真夜中の耳かき~告白
その日、灯里の様子はどこか変だった。話しかけてもどこか上の空の返事で、心ここにあらずといった感じだった。
お腹が空いているだろうと思い、新発売のカップラーメンを渡しても、食べることには食べたけどいつものように美味しそうには食べてくれなかった。
「……なにかあったの?」
「子供って、親という鳥かごの中に閉じ込められた鳥みたいだよね。自分の意思で自由に飛び回ることは出来ない。飼い慣らされて、都合よく可愛がられるだけの存在」
僕の問いかけに対し、灯里は到底答えとはいえない返事をした。彼女の口ぶりから察するに、きっと家庭で何かがあったのだろう。
「猫になりたいな。好きな時に寝て、好きな時にご飯を食べて、遊んでほしい時に飼い主に遊んでもらえる。きっと、猫は自由だ」
そう続けた灯里の表情は、目深に被ったフードのせいでうかがい知れなかった。でもなんとなく、泣きそうな顔をしている気がした。
「……飼い猫には飼い猫なりの苦労がありそうだけどね」
「飼い猫にも飼い猫なりの苦労があるのはあたしにだってわかるよ。だけど、少なくとも今のあたしよりは自由だと思う」
「そっか」
「今通ってる高校も、後半年とちょっとで卒業しちゃう。あたしはきっと大学には行かないから、そうなったらいよいよ社会に出ることになる。ほとんどの人がそうしているように、働いて、お金を得て、疲れて眠る。そこに自由はあるのかな?」
「自由の定義が人によって違うだろうから、なんともいえないけど……今よりも金銭的には余裕が出来るからそれなりに自由なんじゃないかな」
「ふうん……あんたはそう考えるんだね。あたしは何もかもから逃げ出したい。あたしを縛る親からも、未成年という不自由からも、働かないとお金は得られないっていう当たり前のことからも、全部から逃げたい。そうして逃げて逃げて、逃げ切った先に、本当の自由があるような気がするんだ」
「……きっと、嫌なことがあったからそう思うんだよ。僕は逃げ切ったことがないから灯里の言うことが正しいのかどうかはわからない。けど、逃げるにもお金は必要だ」
「何をするにもお金が必要なのはわかってるよ。だからこそ、今あたしは不便を強いられているわけだしね。ね、あんた一人暮らしとかしないの?」
「大学が実家から近いからなあ。一人暮らしをする理由があまりないんだ。どうして?」
「なんだ。一人暮らしするんだったら、いそーろーさせてもらおうかと思ったのに」
「君くらいの年齢の子が男の家に転がり込むのは居候とは言わないよ。それはもはや同棲だ。灯里は僕と同棲したいのかい」
「あんたとだったら同棲してもいいかもね。ストレスなさそう」
「それは光栄だな。けど、そうなったら君にも働いてもらうぞ。最低限食費くらいは出してもらわないとただのボランティアだ」
「やだよ。働きたくない。癒やしてあげるからそれで許してよ」
「癒やすって、どうやって?」
「どうって……例えば、耳かきしてあげたり?」
「…………君が人の耳かきを出来るとは到底思えないなあ」
「あ、言ったなぁ? じゃあやらせてよ、耳かき」
「こんな暗闇で? 見えないから危ないよ。第一、耳かきなんて持っていないだろう」
「こんなこともあろうかと。耳かきを持ってきている灯里ちゃんでした」
言って、灯里は鞄から耳かきを取り出してこれ見よがしに僕に見せてきた。
ヘアカットをした時もそうだったが、灯里は謎に用意がいい。今回も実は最初からそのつもりだったのかもしれない。
「ふふふ、花火やった時の約束は覚えてるよね?」
「勝った方が負けた方に命令出来るやつだろう。覚えてるさ……ってまさか……!」
「そう、その権利を今まさに行使します。さあ、おとなしくあたしに耳かきされるのだ~」
「冗談だろう? こんな暗がりでやられたくないよ」
「大丈夫だって、ちゃんとスマホのライトで照らしながらやるし」
「いやいや怖すぎる。ズボっていったらどうするつもりなんだ」
「そんなにあたしが信用出来ないの? 心配しないでも、痛くしないから安心して?」
「……痛かったらすぐにやめてもらうからな?」
「はいはい。さ、あたしの膝に頭を乗せて。ちゃーんと優しくしてあげるからさ」
結局、嫌に押しが強い灯里に押し切られる形で耳かきをされることになってしまった。
最初は果てしなく不安だったが、レジャーシートの上に正座した灯里の膝に頭を乗せると、彼女から漂ってくる甘い匂いで不安はどこかへ消えていった。むしろ、今の僕は極限にリラックスしてしまっている。
身体から力が抜けると、人間の身体は遺伝子の相性がいい相手の体臭をいい匂いに感じるように出来ている。なんて、どうでもいい知識がボケッとした頭に浮かんできた。
灯里から漂ってくる匂いは香水系の香りではない。ホットミルクのような安心する匂いだ。とするとやはり、僕と灯里は相性がいいのかもしれない。口に出せば「キモッ」と言われてしまうだろうから口には出さないけど。
「どれどれ……んー、あんまり汚れてないなあ。最後に耳掃除したのっていつ?」
