらっしゃい、と山野は普段通りの挨拶で出迎えた。

注文を済ませ、皆川は恐る恐る山野に尋ねた。

「山野さんは怒らないんですか?」

「何を?」

「その……ビリスタが前期優勝を逃したことをです」

負けが続けば我慢強いファンでも頭にくる。――もとい、真剣に応援しているからこそ腹立たしい。山野もそういう気持ちになっているのではないかと皆川は恐れていた。

しかし、山野はあっけからんとしていた。

「……もし僕が食堂を経営せずに、単なる一人のファンだったら怒り狂ってたと思うけど、君たちと触れ合う時間があまりにも長かったから。もう身内みたいなもので、情が移っちゃったんだ。だから、何があっても怒ることはないんだよ」

「……そういうわけだ」加治屋は言った。

そういえば、と山野。

「上坂監督の呟き見た?」

上坂はSNSを利用している。SNS上の書き込みの内容は選手やスポンサーに対する愚痴だった。これにネットのユーザーが反応して、上坂に対する非難や中傷する書き込みがあった。売り言葉に買い言葉で上坂も反応して火に油を注いだ状況になっていた。

「これはひどいですね」スマートフォンを眺めながら皆川は言った。

「監督辞めるって書き込んであるけど……大丈夫か?」加治屋は言った。

負けが続くと選手も監督も緊張感とストレスが高まる。上坂はアンダーグースとの試合で投げて以来、登板していない。自分の投球が独立リーグでも通用しないことを自覚しつつあるのだろう。

「辞めたかったら辞めればいいんだよ」山野は冷たく言い放った。

「あれ? 山野さんって上坂監督のこと嫌いでしたっけ? てっきり、同世代だから監督のファンだと思ってましたけど」

「皆川君、僕はね数年前まで野球のことなんて詳しくなかったんだよ」

注文していた料理ができたようだ。山野は配膳しながら淡々と話した。

「初めて球場に行ったときも無料の入場券を貰ったのがきっかけだったし、試合中は野球のルールも分かんなかったから退屈だったよ。でもね、試合後はよかったんだ」

「試合後ですか?」

「選手とボランティアの人が一緒になってグッズ販売してるのを見てたらさ、なんかいいなって思ってさ。それでスポンサーに加わったわけ」

「そうだったんですか……」

という訳で、と山野は照れ臭そうに仕切り直した。

「上坂監督のこと頼んだよ! 加治屋!」

「どうして、俺なんですか!」

山野はやれやれといった具合に両手を振った。

「他にいないじゃないか。おせっかいで、空気の読めない人は」

「単にやっかい事を押しつけたいだけじゃないですか……」

加治屋と皆川は料理が冷めぬうちに頬張った。食事を終えたときにはちょうど夕食の時間帯。ほかのお客さんが入ったのを機に加治屋たちは店を後にした。外の夕日はまだ沈んでいなかった。

皆川と別れた加治屋は一人、家路についた。明日の試合のことよりも、上坂のことを考えていた。

翌日。ミーティングの定刻になっても、佐渡と上坂は姿を現さなかった。

数分待っても、依然として来る気配がない。緊張感を失った選手らは無駄話を始めた。

「様子見てくるよ」

加治屋は練習場の周りをひとっ走りして二人を捜したが見当たらない。思い当たる施設や部屋を見て回ったが成果は得られなかった。最後の選択肢として残しておいたクラブハウスの監督室に向かった。

