第二章

「昨日の試合のこと新聞に載ってるよー」真田は地元紙のスポーツ面を見つけた。

昨日の試合の疲れが残っているなか、加治屋は重い瞼を開く。紙面にはマウンドでボールを放る加治屋の姿があった。

きれいに映ってんじゃん、と真田も紙面を覗きこむ。

真田のことは気にとめず、紙面に連なった記事を読み進めていく。加治屋の投球が勝利を呼び込んだと書かれていた。

「……なんでニヤニヤしてんの?」真田は言った。

「我ながらインタビューにうまく答えられたと思ってな」

「勝ち投手になると扱いが違うからね」

「そう考えると、先発の星は紙面に載りやすいよな」

真田はうんうんと頷く。

「やっぱり、ピッチャーの花形は先発だね」

「否定はしない」

「私の彼氏は地味な中継ぎ投手なんです……」

「……悪かったな。地味で」

嘘嘘、と謝る真田。

客観的にみても中継ぎ投手は目立たない。スカウトからの評価を得なければならない身としてはやりたくないポジションだ。

だが、先発投手の調子が悪いとき、疲労しているとき、後ろの回を任される中継ぎ投手はチームに欠かせない存在である。加治屋は中継ぎ投手の役割にやり甲斐を感じていた。

「今日も試合?」

「ああ」

「独立リーグって試合があったりなかったりするからわかりづらいんだよね」

「使える野球場は限られてくるからな。高校野球や社会人リーグと日程が被らないようにしてるから」

「なんだかヤドカリみたいだね」

「……そろそろ練習に行く準備しなきゃな」

そういえば、と真田。

「再来週の日曜ってオフだよね?」

「そうだけど」

「久しぶりに買い物に行かない?」

オフの日は身体を休めるか、自主トレーニングをするかのどちらか。真田も加治屋のことを慮って気軽に遊びに誘うことはしない。が、今回はどうしてもということなのだろう。

「……そうだな。いくか!」

「うん!」

開幕戦も終え、これから長いリーグ戦が始まる。JPBと比較して試合数は二分の一程度になるが、シーズンの進み方はJPBと大差ない。

今日のアンダーグース戦の先発は星。勝ち星はまだ挙げていない。

星はブルペンで調整していた。捕手を座らせ、直球と変化球を織り交ぜて球筋を確認する。いつにも増して力が入っていた。

気になった加治屋は、

「あんまりとばすと試合でバテるぞ」

「……それもそうだな」

星はクールダウンも兼ねて数分間、キャッチボールをしてから投球練習を終えた。

「いつもより気合い入ってないか?」

「ここで過ごす最後のシーズンだからな。納得いくものにしたい」

頬を緩ませる加治屋。

「変なこと言ったか、俺?」星は尋ねた。

「いや、星の真剣な顔をみたらおかしくなってな」

「ひどい奴だな。普段は不真面目かもしれないけど野球に関しては真剣に取り組んできたんだぞ」

「わかってるよ」

加治屋の心配は不要だった。

試合中の星の投球は安定していた。走者を出すものの、要所は抑えている。

さすがビリオンスターズのエースだ。これまでにもBSリーグの最多勝や最優秀防御率のタイトルも獲っている。が、JPBからの誘いは未だにない。

それでも腐ることなく、星はアンダーグーズ相手に熱投を繰り広げている。

「いい感じだな」

試合は後半にさしかかった。ビリオンスターズが五点リードしまま八回の裏の守り。残す回は二回あるが、このまま星が最終回まで投げる勢いだ。

加治屋はブルペンから星の投球を眺めていた。

と、

「へたくそピッチャー、野球舐めてんのかー!」

バックネット裏から舌を巻いた声が聞こえてきた。男がバックネットを両手で鷲掴んで激しく揺さぶっている。

野次だ。

JPBといった何万人の観客がいる球場なら一人や二人いてもおかしくはない。

しかし、数千人しか観客がいない場所での野次は珍しい。観客が少ない分、野次の声は球場に響いていた。

今日の星は完璧に抑えている。相手チームのファンの嫌がらせだと察しがついた。

「……乱れ始めた」加治屋は呟く。

野次が騒ぎ出してから、星の制球は定まらなくなってきた。

さきほどまで四球を出さなかった星が一転、三者連続で四球を出して満塁のピンチを招いた。星は試合のことよりも、騒ぐ野次を気にしていた。

投手交代が告げられる。

マウンドへ上がる加治屋は星からボールを受けとる。星は俯き終始無言のまま、駆け足でベンチに下がった。



ビリオンスターズ対アンダーグーズ。

五対三でビリオンスターズの勝利。

試合には勝利した。しかし、星の投球を不審に思った加治屋はベンチ裏で星を咎めた。

「どうしたんだよ今日の試合。野次があってからコントロールが乱れてたぞ」

「すまない」

星の顔色が悪い。

いつもより白く、げっそりとして頬骨が尖ってみえた。追求する加治屋は心苦しさを感じたが、止めなかった。

「野次は気にならない方だって自慢気に言ってたじゃないか」

「……知り合いだったんだよ」

「野次ってた奴がか?」

「同じ高校の野球部だった」

名前は土橋といって星の元チームメイトらしい。

ますます加治屋の疑問は募る。

「なおさら理解できないな。なんで元チームメイトが星を野次るんだよ?」

「チームメイトって言っても三ヶ月だけだ」

「え?」

「……俺さ高校のころ野球部に入ってたんだけど、上下関係が嫌になってすぐにやめたんだ」

上下関係に悩んだのは加治屋も同じだった。

学年が一つ違うだけ天と地ほどの扱いの差があったことを。体育会系を理由にして理不尽を振りかざされたことを。

加治屋は星の境遇を慮った。

「辞めた理由は土橋だったのか?」

「土橋は嫌がらせをする先輩の一人だった」

星の額からの汗が止まらない。登板の疲労だけではなく、精神的に参っている様子だ。

「俺は野球部に入部したときから他の部員よりも身長も高かったから監督に気に入られてさ。それが気に食わなかったんだと思う。気づいたら先輩からの嫌がらせが始まってた」