スマホのライトで照らされた僕の耳を軽く引っ張りながら、灯里はそう問いかける。
「確か、一昨日にやった気がする」
「どうりで。ダメだよ、せっかくあたしが耳掃除してあげるんだからさ、掃除のしがいがないじゃん」
「そんなこと言われても」
「これじゃ耳掃除っていうよりマッサージって感じかなー。ま、しょうがないか」
「マッサージって?」
「耳かきのお腹の部分を使って耳のツボを押していくの。結構気持ちいいんだよ? どれ、ものは試しってことでやってあげましょう」
前屈みになった灯里は、そっと耳かきを入れてきた。意外にも重質量を誇る彼女の胸が後頭部に触れるか触れないかのギリギリのところまで接近しているので、僕はリラックスしているのにドキドキもしているという不思議な状態にあった。
「さてさて、いくよぉ。んー、とまずはお腹のツボを押してあげましょう」
そう言って、灯里は耳の穴の少し上のところを圧してきた。耳かきの腹の部分を使ってピンポイントで優しく圧されると、まるでプロに施術されているかのような感覚を覚えた。
「ぎゅ、ぎゅ、ぎゅっと……どう、気持ちいい?」
「うん。すごい気持ちいいよ」
「でしょぉ? 今圧しているツボはお腹のツボなんだけど、消化促進の効果があるんだって。食後にピッタリだよね。次はぁ……」
離れていった耳かきが今度は耳穴の中ほどの場所を刺激した。
「お、結構痛いな」
「うっそ。あんた心臓悪いんじゃないの? 今圧してるのは心臓のツボだよ?」
「そんなはずはないと思うけど……さっきより力入れてたりしない?」
「全然力入れてないよ? さっきとおんなじ」
「うーん……最近運動していないからそのせいかな」
「心臓悪いのと運動していないのって関係あるのかな? なんか怖いから別の場所にしよ」
次に灯里は耳たぶに近い位置のツボを圧した。ここも結構痛い。
「ここはなんのツボなの?」
「ここはねぇ、脳のツボだよ……まさか、ここも痛いの?」
「……うん」
「あははっ、あんた実は頭も悪いんじゃないの? ちゃんと勉強ついていけてるの?」
「なにおう。僕はこう見えて、優等生だぞ」
「ふふ、あんたが優等生って、全然想像つかないや。ね、普段学校ではどんな感じなの?」
「どう、って……まあ普通に講義を受けて課題を出してテストを受けてるだけだよ」
「ふーん……でも、こんな真夜中の廃墟に来ちゃってるんじゃ説得力ないよ」
「優等生だって息抜きくらいはしたいものさ」
「息抜き、ねえ。まあいいけどさ。次は指でマッサージしていくよ」
灯里の柔らかい指が僕の耳たぶをふに、とつまんだ。そしてそのままグニグニとマッサージしていく。
「あたしの指、柔らかいでしょ?」
「そうだね。僕のとは大違いだ」
「ふふん、普段からケアしてるからねー。指には自信があるのだ」
耳たぶから耳全体へ、灯里のマッサージ続いていく。
「さてさて、次は反対側をやるよ。ゴロンしてゴロン」
言って、灯里は僕の身体を転がした。そうなると、先程は後頭部に向けられていた彼女の凶器が僕の眼前に来るわけで――。
「……ちょっと、見すぎ」
「ごめんなさい。こうも目の前にくると、つい……」
「見るなとは言わないけどさ。この体勢を指定したのはあたしだし。でも男の子って皆して胸見るよね。そんなにいいものなのかな?」
そう言って灯里は自らの胸を両手で持ち上げた。かなりの質量を誇るそれは、たったそれだけの動作でぶるんという音が聞こえてきそうなほどに揺れた。
「だから、見すぎだって」
「ごめんなさい」
僕は謝ることしかできなかった。
「……触りたい?」
「ぜひ」
「冗談にきまってんじゃん。ダメだよ」
がっくりと肩を落としていると、灯里はこう続けた。
「そんなに触りたかったらあたしのこと養ってよ。そしたら触らせてあげないこともない……かも?」
「それはつまり……ひょっとして僕、告白されてる?」
「これを告白ととるかどうかはあんたの判断に任せる。でも、あたしはあんたとだったら逃げてもいいと思ってる。これはあたしの本心だよ」
思ってもみないところで告白をされてしまった。しかも、こんな変則的な形で。
「返事は今すぐじゃなくてもいいよ。ただ、あんまり待たされると、ふらっとどこかに行っちゃうかもね」
猶予を与えられたのはありがたい。彼女からの告白は、普通のそれとは重みが違う。
一般的な彼氏彼女としてのお付き合いの申込みではなく、灯里の人生そのものの責任を僕が負うという話だ。
正直、学生の僕にはまだ荷が重すぎる。だけど、僕が灯里に惹かれているのは紛れもない事実だ。
それに加えて、本人の言う通り灯里は目を離してしまうとふらっとどこかにいなくなってしまいかねない危うさを持っている。だからこそ、悩む。
僕は彼女を繋ぎ止める鎖になることが出来るのだろうか。
真夜中の告白は、僕に相当な衝撃を与えた。
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