用がない限り、立ち入り禁止の監督室。開けて確かめたが、物音ひとつせず、人の気配もしない。

他を当たろうと加治屋は踵を返す。

と、ドアが開いた。

男二人組。話し声から、上坂と佐渡だと判った。加治屋はとっさに身を隠す。

「僕に投げるなとはどういうことだ! しかも、前々から言ってるって……聞いたことがない!」

「以前からスポンサーから意見がありまして……」

佐渡と上坂は揉めていた。これまで、二人が言い争う姿を見たことがない加治屋にとって衝撃的な出来事だった。

身を隠している加治屋は出づらくなった。勝手に監督室へ入っていたので、何を言われるか分からない。加えて、上坂の機嫌は最悪だった。

加治屋は二人が部屋を出て行くまで待った。

「そんなものは無視すればいいだろう」上坂は言い返す。

「それができないんですよ。相手はビリスタ設立当初からスポンサーになっている会社の社長ですから」

「そんなもの僕の知ったことじゃないよ。……そもそも、チームが負けていることと僕が投げることは無関係だ。ビリスタが優勝できないのは選手が下手だからだろう!」

「そうかもしれませんが――」

「それは違います!」

加治屋はつい声を挙げてしまった。上坂と佐渡は目を点にしている。なぜ、加治屋がここにいるか理解が追いついていない。

こうなったら、と勢い任せに捲したてて誤魔化そうと加治屋は考えた。

と、佐渡は加治屋の肩に手を回した。

「よく来た加治屋、お前も監督を説得するのを手伝ってくれ!」加治屋にしか聞こえない声で耳打ちをした。

「説得って……どういうことですか?」

「前にスポンサーの社長から叱られただろう? その話をしてたところなんだ」

「……上坂監督がもう登板しないように話をつけるってことですか?」

そうだ、と佐渡。

「俺はできる限りのことはした。……後は任せたぞ」

任された加治屋は上坂と対峙する。

「どうしてお前が監督室にいる?」上坂は加治屋に詰め寄った。

「そんなことより監督」加治屋は話を逸らす。「佐渡さんとの話はまだ決着がついていませんよね?」

「お前には関係のないことだ」

「関係ありますよ。監督が投げる試合は全て負けるんですから。選手としては堪ったもんじゃないですよ」

「なんだと!」上坂は加治屋の胸ぐらを掴んだ。

加治屋は動じなかった。まっすぐに相手を見つめる。

「監督が投げることが勝つための起用なら誰だって文句は言いません。ですが、自分が投げたくて投げてるだけなら、今すぐやめてください」

図星だった。上坂は胸ぐらを掴む力を強めるだけで何も言い返さなかった。

加治屋は声音を強めた。

「もう、いい加減にしてください。これまで誰も言いませんでしたが、監督が投げると負けるんです。試合が壊れます。あなたはもう相手がJPBの選手でなくても抑えることはできないんです!」

上坂は加治屋から手を放した。急に離した反動で加治屋はよろける。上坂の怒りに歪んでいた表情も緩み、どこかすっきりとしていた。

「…………じゃあやめる」

「監督、わかってくれましたか!」

歓喜する佐渡をよそに上坂は話を続けた。

「監督を辞めるんだよ」

「え?」

「僕の意見が通らないなら監督やってたって意味ないじゃん。こんな弱い球団にいたってキャリアにならないよ!」

上坂は上着と帽子を脱ぎ捨て、そのまま監督室を出た。

皺々になったユニフォームを前に加治屋も佐渡も言葉を失った。

しばらくして、

「監督ー!」佐渡は上坂の後を追った。

残された加治屋は高原スポーツ広場に戻った。

監督は見つからなかったと伝え、試合までの時間の使い方は各自に任せた。上坂が監督を辞めると公言したことは伏せておいた。

試合が始まる。だが、上坂は戻ってこなかった。監督不在のまま試合は執り行われたが、選手の集中力は欠けたままで、動きは鈍い。

結局、前期リーグ最後の試合はビリオンスターズの負けで終わった。

試合後。明日の朝、ミーティングを行うことを佐渡は告げた。



翌日。高原スポーツ広場のミーティングルームに選手が集まった。選手たちの表情は明るかった。

マータイに続いて、また選手に密着取材が入ったかもしれない、と期待に胸を膨らませる者が多数いた。

だが、加治屋だけは違った。昨日の出来事を知っているだけに、今日の話の内容は大方予測できていた。

定刻通りやってきた佐渡は選手、スタッフが全員いることを確認して、

「昨日、上坂監督から辞任の申し出がありました」佐渡は生気を吸い取られた顔を浮かべながら、ぼそぼそと呟くように話を続ける。

「考え直すよう必死に説得しましたが、本人の意思は固くそれに応じることになりました。後任についてオーナーと話した結果、現場にいる人たちで決めてほしいそうです。……ちなみにですが、僕はやりたくありません。コーチ陣もやりたくないそうです」