「……許せないな」

「いや、何も言い返さずに嫌がらせが終わるのを待ってた俺も悪い。結局、逃げ出すことしかできなかった」

「そして、また嫌がらせをするために現れた……と」

星は無言を貫く。これ以上の言及はしなかった。

「これからどうするんだ? あの様子だとまたくるぞ」加治屋は言った。

「とにかく、意識しないよう頑張ってみるよ」

「…………できるのか?」

「俺を誰だと思ってるんだよ。ビリスタのエースだぜ」

語る星の顔は引きつっていて、無理をしているのは加治屋にもわかった。



「野次なんてよくあることじゃないですか」

翌日の練習日。加治屋は皆川を山野食堂に呼び出して、星の野次について話をした。

「どうにかしてやりたいんだ」

「どうにかって……来るかも分からない野次のことなんてどうしようもないですよ」皆川は加治屋に比べて冷静だった。

「星の登板に合わせてきているに違いない」

「そうかもしれませんけど……」

星の登板した日を境に土橋は姿をみせていない。来週、星が登板する日に土橋が来ると加治屋は当たりをつけていた。

「……もし、土橋がまた野次ってたら話をつける」

「それはまずいですって!」

「大丈夫。俺一人でやるから」

「話をつけるって……直接ですか?」

「そうだ」

「そうだ……って、ファンとのいざこざは御法度ですよ」

「それなら僕がとっちめてあげるよ!」山野は言った。

「余計にややこしくなるからやめてください!」

皆川に静止され、肩を落とした山野はそのまま店の奥に引っ込んでいった。

「俺たち選手が解決することじゃありません。球団の人にどうにかしてもらった方がいいですよ」

諭す皆川だが、加治屋の決意は固かった。

「そんな生温いやり方じゃダメだ。結局、解決しない」

加治屋の形相に気圧されたのか皆川は身を引いた。

「……どうなっても知りませんよ」

翌週。今日の先発は星。シークレットサービス然り、周囲を警戒している加治屋に皆川は声をかけた。

「加治屋さんは気にしすぎですって」

加治屋は皆川に目もくれず警戒を怠らない。試合前の練習を眺めている観客を一人一人吟味している。

と、

「きてる」

黒色の運動服を着た男。野球帽を被り、がっちりとした体つきで缶ビール片手にバックネット裏に座っている。

人相は前に訪れたときに覚えている。土橋に間違いなかった。

「それじゃ行ってくる」加治屋は言った。

「待ってください!」

皆川は加治屋の腕を引っ張った。かなりの力だったので、加治屋も足を止める。

「今から試合じゃないですか! 騒ぎを起こして試合に影響したらどうするつもりですか。それにまだ野次ってる訳じゃないし……」

皆川の言い分はもっともだった。同時に、加治屋は頭に血が上っていることに気づく。

「それなら話をつけるのは試合後にする」

「……暴力沙汰はダメですからね」

試合に備え、二人はベンチに戻った。

定刻通りに試合は始まる。土橋はビールを煽るだけで騒ぐ気配はなかった。

今日の星も安定した投球内容だった。要所で抑えて、相手に得点を許さない。星の活躍に呼応するかのように、土橋の眉間に皺がより、機嫌が悪くなっている。

加治屋は試合そっちのけで土橋に注目していた。

攻守交代の折、ベンチに戻る星は「加治屋」と声をかけた。

「どうかしたのか?」

「何でもないよ。あはは……」バックネット裏を注視していた加治屋は急いで視線を戻す。

「今日は調子がいいからかなり投げれそうだ。加治屋の出番はなさそうだな」

「そうかもしれないな」

星はそのままベンチの奥に座り、汗を拭う。

試合に集中している星は幸いにも土橋の存在に気づいていない。加治屋は肝を冷やした。

「気づいてないみたいですね」皆川は耳打ちした。

「ああ。このまま何事もなければいいけど」

そんなはずはなかった。

バックネット裏にいる以上、どうしても星の視界に入ってしまう。五回の守りに先頭打者を四球で塁に出すと、前回の試合同様、四球を続けて満塁のピンチに陥っていた。

星のピンチを煽るように土橋は声を荒げる。火に油を注ぐかのごとく、星の投球は乱れていった。

ブルペンで肩をつくる加治屋は試合を壊していく星を眺めるしかできなかった。

「何やってんだよ……」



ビリオンスターズ対グラサンシローズ。

二対六でグラサンシローズの勝利。

加治屋はファンの見送りには参加せず、土橋を探した。

すでにバックネット裏に姿はなかった。球場の外を捜していると、土橋はすぐに見つかった。

「おい」

振りかえった土橋の見た目は年相応に若々しい。

加治屋の声は怒りを抑えきれておらず、土橋もそれを感じとったようで機嫌を悪くした。

「誰だお前?」

「星のチームメイトの加治屋だ」

「ただのチームメイトが俺になんの用だよ?」

「野次をやめろ」

土橋は目を見開いた。

ちょっとした後、大口を開けて笑い、加治屋を囃し立てた。

「野次なんてよくあることだろ?」

「なんで元チームメイトのあんたが野次をしてるんだよ!」

「……お前には関係ないだろ」

「星が困ってる。だから野次はやめろ」

「指図される筋合いはねぇよ!」

加治屋と土橋との距離が詰まる。お互いが殴ってこいと云わんばかりに視線が交わり、一触即発の雰囲気となる。

「へたくそに下手って言ってなにが悪い」

「下手かどうかは星の球を打ってからにしろ」

「上等だ!」

「加治屋! ストップ!」

すでに胸ぐらをつかみ合っていた二人を星と皆川で引き剥がした。

羽交い締めにされた両者だったが、まだ興奮が収まらない様子で睨み合っている。

「加治屋もういいって!」星は言った。

「このままだとずっと野次られるだけだぞ」

「それはそうだけど……」

「お前も文句があるなら野球で決着をつけろ!」加治屋は土橋を煽る。

