第5話 貧乏冒険者と代償

――カランカランッ……


 僕が呆気あっけにとられて取り落とした銅のナイフが、冷たい石の床に跳ね返る。そんな乾いた音が第5層に響き渡る中、僕は目を見開きながら突然の状況に混乱していた。


 嘘、なんで……どうして、こんなことに。だって、転移罠が第1層にあるなんて情報、今まで一度だって……っ!?


 狼狽うろたえて固まっていた僕の近くで、小さくカッ……カッ……と石の床と爪が当たる音が聞こえてくる。

 鼻をスンスンと鳴らし、次の瞬間……


――ワウゥーッ!

「ヒィッ!」


 オオカミの遠吠えが聞こえて反射的に声が出る。しまった、と僕が口を抑えるのも時すでに遅く……僕の目の前の曲がり角から、全速力で灰色のオオカミが飛び出してきた!


「うわああああああッ!」

「バウッ!」


 僕は声を抑えることもできず、情けない声を上げながら尻もちをつく。しかしそれが逆に幸いして、僕の首元に狙いを定めて飛び込んできたオオカミの飛びつきは運よく僕の頭上を掠めるだけに終わった。


 突然襲い掛かってきたオオカミから距離を取ろうと腰の抜けた状態でよたよたと立ち上がろうとするが身体が持ち上がらない!お尻を地面に擦りながら、オオカミから距離を取ろうと手と足で懸命に地面をいてズリズリと後退する。


 早く……早く逃げなきゃ……オオカミと中々広がらない距離に焦りが加速していく。床をつく手は滑るし、必死に地面を蹴っている脚には力が入らず自分の身体を起こす事すらできない!


「来るな……来るなよ……ッ!」

「グルルル……」


 弱弱しい声を出しつつ逃げる僕を追い詰めながら、オオカミは威嚇いかくをするかのようにうなりを上げつつ静かに僕の方に近づいてくる。


 オオカミは今まで村でたまに遭遇したものとは比べ物にならない程に巨大で、そして素早かった。これが、第5層……ッ!

 

 コツン、と指に硬いものが当たる。僕が振り向くと、そこには……僕が取り落とした一振りのナイフが。


「あっ……」

「バウッ!」


 その感触に僕が思わず視線をオオカミからナイフに移してしまう。そう、オオカミを目の前にして僕はのだ。その決定的な隙を逃さず、オオカミは再び僕に飛びかかる。


 一き置いて、目にもとまらぬ速さで駆け寄ってくるオオカミに、僕は反応が遅れた。


 そして――欲を出した冒険者に代償が支払われる。


 眼前にオオカミの顔が広がり反射的に僕は右手を突き出す、そして次の瞬間、視界から『生きているものが消えた』。


 オオカミも……そして。あれ……さっきまで、ここに……頬に付いた温かい水滴。鉄の匂いがするは、大量に、そして僕の右肩から流れ落ちていた。


「あ……?ああっ……あああああああっ!?」

「……フスゥ」


 右腕が食われた、そのことを頭が理解し始めた瞬間僕は激しい痛みでたまらず転がる。

 オオカミは消えたんじゃない、後ろに移動したんだ……ッ!


 転がりながら血の線を目で追ってみると、僕の右腕をくわえているさっきのオオカミが。

 バリボリと僕の腕が食われているのを、見ている事しかできない。


 怖い、痛い……そんな思考が僕を飲み込む。なにも、考えられない……だけど、ここから逃げなきゃいけないってことだけは本能で理解していた。


「ひ、ひいいいいいいいい!」

「ッ!?」


 僕は左手でナイフをひっつかんでオオカミに投げつける!狙いなんかどうでもいい、少しでも逃げなきゃ……!

 いきなり飛んできた凶器にオオカミはサッと後退する、その隙を見て僕は全速力で反対方向に駆け出した!


 逃げなきゃ、走らなきゃ!右腕を失くして身体のバランスが取れない、何度も壁にぶつかったり転んだりしながらも僕はオオカミから距離を取ろうと、曲がり角を曲がってはジグザグに走り続けた。


 そしてスタミナが切れるまで走り続け、壁に背をつけて座り込んだ僕は……荒い息を吐きながらこれからどうしようかを考えていた。


 何をしよう、これから何をすれば……だめだ、考えがまとまらない。血を流しすぎた僕は、ボーっとする頭と滲む視界に悩まされていた。


「血が……たりな、い……」


 何かが流れ落ちていく感覚がする。それを止めたくて、僕は無意識にボタボタと右肩から流れる血を抑えるようにスライムの粘液を拭いていたあの布を巻き付ける。


 ただのぼろ切れだけど、それのお陰で引き裂きやすくなっている。止まれ止まれ止まれ止まれ……!そう念じながら残った左手と口で結び目をきつく縛り続けた。


 そうしているうちに流血が収まり、僕はそれを確認すると、念のため上着を裂いてさらに腕に巻き付けておいた……よし、流れた血は取り戻せないけど何とかこれで。


「僕、死ぬのかな……」


 無意識に、そんな言葉が僕の口をついて出る。ボーっとする僕の頭は、どうやら弱音を理性で留める力が残っていなかったらしい。


「怖い、痛い、お腹すいた、暗い、痛い、怖い、苦しい、誰か助けて、痛い、怖い……助けて」


 僕は涙を零しながらブツブツとうわごとのように弱音を吐き続ける。第5層の石の床は……酷く、冷たかった。


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