念を押す佐渡に、隣にいるコーチ陣もうんうんと頷いている。

茫然とする選手たち。あまりにも急な話だったので、混乱している。

「それってつまり選手のなかから監督を決めろってことですか?」星は冷静だった。

「そうなるね」

「なるね……じゃねぇだろ!」

佐渡の態度が気に入らなかったのか、安宅は席を立って啖呵を切った。

「どう考えたってコーチから監督を決める方が理にかなっているだろうが」

「いや、ほら……僕たちは上坂監督みたいに知名度がないから。逆に選手が監督をすればメディアも取り上げやすかなって……ちなみにオーナーも同意見でした」

「ふざけんじゃねぇぞ!」

安宅は佐渡に飛びかかった。

佐渡の胸に手がかかるすんでのところで周りのコーチや加治屋が止めに入る。

「安宅! 落ち着けって!」

「無責任にもほどがあるだろ! 選手が監督なんてやってたら試合に集中できねぇだろうが!」

安宅は押さえられてもなお、佐渡に飛びかかろうとする。

安全な場所まで距離をとった佐渡は反論する。

「僕じゃなくてオーナーに文句を言ってくれ!」

「だいたい、選手のなかで監督できそうな奴なんていねぇだろ!」

「……実はオーナーから言づけを受けてて。もし、選手のなかで手を挙げる者がいなければ推薦したい人がいるって」

「誰だよ」

「加治屋だ」

選手一同の視線が加治屋に注がれた。

突然の指名に加治屋の頭のなかは真っ白になった。安宅を押さえる力も弱まり、安宅は勢い余って倒れそうになる。

「俺ですか?」加治屋は言った。

「オーナーからの指名だ。やってくれるね」

「いや……話が急ですよ」

「俺もカジさんがいいと思います」皆川は言った。

「なに言ってるんだよ。俺が監督なんて誰も納得しないだろ」

なぁ、と星に同意を求めたが、皆川と同じ意見のようで、

「俺はいいと思う」

他の選手たちも頷く。

話がまとまりかけたが、加治屋は慌てて反論する。

「みんな待ってくれよ。自分がやりたくないからって人に押しつけるのはどうかと思うぞ」

「別に貧乏くじをお前に押しつけてるわけじゃない。お前が思っているより、ここの奴らはお前のことを信用してるし尊敬してるんだぞ」

星の説得に加治屋は抗議を続ける。

「俺だってプレイヤーだぞ。安宅が言ったとおり、試合に集中できないかもしれないし……」

「そうならないよう、コーチ陣が最大限サポートする」佐渡は言った。

「……本気ですか?」

加治屋の問いかけに誰も応えなかった。沈黙が選手とコーチ陣の意志を表していた。

加治屋自身、監督になること自体に抵抗はなかった。だが、選手としての活躍の場を奪われる不安の方が大きかった。もしかしたら、最後のシーズンを棒に振るかもしれない。

「……少し考えさせてください」

考えはまとまらなかった。今すぐ決断を下すにはあまりにも重すぎた。

「そうだな。少し考えてみてくれ。ちょうどいいことに、しばらくボランティア期間に突入するからな。後期リーグが始まる前までに決まればいいから」

わかりました、と返す加治屋。

と、皆川は一つ疑問を投げかけた。

「すいません。ボランティア期間って何ですか?」



前期リーグは善戦したものの、ビリオンスターズは三位に終わった。上坂監督の退任は、チーム内に薄くぼんやりとした――靄のような不安感を拡散させた。

選手やスタッフが受けた衝撃は計り知れないが、上坂監督の退任劇は地方紙のスポーツ欄で小さく扱われた程度の出来事であった。

ビリオンスターズは予定通り、ボランティア期間に移った。加治屋、星、皆川の三人はボランティアの一環として小学校を訪問して、小学生相手にボールの投げ方を教える予定になっている。

定刻まで少し時間があった。控え室では何も知らなかった皆川に一から説明していた。

「ボランティア期間についてちゃんと説明は受けなかったのか?」加治屋は問う。

「聞いてましたけど忘れてました」

加治屋は呆れてため息を漏らす。

「……うちのリーグは前期と後期で別れて試合をしてるのは知ってるよな?」

はい、と皆川。加治屋は話を進める。

「その前期と後期の間に一ヶ月間試合がない期間が存在する。その期間のことを俺たちはボランティア期間と呼んでいる」

「今日みたいに野球を教えるんですよね」

「そうだ。それ以外にも、農作業の手伝いや学校や病院に行ったりする。……もちろん、無償でな」

「……一ヶ月間ずっとですか?」

「ああ。中々、過酷だぞ。ボランティアだから、ずっと愛想よくしなきゃいけない」

「さすがに野球の練習はできますよね?」

「できるぞ。ボランティアが終わってからだが」

「……俺たちって本当にプロ野球選手なのかわからなくなりそうです」

独立リーグが地域密着を主たる目的の一つになっている以上、地域貢献は一つの成すべき仕事だ。しかしながら、一ヶ月間もの期間を野球をせずに過ごすのは選手にとっては大きなストレスとなっていた。