「いいぜ」土橋は自信ありげに言い放った。

「来週の日曜日、午後一時に外波グラウンドに来い。そこで星と勝負しろ」

「上等だ」

「急ですよ加治屋さん。野球をやめてから随分経ってますから、体を作る時間あげたほうが……」皆川は言った。

「アホぬかせ。星の球なら今の俺でも簡単に打てる」

羽交い締めにする皆川を土橋は強引に振り払った。

その場を去る土橋の後ろ姿を加治屋たちは見えなくなるまで眺めた。

「やっぱりやめといた方がいいよ」星は言った。

「球団には黙っておくから」

「そうじゃなくて……高校のとき紅白戦で土橋相手にめった打ちにされたことがあるんだ」

「昔と今は全然違うだろ」

「俺の高校の野球部は部員が百人以上いたけど、そのなかで土橋は一年生からレギュラーを勝ちとったやつだぞ」

星が通っていた高校は誰もが知る甲子園常連校だ。そのなかで一年生からレギュラーだったのだから、相当な実力者なのだろう。

加治屋は返事に窮した。

だが、

「これは土橋を追い返すチャンスだぞ! 自分より野球が上手い奴と勝負して勝てないようじゃこの先やっていけるわけないだろ!」

大人になってから過去のトラウマと向き合うのは辛い。野球をやめてしまえば、思い出すこともなかったはずだ。約束の日まで猶予はある。それまでにトラウマを乗り越える覚悟が星にはあるのだろうか。

「わかった。やってみるよ」

勝負の日を迎えた。

昼食をすませた加治屋はすぐ野球のユニフォームに着替え、外に出ようとした。が、真田に引き止められる。

「ユニフォームなんか着てどこ行くの?」

「ちょっと用事があって……」

「今日は買い物に付き合ってくれるんだったよね」

「あ」

そうだった、と後悔しても遅い。加治屋が頭のなかで言い訳を考えるよりも先に真田は尋ねた。

「もしかして野球?」真田は怒っていなかった。

「なんでわかったんだ?」

「ユニフォーム着てるし」

「……その通りだ」

「……断れないの?」

「すまん! 今日は外せない日なんだ」

「そう。私より野球が大事なんだ」

「そういう訳じゃ――」

「冗談。……この埋め合わせをきっちりしてくれるなら許してあげる」

「必ずする。それじゃ、行ってくる!」加治屋は理解ある彼女に感謝した。

目的地は市内にある外波グラウンド。

整備はほとんど施されておらず、内野には石が転がり、外野には雑草が生い茂っている。野球をする環境が整っているとはいえない。

だが、今日使用するのはマウンドとバッターボックスだけなので、他はどうでもよかった。

加治屋と星が到着した後に土橋が現れた。土橋の母校、ひいては星の母校でもある高校のユニフォームを着ている。

「逃げたのかと思ったぜ」加治屋は言った。

「こんないい機会逃すわけねぇだろ。さっさとケリつけてお前は野球なんかでメシは食えないってことを教えてやる」

「……どうしてそこまで星にこだわる」

「お前には関係ぇねえよ」

「俺が勝負に勝ったら教えてくれ」黙っていた星は口を開いた。

「いいぜ。その代わり俺が勝ったら野次は続けるからな。へたくそにうさ晴らしするのも悪くねぇからな」

「どれだけ糞野郎なんだ……!」

いい、と星は加治屋を止める。

「始めよう」

ルールは三打席勝負。ヒット性の当たりを打つことができれば土橋の勝利となり、それ以外の結果ならば星の勝利だ。

審判及び捕手は加治屋が務めることになった。

第一打席に入る前、土橋はスイングの調子を確かめるようにバットを数回振ってから打席に入った。リラックスしている様子の土橋に対して、星は緊張しているのか顔を強ばらせている。

「プレイ」加治屋のかけ声とともに星は第一球を投じる。

初級はボール。ストライクゾーンからかなり離れていた。完全なボール球だったので、土橋も見切っていた。

続く二球目もボール。

「緊張する場面になると制球が定まらないのはまだ直ってないな」土橋は呟く。

三球目。ストライクゾーンに入ってきた球を土橋は捉えた。快音とともに速い当たりが星を襲う。

が、土橋の打球は星のグローブに収まった。

「ピッチャーライナー」加治屋は言った。

「まだ二打席ある」

土橋のバットを振る速さは確かに独立リーグの選手にひけをとらなかった。強豪校のレギュラーだったことも頷ける。

続く第二打席目。

土橋は初球のカーブを引っ掛けて、遊撃手ゴロとなった。星の変化球を待っていたらしいが、予想以上の球のキレに対応できなかった。

星の高い身長から放たれるボールは一、二打席立った程度ではヒットを打つのは難しい。せいぜいバットに当てるのが精一杯だ。

土橋の息づかいが荒くなっている。リラックスしていた表情は影をひそめ、焦りが見え始めた。

もう、土橋が知っている星の投球ではない。二十六歳になるまで野球を続けてきた星は着実に力をつけていた。独立リーグ最多勝投手のタイトルは伊達じゃない。

あと一打席。加治屋はキャッチャーマスク越しに星へ微笑んだ。

変化球を捉えきれていない土橋にカーブを二球続ける。二球ともバットに引っ掛けてファウルした。

追い込まれた土橋にテンポよく三球目を投げた。

内角のストレートを詰まらせた。ボールは高々と空へ上がり、点にとなる。やがて、降下とともにボールは姿を現す。

グローブを掲げた星は捕球した。投手フライ。

三打席とも凡退に終わった。

土橋はマウンドにいる星を睨んだまま、動かなかった。

「なんで執拗に嫌がらせをしてたんだ?」加治屋はキャッチャーマスクをとった。

「……気にくわなかったんだよ。いい歳して野球してる奴がよ」土橋はバットを放り投げる。

「俺だって大学まで野球を続けてたさ。東京の六大学リーグでもレギュラーで、スカウトも挨拶に来てくれた。けど、プロにはなれなかった。そのまま、普通の会社に就職した後、星のことを聞いた。高校野球から逃げ出した奴がまだ野球やってるって……何試合か見させてもらった」

語る土橋の表情にはこれまでの陰険さは全く感じられなかった。追悔の念を露わにしている。

「高校の時に比べるとめちゃくちゃ巧くなっててびっくりした。……なんでだよ! なんで高校野球から逃げたお前が野球を続けられてるんだよ!」

「逆ですよ」星は冷静だった。

「は?」

「野球から逃げたのは土橋さんの方じゃないですか。独立リーグに入れる実力があるのにどうして野球を続けなかったんですか?」

「そりゃ――」

虚を衝かれた土橋は苦し紛れに答えた。

「独立リーグなんてプロになれなかった奴の寄せ集めじゃないか。そんな所で野球やるなんて恥ずかしくてできるかよ……」

「でも、野球を続けている俺たちのことが羨ましくて仕方がなかったんですよね?」

「そんな訳あるか! そんな訳は……」

段々と自信を失っていく土橋に加治屋は言い放った。

「今後一切、野次はやめるように」

「わかってるよ! くそっ……!」

土橋は去っていった。

人気、実力がある者だけが野球選手になれる――土橋は幻想を抱いていた。

だのに、人気も実力もない星が野球を続けていたのが羨ましくて仕方がなかった。結局、彼は野球を捨てきれなかった。

「また来るかもしれないぞ」加治屋は言った。

「いや、もう来ないと思う。もし、来るとしたらユニフォームを着て一緒に野球をするときかな」

「同じチームだけはご免だけどな」

加治屋は星の肩に手をおいた。

「いいピッチングだったよ。お疲れさん」

「加治屋……」

ありがとう、と星は言った。憑きものがとれたような清々しい表情をしていた。

感謝されると思っていなかった加治屋は、

「俺は審判をしてただけだぞ」

「そうなんだけどさ……大事なことに気づいたんだ」

「なんだよ」

「高校野球は続けなかったけど、野球は続けていてよかったなって。土橋さんを見ていて思ったんだ」

「……そうか」

人通りの少ない郊外のグラウンド。会話がないととても静かだ。しんみりした雰囲気を嫌った加治屋は、

「今から飲みにいくか」

「場所は?」

「山野食堂!」

と、

「やっぱりここにいた」

自転車に乗った真田が遠くから声をかけた。

「よくここがわかったな」加治屋は言った。

「近くで野球できる場所っていったらここだけだし。誰かさんのせいで休日の予定が空いちゃったからさ」

加治屋は愛想笑いするしかなかった。

「これからお昼?」

「加治屋はもう飲むみたいですよ」

星のいらぬ告げ口に真田は顔をしかめた。約束をすっぽかされたうえ、仲間と昼間から飲みいくと言われれば怒るのも無理はない。

「飲むって……まだ昼間だけど?」

「いや……なんだ……勝利の美酒に浸ろうかと思って」

「勝利? 何の勝負をしてたの?」

「野球ゾンビを倒したところだ」

「なにそれ」

「野球への思いを断ち切れずに野球をやめたやつはゾンビになって野球選手に噛みついてくるんだよ」

ふーん、と真田は鼻であしらった。特に興味を惹かれなかったらしい。

「よくわかんない。で、ご飯はどうするの?」

「山野食堂に行こうと思ってる」

そこ知っている、と真田は嬉しそうに返した。

「ビリスタ選手の溜まり場だよね。行ってみたかったけど、機会がなかったからなー」

「溜まり場って言うな。……あってるけどさ」



土橋は勝負の日以来、姿を見せなかった。加治屋は満足げだったが、星は少し寂しそうにしていた。

練習日。練習前にミーティングがあると連絡があった。

高原スポーツ広場の入口で星と鉢合わせした加治屋はミーティングルームへ向かう。

途中、場内の通路で話し声が聞こえた。

「そんなんじゃ困りますよ。タダでスポンサーしてるわけじゃないんですよ」

「仰る通りです」

通路には下村と四十代の男。禿げた頭でずんぐりとした肥満体型の男は下村に詰め寄っていた。

「もっと勝って、もっと見応えのある試合をしてウチの会社を宣伝してください。できないならスポンサー降りますよ!」

「分かっております。……今後もご支援の程、よろしくお願いします」下村は頭を下げる。

男は去っていったが、下村は深々としたお辞儀の姿勢を崩さなかった。

下村さん、と加治屋は話しかけた。

「さっきの人は?」

「ウチのスポンサーのひとりだよ。弱いチームをスポンサードするつもりはないって言われたよ」

現在、ビリオンスターズの順位は三位。よくもなければ悪くもない。

「弱いだなんて……まだまだ、優勝を狙える順位ですよ」星は言った。

「リーグ戦を知らない人からすれば一位以外意味がないらしい。途中経過であってもしてもね」

「無茶苦茶ですよ。それでスポンサーを降りると?」

「あれは葉っぱをかけてるに過ぎないよ。……君たちはそんなことを気にしなくていい。これからも試合に勝ち続けることを考えなさい。そして、ファンに喜びを届けられるよう頑張ること。いいね?」

このことは他の人に言っちゃダメだからね、と念を押した下村は球団事務所へ帰っていった。

「下村さんも大変だな……」加治屋は言った。

「前々から経営は厳しいって噂だからな」

「……本当に大丈夫かな?」

「それを気にするのは経営陣であって俺たちじゃないだろ。……それより早くしないとミーティングに間に合わないぞ」

「佐渡さんからいいニュースがあるってたよな」

加治屋たちがミーティングルームに着いたときには全員揃っていた。普段は投手と野手に別れてミーティングを行うが、全員が揃うのは業務連絡のときだ。

佐渡は腕時計を見て、定時になったことを確認した。

「みんないるな? これより全体ミーティングを始める。といっても、連絡事項は一つだけだ」

佐渡は軽く息を吸い、韻を踏んだ。

「ある選手に密着取材が入る」

選手の反応は薄い。

驚く顔を期待していた佐渡はまごついた。

「どうせ地元局の取材だろ?」安宅は言った。

「いや、今回は全国ネットだ」

ざわつく選手たち。〝全国ネット〟の単語に反応している。

地元局の取材はかなりの頻度で行われるが、全国ネットのテレビ局からの取材は稀だ。

「それって誰ですか?」星は尋ねた。

「マータイだ」

騒いでいた選手らの視線がマータイに集まる。

取材の話はすでに本人に伝わっていたらしく、マータイは照れくさそうに微笑んでいた。

詳しい取材の日程はこれからマータイと球団を交えて話し合うようで、何かあれば協力してやってほしいとのこと。

「取材のせいで俺たちの練習が邪魔されたりしませんよね?」安宅は言った。

「そうならないよう配慮はするつもりだ」

用件を伝え終えたところでミーティングは解散となった。それぞれが練習場へ向かうなか、マータイを取り囲むようにして加治屋たちが輪を作っていた。

「よかったじゃないか、マータイ!」

ケニア出身の選手ということでローカルのテレビ局で取材はこれまでにも受けたことはあった。しかし、全国ネットのテレビ局からの取材は初めて。マータイをはじめ、ビリスタ選手のテンションは高まっている。