と、学校の教員に呼ばれ、三人は運動場へ向かった。

百名ほどの小学生を前に軽く自己紹介を終えたあと、ボールの投げ方の指導を始めた。

デモンストレーションとして加治屋と星のキャッチボールから始めた。キャッチボールの距離を次第に広げていくうちにつれて、子供からの歓声が大きくなっていく。

加治屋も星もボールを投げる力は一般の男性よりも遥かに上だ。独立リーグの選手だから大したことはないだろう、と高を括っていた子供たちの信頼を充分得たので、三人は本格的な指導に移った。

子供たちの指導を終え、一緒に給食をとったあとに一時間ほどの座談会を行った。

今日の仕事を全て終えた三人は控室で休憩していた。

「星さんも加治屋さんも教えるの上手ですね。特に加治屋さん」皆川は言った。

「そうか?」

「そうですよ! ……俺の説明が下手だから言うこと聞いてくれないし。最後の方なんか俺の担当の生徒が加治屋さんのところに行っちゃうし……」

星も加治屋も笑った。

「慣れだよ」加治屋は言った。

「……慣れですか?」

「俺も星も何回も子供相手に野球を教えてきたからな。運動に覚えのある子には遠くに投げる技術を教えて、運動が苦手な子にはまず腕を振ってボールを離すことを教えるんだ」

「なるほど。勉強になります」

と、星は不自然にお腹をさすりながら、

「それはそうと腹がへったな。……確か先生からの差し入れがあるんだったっけ」

じゃ、とってきます、と席を外した皆川は職員室へ向かった。

控え室では加治屋と星の二人きり。人払いを済ませた星はさも自然を装い話を切り出した。

「ところで監督の件なんだけど――」

「考え中だ」

「そんなに邪険にしなくてもいいだろ。……その様子じゃ真田さんにも話してないだろ」

図星を突かれた加治屋は口を噤む。

星は察した。

「やっぱり一人で抱え込んでたか。誰かに相談してもいいんじゃないのか?」

「……自分で答えを出したかったんだよ」

監督を請われてから一週間は経過していた。

言いづらかったから相談しなかったわけではない。加治屋本人が自分で解決できる問題だと思ったから誰にも話さなかった。

しかし、結論は出ていない。

「お菓子と飲み物もらってきましたよー。……あとこれも持ってきました」皆川は菓子折とペットボトル飲料を抱え、一枚の紙をひらひらと見せる。

「それは?」

「今後のスケジュール表です。食べながら見ましょう」

お菓子をつまみながら、三人は紙に目を通した。

皆川はびっちりと詰められたスケジュールを嘆いた。

「本当にずっとボランティアするんですね……」

「さっき加治屋が説明したじゃないか。……次は彗聖病院でお話会か。喋るの苦手なんだよなー」

「ここって――」加治屋のお菓子を食べる手が止まる。

「どうかしたのか?」星は尋ねた。

「恭子が勤めてるところだ」



「お話会? 知ってるよ。明日だよね」

小学校から帰宅した加治屋。

家に着いた頃にはちょうど朝番から帰ってきていた真田が食事を作り終えていた。肉じゃがやお吸い物、手の込んだ料理が机に並べられている。仕事柄、夜勤もある真田だったが、今日は二人で食事ができそうだった。

「やっぱり知ってたか」

「当たり前でしょ。勤め先での出来事には耳ざといんだから。それにそのイベントの雑用係を任されてまして。私もスタッフとして参加することになってます」

「……話しづらいな」

真田は悪戯を思いついた子供のように笑った。

「楽しみだなー。ちゃんと噛まずに喋れるのかなー。動画撮影は必須だよね」

「……今日のうちに話すことを考えておくよ」

とは言ったものの、スケジュール表には〝お話会〟としか書かれておらず、何の話をすればいいのか分からなかった。今日、小学生の前で話した内容を使い回そうと加治屋は目論んだ。