あわよくば自分も知名度を上げるいい機会だからだ。

「いつから取材なんだ?」星は尋ねた。

「まだわかんない。これから決めるところ」

「ついに全国ネットで放送か……これで少しはビリスタの知名度も上がるかな」

そのままマータイがJPB入りを果たせばこれ以上にないプロモーション効果が期待できる。スポンサーも大量についてビリスタの経営も落ち着けばこの上なしだ。

「これでスポンサーが降りる話は無しにならないかな」

星の何気ない一言。

加治屋は肝を冷やした。先ほど、スポンサーと揉めていたことは他言しないよう下村から釘を刺されている。

誰も話に乗っかってこないこと祈った加治屋だったが、聞き耳を立てていた皆川は逃さなかった。

「スポンサーとなんかあったんですか?」

変に疑われることを避けた加治屋は話を逸らさなかった。「ここだけの話だからな」と前置きをしてから今朝の出来事を話した。

「ウチのチームってそんなにやばいんですか?」

「ウチだけじゃない。他のチームも自転車操業で大変なことになってる」

「……独立リーグって大丈夫なんですか?」

「赤字をどれだけ抱え込もうが経営を続けてる限り、ビジネスの形にはなる。……まぁスポンサーが一社いなくなったところで経営にそこまで影響はないとは思うけど……」

「それって、スポンサーをやめるのが一社じゃなければビリスタはなくなる可能性もあるってことですよね?」

沈黙。数秒はあった。

しばらくして「さすがに?」「ないない」と突拍子もない冗談だと笑いあった。

だが、赤字続きの球団は簡単に潰れることを彼らは知っている。現に無くなった独立リーグからビリオンスターズに在籍している選手もいた。

「いつまでこんなところにいるんだ。早く練習に向かえ!」

と、佐渡が怒鳴りこんできたところで解散となった。



ミーティングから二週間後。マータイの密着取材が始まった。

ビリスタ選手が球場入りしたときにはすでに多くのテレビ局のスタッフが待ち構えていた。スタッフの数はローカル局の倍以上だ。

試合に向けて練習を始める選手らは落ち着きがなく、そわそわしている。

試合前の練習ではいつもよりマータイに絡む選手が多い。隙あらばテレビに映ろうと必死だった。

と、マータイは選手に囲まれる輪から抜け出して加治屋に話しかけた。

「キャッチボールしよ」

「別にいいけど……あいつらとしなくていいのか?」

「今日は加治屋さんとやりたい」

キャッチボールを始めた二人。その後の練習メニューを消化していくなか、マータイはいつも以上に加治屋に絡んだ。

「次のストレッチも一緒ね」

「……別に気を使わなくていいぞ。テレビは映りたいやつが映ればいいんだから」

「せっかくのチャンス。加治屋さんも映って」

「……そこまで言うなら」

結局、その日はマータイの練習に付き合った。

肝心のテレビの取材は三時間ほど練習風景を撮影してからいなくなった。今日は下見をしただけだった。

「今日から撮影が始まったんだよね?」

練習後、加治屋たちはマータイを連れて山野食堂を訪れた。

店主の山野はマータイの取材の件を知っていた。ビリスタ選手のサロンと化している山野食堂ではビリスタに纏わる情報は筒抜けになりやすい。

「はい。……といってもすぐ帰りましたけどね」加治屋は言った。

「ずっといるわけじゃないんだ」

「日本にいる外国人を紹介する番組なんですけど、野球してるところだけ録れればいいらしいので。次は試合のある日に来るそうです」

「それだったらウチの店に来てくれなさそうだね」

残念がる山野にマータイは胸を張った。

「大丈夫。テレビ局の人にこの店が行きつけだって言っておいたから」

「マータイ……これ、サービスしちゃう!」

と、熱くなる目頭を押さえた山野は一人前の餃子を差しだした。

一回り歳の離れたマータイは山野にとって息子みたいなもの。マータイがビリオンスターズに入団してから山野は何かと気にかけている。

餃子を頬張るマータイに皆川は、

「マータイさんってたしかケニア出身でしたよね? ケニアって野球流行ってるんですか?」

「流行ってないよ。サッカーが主流かな」

「どうして野球を始めたんですか?」

「私の場合は日本人主催の野球教室に参加したのがキッカケだった。その後、野球教室の関係者からビリスタを紹介してもらって、入団テストに合格した」