食事を終え、真田は食器を洗い始めた。

〝その様子じゃ真田さんにも話してないだろ〟、加治屋は星に言われたことをふと思い出す。

監督要請の件。改まって話すには空気が重くなりそうだ、と加治屋は冗談とも本気とも受けとれる曖昧さで尋ねた。

「俺がビリオンスターズの監督になるって言ったら信じる?」

「監督って何するの?」

改めて聞かれ、加治屋は少し考えた。

「チームを勝利に導くために選手の起用を考える人かな」

「へぇ、偉そうだね。役職手当とか出るの?」

「給料は変わらない……はず」

監督になるかならないかで頭がいっぱいで待遇面のことを考えていなかった。もっとも、佐渡が言わないということは期待すべきではないだろう。

「それって選手をやりながらできることなの?」

「できなくはない」

「じゃあ、やればいいじゃん」

「軽いな」

「カジくんが助けてあげなよ。長いことお世話になってる球団でしょ?」

「お世話に……か」

球団に在籍して四年目を迎える。不満なことは確かにあったが、それでも続けることができた。球団への恩義はある。だがそれは自分の持っている時間を削ってやることなのだろうか。

翌日、彗聖病院を訪れた。派遣されたのは加治屋、星の二人。

病床数五百はくだらない大病院のホールでお話会は行われる。百ある座席はほぼ満席状態。こういった催し物は院内にいる患者の数少ない娯楽として人気があった。

真田は選手の紹介を始める。

話の内容は後期リーグに向けての抱負だったりと、当たり障りのない内容で加治屋も星もこの手のイベントには慣れていた。

滞りなくイベントは進行し、最後の質問コーナーに移った。

質問の受け答えも上々でウケもよく、加治屋と星は成功を確信した。

と、

「独立リーグはJPBの三軍レベルって本当か?」

幼く声音の高い声が耳についた。

声の主は十代前半の少年。JPB傘下のプロチーム――読切軍の野球帽を被り、車椅子に座っている。

そうだねぇ、と星は、

「実力ならそうかもしれないけど、野球にかける情熱なら負けてないね」

「やっぱり、独立リーグって野球が下手な奴の集まりじゃん」

笑ってごまかす星。

だが、加治屋は話に乗った。

「じゃあ見てみるか」

「見るって?」

「俺の全力投球を一回受けてみなさい」

加治屋、と星は止めたが、加治屋も帽子を被った少年も乗り気だった。

「いいよ。それじゃあ、近くのに公園があるから。そこで投げてよ」

「わかった……ところで君の名前は?」

「吉井大」

将来の夢はプロ野球選手と付け加えた。

病院近くの公園。

吉井のいる病院患者の行きつけの場所だ。歩く道もきれいに舗装され、患者衣を着た人をよくみかける。

公園の一角には芝生がはられて、キャッチボールができるスペースは十分にあった。加治屋は吉井から二十メートルほど離れて対峙した。

話を聞いていた他の患者も離れた場所で様子を伺っていた。

「まさか本気で投げたりしないよな?」星は耳うちした。

「本気だ」

「相手は子供だぞ」

「将来の夢が野球選手の子供に手を抜くほうが失礼だ。……大丈夫、大けがするほど速い球じゃない」

「さっさと投げろよ」吉井は急かすようにグローブを叩く。

「グローブは動かすんじゃないぞ」

加治屋は振りかぶって投げ込んだ。直球は吉井のグローブに寸分の狂いなく収まる。

JPBのレベルでは物足りない百三十キロの速球。だが、吉井の目には剛速球に映った。

「すげぇ!」吉井は車椅子を必死に漕いで近づいてくる。

「いい球投げんじゃん! こんなに速いならすぐJPBにいけるよ!」

「俺の実力、わかってくれたか」

「うん! それでさ、お願いがあるんだけど……」

「何だ」

「野球、教えて欲しいんだ」

「……それはできない」

「どうして?」吉井は呆気にとられる。

「プロ野球選手は個人的な理由で野球を教えちゃいけないんだ」

「ビリオンスターズってプロ野球チームだったの? てっきりプロ野球もどきだと思ってた」

「もどきって……歴としたプロ野球チームだ」

「じゃあ年俸いくら?」

痛いところを突かれた加治屋は言葉に詰まる。

少し考えた後、表現を濁した。

「JPBの二軍選手の三分の一くらい」

「少ないね」

「給料が少なくてもプロはプロなんだよ!」

「そんなプロは嫌だな。……あーあ、野球教えて欲しかった」残念がる吉井。

申し訳なく思った加治屋は、

「指導はできないけど俺のプレイを見て技術を盗め。星! さっそくキャッチボールだ」

「俺もするのかよ」

「当たり前だ。相手がいないとキャッチボールできないだろ」

その後、小一時間ほどキャッチボールを続けた。遠くで眺めていた患者たちは大事にならなくて安心したのか、もう一人も残ってはいなかった。

吉井だけが二人のキャッチボールをいつまでも眺めていた。



病院の帰りに山野食堂に寄った加治屋は夜遅くに帰宅した。

家のドアを開けると、しかめっ面した真田に手を引っ張られリビングに連れ込まれた。

「子供相手にムキになってどうすんの! 相手は怪我人だよ!」

「いや、あれは……」

お話会の後のことを怒っているのは察しはついた。

「本当はリハビリの予定が入ってたのに大君、病院に帰ってこないし!」

「悪かったよ……ところで大はどこを怪我してるんだ?」

「二週間前に交通事故でね……一命はとりとめたけど体がボロボロだったらしいの。詳しくいえば頭の裂傷に四十針縫って、背骨は何十ヶ所も剥離骨折。肺も潰れて肋骨は四本折れて――」

「それ以上はいいよ」

加治屋は話を止めさせる。聞いているだけで気分が悪くなってきた。

「大君はリハビリをちゃんとやればまた野球ができるようになるから。今、彼に必要なのはリハビリを続ける体力と挫けない心だから」

「……そうだったのか」

「それにしても驚いたよ。大君ってあんまり人に懐かないから。いくら私が元気づけでもダメだったのに、病院に帰ってきたらカジくんの話ばっかりしてるから」

「喜んでもらえて嬉しいよ」

あのさ、と真田は神妙な面持ちで言った。

「お願いがあるんだけど」

「なに?」

「今後も大君のこと様子みてほしいんだ」

「俺がか?」

「うん……あのね吉井君ってリハビリをサボる癖があるんだけど、カジくんからリハビリを頑張るよう言って欲しいの」

「俺をダシにしてリハビリさせようと?」

「お願い! 担当の先生にもお願いされてるの」真田は手を合わせて頭を下げる。

ちょうど明日は休日。断る理由もない。

「……わかったよ」

「ありがとう!」

翌日。走り込みのついでに病院へ立ち寄った。この前のようなイベント事はなく、看護師は忙しく働いている。誰も加治屋のことには気づかない。

受付で吉井の病室を聞くと、今はリハビリ中で病室にはいないらしい。加治屋はリハビリルームまで案内してもらった。

年配者が多いなか、小学生の吉井はすぐにわかった。平行棒にしがみついて、歩く練習をしている。歩く感覚を確かめるように、一歩一歩、ゆっくり歩いている。

「その帽子……」

吉井が被っていた読切軍の帽子はビリオンスターズの帽子に変わっていた。

思わず漏れた声に吉井は気づき「よう!」と車椅子に乗って近づいてくる。

「今日はどうしたんだよ」

肩にかけたタオルを使って、汗でべっとりと濡れた顔を拭う。きっと、痛みからくる発汗なのだろう。加治屋は労いの言葉をかけようとしたが止めた。必要ないと思ったから。

「リハビリの様子を伺いにな。順調なのか?」

「実は昨日までずっとサボってたんだ。けど、俺も加治屋みたいな速球投げてみたいから。だから、早く怪我を治して野球の練習しないと」

「そうか……。ところで、その帽子は買ったのか?」

「これか?」吉井は帽子のつばをぎゅっと握る。

「あの後すぐに母さんに買ってもらったんだ。本当は加治屋のグッズを買ってもらうつもりだったんだけど、一つもなかったから」

「あはは……」

ビリオンスターズの物販ではJPBのチームと違い、選手それぞれの名前の入ったレプリカユニフォームは売っていない。

汗を拭う吉井は話を切りだした。

「……監督にならないの?」

「どうしてそのことを?」

「真田さんから聞いた。……加治屋が監督になって優勝すればいいじゃんか」

「俺はただの選手だ。監督に向いてるかなんてわからないし、ましてやチームを率いる自信なんてないよ」

「母さんが言ってた。一生懸命にやれば何事もうまくいくって。……加治屋はただの選手じゃないよ。俺が認めた最高の選手だから!」

「大……」

「それじゃ、俺はリハビリに戻るから。加治屋も練習がんばれよ」

吉井は平行棒へ向かった。

帰る途中。病院のフロントで真田を見かけた。加治屋と同じタイミングで真田も気づいた。

「どうだった?」真田は駆けよった。

「俺の出番はもう無かったよ。むしろ、俺が元気づけられた」

「どういうこと?」

「俺は最高の選手だからなんだってできるんだよ」

翌日。加治屋は集合時間より早く高原スポーツ広場に着いた。グラウンドを歩いていた佐渡に簡単な挨拶をしてから本題に入った。