へぇ、と皆川は辺りを見渡し、

「独立リーグって変な人多いですよね。星さんも高校野球してないって言うし」

「変な人で悪かったな」星は言った。

注文を済ませた一同。マータイはスマートフォンを弄り始めた。

「今日も家族に連絡か?」加治屋は言った。

「うん。これだけは毎日欠かさない」

注文した料理が届く。それぞれが話を始めたが、話題はマータイの取材の話に落ち着いた。

「横島さんにすごくお世話になってる」

「横島?」加治屋は聞いた。

「うん。今回の企画のプロデューサーの人。取材現場にいた茶髪の人だよ」

「あの人か。……改めてお礼を言わないとな」

「その必要はないだろ」

加治屋たちの座った席の対極に位置するテーブル席から嫌みったらしい声がした。誰にも気づかれることなく席に座っていた安宅は口を挟んだ。

「どうしてそういうこと言うんだ」加治屋は言い返す。

「あっちは仕事でやってんだろ。マータイのことなんか視聴率を取るための道具程度にしか思ってないさ」食事を終えていた安宅は楊枝で歯を磨く。

「それでも、注目してくれるチャンスをくれたことは事実だ。感謝はいるだろう」

「おめでたい考えだな。騙されやすいタイプの典型だ」

「勘定」と安宅は代金を支払って店を出た。

安宅が戻ってこないことを確認した皆川は、

「安宅さんって昔からあんな感じなんですか?」

「嫌味な奴だよ。あの性格だからこれまでにも揉め事を起こしてきた。……でも、野球に関しては真剣で実力もあるから。あいつのことを非難する奴は少ないよ」

「俺なんか怖くてまだまともに話してないですよ」

加治屋たちも食事を終え、席を立つ。

「とにかく、次の試合は打って、家族にいい報告ができるといいな」加治屋は言った。

「うん……」

マータイの曖昧な返事。

不審に思う加治屋だったが、「次の試合、絶対応援に行くよ!」山野が会話に混ざり、うやむやになった。

試合のある日は毎日行ってるじゃないか、と厨房にいる山野の奥さんから指摘を受け、皆の笑い声が山野食堂を包んだ。

予定通り、試合日までテレビ局の取材は行われなかった。試合日を迎え、テレビ局の取材班が野球場に現れた。ビリスタ選手の緊張感が高まり始める。

試合開始一時間前。加治屋は球場の関係者用通路でマータイを見かけた。声をかけようと近寄るが、話し相手がいた。

相手の年齢は三十代。ほっそりとした体つきに茶髪の男――テレビ局のプロデューサーの横島だ。取材初日に同行していたので顔は知っていた。

話しかけることを諦めた加治屋は邪魔にならないようベンチに向かった。

と、加治屋の視界の端に映ったマータイの顔はどんよりと影が差していた。

「早くブルペンに行きましょうよ」皆川は加治屋に声をかけた。

「そうだな……」加治屋はどこか上の空だ。返事はしたものの、準備しようとしない。

「どうしたんですか?」皆川は心配になる。

「さっき、マータイを見かけたんだが、様子がおかしくなかったか?」

「通路で横島さんといましたけど、特に気になることは――」

皆川は呆れた様子で、

「またですか?」

「なにがだよ」

「また人の事情に首をつっこむつもりでしょ」

「チームメイトが困っているなら手を差し伸べるべきだろ」

「そういうのをお節介って言うんですよ! ほら、グローブ持って。ブルペンに行きますよ!」

星の一件もあってか、加治屋はかなりの世話焼きという印象を皆川は持っていた。

マータイのことを頭の片隅に追いやり、試合の準備を始めた。



ビリオンスターズ対アンダーグーズ。

一対二でアンダーグーズの勝利。

マータイは四打席〇安打二三振。打撃、守備の面で精彩を欠いた。打撃面では甘い球を見逃し、不必要にヒッティングを行い、守備面では他の選手の守備範囲に入り込んで連携ミスを犯した。いつも以上に力みが入り、十分な実力を出せていなかった。

もっとも、マータイだけでなくビリスタの選手全員に当てはまった。テレビ局の目を常に気にしていて、試合に集中できていなかった。

マータイの成績はよくなかったが、テレビ局のスタッフは上機嫌だった。奮闘する画が撮れれば十分だったようだ。

球場のシャワー室で汗を流した加治屋は帰宅するべく球場を出る。と、駐車場前の広場でマータイを見かけた。「お疲れさん」と声をかけたが返事はなかった。再度、名前を呼ぶと反応があった。