「あの……佐渡さん、監督の件なんですが……」

「そのことなんだけどな。下村さんが直接お前と話をしたいってさ」

「え?」

「球団事務所の場所はわかるよな? 今日の農作業の手伝いは後からでいいから。今から行ってきてくれ」

「……わかりました」

球団事務所は高原スポーツ広場から近く、車で十分とかからない。

何年か前に破産した会社跡に建てた事務所。年季の入っていた外壁は黄ばみ、不気味な印象を与えていた。

事務所前の駐車場に車を停めて、加治屋はなかへ入った。

暗い事務所内。閉め切られたアルミの鎧戸の隙間から陽光が漏れている。職員は出払っており、一人もいなかった。空調の稼働音がやけに耳につく。

部屋の一角にある社長室の明かりは灯っている。加治屋は失礼します、とノックしてから入った。

黒革のロッキングチェアに座る下村は応接用の椅子に座るよう促した。

「ボランティア前にすまないね」

煙草をふかしていた下村は灰皿に煙草を押しつけた。燻る紫煙のとぐろは換気扇のダクトへ昇り、霧散した。

「決心がついたんだね?」

「監督をやらせてください」

「……お願いしたのは私たちだが、受ける理由を聞いてもいいかな?」

ずっしりと構える下村に加治屋は緊張感を覚えた。

「今までJPBのプロを目指すのに精一杯で、ビリスタのことを一つも考えていませんでした。今、俺がチームにできることっていったら、監督になることかなって。……最期のシーズンになるかもしれんませんが、頑張らせていただきます」

「そうだったな、君は今シーズン限りで――」

「はい」

下村は敢えて明言を避けた。下村なりの気遣いで、加治屋も察することができた。

「実を言うとね、私はBSリーグの定年制に賛同しているんだ。独立リーグのレベルを上げるのではなく、野球選手を志す若い人にチャンスを与える場となった方がリーグのため、強いては野球界のためだと思っているからだ」

「俺が定年になるまでこのチームにいるのも、スカウトの目に留まるようなプレーができていないから」

「その通りだ。……つまるところ、独立リーグは人気も実力もJPBを越えるようなことはあってはならない。しかし、独立リーグがこの先発展していくにはもっと違う価値を求めていかなければならないとは思っている」

すまない、と下村は謝った。

「少し関係のない話をしてしまったね。……監督の件、了解したよ。君ならうまくやれる」

「ありがとうございます」

存外、呆気なく決まった。もとより、先方から監督の打診を受けていた以上、断られる理由はなかった。

それでは、と立ち上がった加治屋を「待ちなさい」と下村は留めた。

「新監督の君に朗報がある。今日から新戦力が加入することになった」

「今日からですか?」

「入ってくれ」

社長室のドアが開いた。

入ってきたのは二十代後半の男。上質な灰色のスーツを着ている。スーツから浮かび上がるがっしりとした体つきは安宅と同じような体格だ。それでも、相手にスマートな印象を与えている。過度な筋肉をつけずに鍛えた証だ。

「先程まで契約について話し合っていたんだ。彼はウチのチームの救世主となる人物だよ」

「久しぶりだな、加治屋」男は言った。

「松戸さん……」

「知り合いなのかい?」

「ええ、まあ……」

「これから入団会見を開くからね。大忙しだよ!」

下村は松戸を連れて外へでていった。

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