「なに?」

「今日のことはあまり気にすんなよ」

「うん。次は必ず打つよ」

今日の横島とのやり取りを聞くいい機会だ。皆川の「首を突っ込むな」の言葉が頭を過ぎったが、もう遅かった。

「ところで、試合前、横島さんと何の話をしてたんだ?」

「次の企画を提案された」マータイは隠す様子もなく、あっけからんに話してくれた。

「企画?」

「家族が来るんだ」

「家族って……マータイのか?」

「そう」

当初の予定では練習風景と試合の様子を撮るだけだった。が、テレビ局からのサプライズとしてマータイの家族を日本に呼んで、試合を観てもらうことが決まった。

マータイの家族はケニアに住んでいるので、全員が日本に来る機会もなければお金もない。これまではインターネットを通じて連絡をとるのが精一杯だった。

JPBに入れたら家族を日本に呼びたい、と話していたマータイの願いが思わぬ形で叶うことになった。

「良かったじゃないか!」加治屋は言った。

うん、と頷くだけでマータイに笑顔はなかった。テレビ局の横島と話していたときと同じ顔――視線を逸らし、落ち込んでいるようだった。

「……嫌なのか?」

「嫌じゃない。けど……」

どうも歯切れが悪い。事情を聞き出そうと試みたが、全てはぐらかされた。

マータイが話したがらないのでこれ以上の詮索はしなかった。

加治屋は帰宅してもなお、マータイの態度に加治屋は得心できなかった。あれほど、家族との再会を望んでいたマータイがどうして落ち込んでいたのか。

考えに耽るあまり、衣服の洗濯を済ませ、夜食を終えるまで真田とは一言も話さなかった。

「嫌なことでもあったの?」様子を伺っていた真田は尋ねた。

「え」

「怖い顔してる」

真田は加治屋の頬をつまんではのばす。加治屋の気分は幾分か和らいだ。

「そんなにひどい顔だったか?」

「うん。帰ってきてからずっと。……理由は聞かせてくれるよね?」

「……実はマータイのことなんだけどな」

普段から仕事の話をしていたおかげで、真田にはビリスタのチームメイトについての知識はあった。

「最近、取材されてる人だよね」

「横島って人と話した後から元気がないんだよな」

「試合で活躍できなかったからじゃないの?」

「マータイは試合の結果を引きずらない方なんだよ」

「じゃあ、横島って人に脅されてるとか?」

「うーん……脅す理由もないからな」

「だったら、横島って人の企画がマータイさんにとって都合が悪かったんでしょ」

「家族が日本に来ることがか?」

「家族に応援されるのが恥ずかしいとか」

「授業参観を嫌がる子供じゃあるまいし……JPBに入ったら家族を日本に呼ぶって言ってたからな。その可能性は低そう」

真田も加治屋と同じく、考えがいき詰まってきた。膠着状態に入り、集中力が切れる。

「わかんないや」真田は匙を投げる。

「諦めるのかよ!」

「でも、ひとつ分かったことはあるよ」

「ホントか!」

「カジくん、マータイさんのこと気にしすぎだってこと」

「そりゃ……確かに過保護かもしれないけどさ」

「だってもうマータイさんも二十歳でしょ。ほっとけばいいと思うけど」

真田の言い分はもっともだ。困っている人に手を差し伸べるのは優しさだが、度が過ぎればただのお節介にすぎない。加治屋は皆川からも同じことを言われたことを思い出した。

「……いい加減マータイさんから親離れしたらどうかな?」

「なっ……!」

大したことじゃなかったので家事に戻ります、と真田はアイロンがけを始めた。

結局、疑問が募るばかりで解決の糸口は見つからなかった。



「真田さんの言うとおりじゃないの?」

翌日。ビリオンスターズの練習日。

星と一緒に投球練習をこなしていると、マータイの話題になった。星も真田と同じ意見だった。

「……星は何とも思わないのかよ」

「そりゃ、心配さ。……けどな、マータイが話したがらない以上、首を突っ込むのは野暮じゃないか」

「そうだけどさ」

「何でもかんでも世話しようとするのはお前の良いところだが、悪いところでもある。時には辛抱強く待ってやるのも大事なことだろ」

星は百球投げ込んだところで捕手を立たせて、軽めのキャッチボールを始めた。あわせて、加治屋も練習を切り上げる。

と、星は、

「そういえば、今日、番組のプロデューサーが球団の広報に用があるとかで来てるらしいぞ。気になるんなら事情でも聞いてくればいいんじゃないか? ……まぁ、相手にしてもらえるかどうか分からんが――」

「それを早く言ってくれ!」

加治屋はキャッチボールをやめて、球団事務所へ走った。置いてかれた星は面食らっていた。

「とんだお節介野郎だな」だが、どこか嬉しそうに星の頬は緩んでいた。

加治屋が事務所に駆けつけたとき、プロデューサーの横島はちょうど応接室から出てきた。ピンクのポロシャツに半ズボン、サングラスを胸元にかけている。随分とラフな服装だった。

加治屋は声をかけた。急なことだったので、横島は身構えている。

「すいません。ちょっといいですか?」

「君は?」

慌てて、「初めまして」と自己紹介を済ませた。

「マータイのことで伺いたいのですが……つい先日、マータイの家族が日本に来てくれる企画の話をしたと思うんですけど、その後のマータイの様子がおかしくて……何か心当たりはないでしょうか?」

「いやー、わからないね。僕らも喜んでくれると思ってたのに苦い顔されてびっくりしてるんだよ」

「……そうですか」

相手が知らないと答えれば話は終わる。もう、横島を留めておく理由はなくなった。

焦る加治屋をよそに横島は席を外そうとしている。

「原因が分かるまで企画を待っていただけませんか?」加治屋は食らいついた。

「何言ってんの。その程度のことでスケジュールを遅らせるわけにはいかないよ」

そうそう、と思い出したように横島は囁いた。

「ここだけの話、本当はマータイ選手じゃなくて君が取材対象だったんだよ」

「俺ですか?」

「そう。BSリーグで年齢制限がかかったのは知ってる。君は今シーズンで引退する選手だろ? 戦力外になった選手の特集を組んでプロの厳しさを伝えようとも思ったんだけど……それならJPBの選手でいいやって。独立リーグって地味だからさ。でも、調べてみたらビリスタに珍しい選手がいたんで今回、企画を組むことにしたんだ」

「それでマータイが選ばれたと」

「これで彼がJPBの球団と契約したらサクセスストーリーは完成するんだけどねぇ。見たかんじパッとしないから無理そうだけど」

加治屋の表情の変化を読みとったのだろう。

横島はすぐさま、

「あ、もしかして怒ってる?」悪びれる様子はなかった。

「いえ……」

「それにしてもひどい話だよねー。二十六歳になったらポイしちゃうなんて。次の就職先は球団が斡旋してくれるのかな?」

「まだJPBに行くチャンスは残ってます!」

「そうなの? 辞めるなら早い方がいいんじゃない? 僕の目から言わせてもらうけどJPBで活躍するのは厳しいと思うよ」

「……厳しいのは分かっています」

「分かってるなら尚更……いや、やめておこう。話が堂々めぐりしそうだ。……マータイ君の件は予定通り進めるからね。もっとも、君に止める権利はないけど」

加治屋の肩を軽く叩いて、横島は席を外した。

マータイのことを聞くつもりが、いつの間にか自分の話になっていた。やる気を殺がれた加治屋はそれ以降、マータイの企画には口出ししなくなった。

マータイの家族が日本に来る日を迎えた。

家族とは空港で待ち合わせとのこと。マータイは免許証を持っていないので、加治屋が車で送ることになった。

横島との一件以来、加治屋とマータイはまともに会話していない。互いが互いに関わることを避けていた。

見るに見かねた星は今回の送迎役に加治屋を抜擢した。

移動中、車内の沈黙に堪えきれず、加治屋は当たり障りのない話題を選んだ。

「マータイの家族か。どんな人か楽しみだな」

助手席に座るマータイは黙ったままだ。加治屋は気にせず、話を続ける。

「こうして二人で車に乗っていると昔を思い出すよ。来たばかりのときはろくに体も鍛えてなかったから、ヒョロヒョロしてたよな」

「……そうだったね」

「今じゃ、ビリスタのスタメンだ。二十歳のお前はまだ伸びしろがある。ここからが勝負所だな」

「カジさんの勝負所は?」

「そりゃ、今シーズンだな」

「今シーズンが終わったら?」

「もしかして……定年後のことを聞きたいのか?」

マータイは頷くだけだった。

「星は他の独立リーグを検討してるって言ってたし、俺は……どうしようかな」

「野球はやめないよね?」

加治屋は効きの悪いエアコンを切って窓を開けた。

外の天気は晴れ。雲一つない清々しいほどの青空。吹く風は爽涼として心地よく、淀んでいた車内の空気を外へ追いやった。

「……いつかやめる日が来るだろ」

「そんな――」

「けど、今じゃない。今シーズンを戦ってから決めることだ」

「ごめんカジさん」含みのある言い方だった。

「なんで謝るんだよ」

「いつも世話になってるのに俺からは何もしてあげれてない」

「馬鹿だな。俺が好きでやってるんだ。気にするな」

空港が見えてきた。長い直線の道路を走り、車を停める。

空港にはすでに横島をはじめとしたテレビ局のスタッフが待っていた。

「悪いね。マータイ君を連れてきてもらって」横島は言った。

「いえ、練習の息抜きにはちょうどよかったです」

「もう、ご家族は空港に着いてるから。ついてきて」

これから撮影が始まるようなので、加治屋は見学させてもらうことになった。

平日の空港内の人通りはまばらだ。地方の空港なので、人の行き交いが少なくエントランスは広く感じる。

マータイの家族はすぐにわかった。アジア系の利用者が多いなか、アフリカ系の渡航者は目立つ。

マータイは一回り年が離れた女と抱擁を交わした。スワヒリ語を知らない加治屋は二人の交わした言葉は理解できなかったが、様子を窺うに相手は母親のようだ。

次いで、マータイの周りを家族が取り囲んだ。

周りにいる搭乗客の視線を一挙に浴びている。人の往き来が少ないので無理もない。

傍らで頷く横島。離れていた家族との再会はテレビ局が用意した演出にすぎなかったが、マータイにとっては嬉しい出来事に違いない。

撮影は終わった。マータイの家族はこれからホテルに泊まり、明日行われる試合を観戦してから帰国することになる。

別れを済ませたマータイと加治屋は車に乗り込んだ。

二人は練習の続きがあるので、これから高原スポーツ広場に戻る。

「どうだった? 久しぶりの家族との再開は」加治屋は言った。

「嬉しいよ」

また、含みのある言い方だった。だが、加治屋は気にとめなかった。高原スポーツ広場へ車を走らせる。

翌日。マータイの家族が観戦する日。試合開始一時間前。

ミーティングルームに監督ら首脳陣と選手が集まった。ただ、一人を除いて。

「マータイはどうした?」佐渡は言った。

「練習のときはいたんですけど……」

「多分あの場所だろ。加治屋、迎えにいってやれよ」星は言った。

「ああ」加治屋はミーティングルームを後にした。

「どこにいるか知ってるですか?」状況が飲み込めてない皆川は星に尋ねた。

星は頷く。

「今は落ち着いてるけどさ。昔、マータイって逃げ癖があったんだ」

「逃げ癖?」

「練習が辛いときなんかすぐに逃げだしてたんだ。……で、それを探すのは加治屋だった」

「へぇ、そんな過去が」

「マータイが来日した頃みたいだな」回顧の念を催した星は微笑んだ。

どこに隠れているのか。加治屋はすでに目星をつけていた。

球場の関係者用トイレの一番奥。個室の鍵はかかっていた。

「マータイどうしたんだ? みんな待ってるぞ」

加治屋の呼びかけに返事はなかった。だが、ここにいる。

と、

「嘘ついてた」マータイの声だ。

「は?」

「家族に嘘ついてた! いつも家族に連絡してたけど、本当のことは伝えてない。練習で褒められたとか、試合で活躍したとか都合のいいこと言ってた!」

マータイの悲痛な叫び。加治屋は共感した。

「その程度の嘘、誰でもつくさ」

「それだけじゃない。打率、本塁打、打点でリーグトップの成績を常に残してるって言ってきた!」

現在、マータイの成績は打率二割五分、本塁打は一、打点は三と、トップの成績にはほど遠い。加治屋もかける言葉がなかった。

「絶対、幻滅する……」

マータイは怯えている。ドアを隔てていたが、感情の機微を感じとることができた。家族に見放され、呆れられ、孤独になることを恐れている。

マータイ、と加治屋はドアに手を添えた。

「お前の家族は活躍している姿を見に来たんじゃない。元気な姿を、野球やってるところを見に来たんじゃないのか?」

「加治屋さん……」

「グラウンドに立ってるお前を……元気一杯なプレーを見せてやれよ」

沈黙。

虚栄心と本心。日本に来てから思い通りの結果を残せなかったマータイは家族の期待を裏切れなかった。嘘をつくことが唯一の孝行だったのだろう。

鍵が開いた。

「ありがとう。元気でた」これまで見てきた暗い顔ではなく、闘う男の顔だった。

マータイを連れてベンチに戻る。

二人を待っていたのはチームメイトの笑顔だった。

「今日の主役が帰ってきたぞ」星は言った。

「お待たせ」マータイは屈託のない笑顔で返す。

電光掲示板には一番センターマータイの文字が浮かびあがっている。マータイはバッターボックスへ向かった。



ビリオンスターズ対アンダーグーズ。

六対〇でビリオンスターズの勝利。

この日、マータイはタイムリーヒットを打った。目が冴えるような会心の当たりだった。

翌日の練習日。昼食時に取材の話になった。

マータイの取材の日程は無事終えた。これから、撮った映像を編集して放送されるのは二ヶ月後になるそうだ。

「家族はもう気づいてたんだ」

「うん。ネットで調べてた」

マータイが心配をかけまいと嘘をついていたことは家族には分かっていたようだ。それでも、マータイに気を遣わせまいと嘘に付き合っていたようだ。

すでに、マータイの家族は帰国して日本にはいない。

「家族がいなくなって寂しいか?」

「そんなことないよ。だって、みんながいるから」

ビリオンスターズに入団して五年目になるマータイ。日本語を覚え、日本の生活に馴染み、日本の野球チームで野球をしている。彼の周りには世話焼きが多く、いい環境で野球ができていた。

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