真夜中のヘアカット
彼女に甲斐甲斐しく餌付けをすること幾星霜。この日も僕はせっせと階段を上っていた。
フロアを表す文字を見ると、まだこの程度しか上っていないのかと嫌になるので、カツンカツンと鳴り響く足音にだけ意識を向けて屋上を目指す。
錆びついたドアを開けると、今日も彼女はそこにいた。しかし、今日は様子が違った。
どうやら月から溢れる僅かな明かりを頼りに何かを熱心に読んでいるようだった。
「やっほ。今日もあたしの方が早かったね」
いつも通り彼女の隣に腰を下ろすと、やはり彼女もいつも通りこちらを見やることすらせずに挨拶をしてきた。
持ってきた食べ物なんかを取り出しながら、ペラペラと本のページをめくっている彼女を横目で見る。
「んー、何見てるか気になるの?」
「なんでわかったの?」
「そんなにジーっと見られてたら誰だって気付くって」
むう。横目で見ていたつもりだったんだけどなあ。こんなに勘が鋭いなんて、やはり彼女は人の皮を被った猫なんじゃなかろうか。
「この本、ゴミ捨て場に捨ててあったから拾ったんだけどさ、なかなか面白いよ」
「なんの本?」
聞きながら、彼女の手元を覗き込もうとしたら、彼女は本を胸元に抱え込んで隠してしまった。
「なんの本か当ててみて」
「んー。漫画とか?」
「ぶぶー」
「旅行雑誌?」
「それも外れ。正解は……じゃーん。美容師さんの本でした!」
「……見てて面白いの、それ?」
「あたし美容室行った事ないから、こんな感じなのかなーとか想像しながら読んでるとすっごい面白い。接客のやり方とか、色々書いてるし、勉強になるよ」
薄々感づいてはいたが、彼女の家庭環境はあまりよろしくないのだろう。彼女ほどの年頃の女の子が、美容室に行った事がないというのはなかなか考え難いことだ。
面白い、と言っているのだから、決して美容室に行きたくないから行っていないというわけではないはずだ。
行きたいけど行けない理由がある。金銭的な理由か、あるいはもっと別の……。
「ね、髪切ってあげようか」
「そろそろ切ろうと思っていたからちょうどいいけど……やったことあるの?」
「心配しないでも大丈夫。あたし、自分で髪切ってるから腕は確かだよ。人のはやったことないけど……まあなんとかなるでしょ」
「本当かなあ……」
「いいからいいから。はい、お客様一名ごらいてーん」
用意のいいことに、彼女はハサミの他にも霧吹き、クシとカットクロスと呼ばれる髪が服に付かないようにする布を持っていた。
ひょっとすると、最初からそのつもりでわざわざ本なんていう小道具を用意してまで待っていたのではないだろうか。
「ご来店ありがとうございます。本日担当させていただきます……あ、名前言わなきゃいけないのか。めんどいな……ま、いいや。本日はどのようなカットをご所望ですかあ」
「いやいや、そこまでして名前教えたくないの?」
「あたし人に名前教えたら魂抜けちゃうって教えられたから」
「そんなわけないでしょ」
「もうっ、あたしの名前の話はいいのっ! せっかく美容師さんになりきってるんだからあんたもお客さんになってよ」
「はいはい。わかったよ」
「じゃあ、いくよ? 髪の長さはどうされますか?」
「前髪は眉毛にかかるくらいがいいかな」
「ふむふむ……前髪は眉毛にかかるくらい、と。でしたら、横は耳を出す形でいかがでしょうか?」
「うん。それで」
彼女はクシで髪をすきながらそれっぽく髪を触っている。気分はすっかり美容師さんのようだった。それにしても、彼女にあてられて、僕までお客さん気分になってきた。
「横はそれでいいとして……後ろは全体に合わせる形でカットしても構いませんか?」
「お任せします。カッコよくしてくださいね」
「カッコよく……かしこまりました。じゃあ、霧吹きで髪を濡らしていきますね」
シュ……シュ……シュ……。リズム良く霧吹きから発された水で髪が濡れていく。
「こんなものかな? 次は軽くクシで髪をとかしていきますね」
サー……サ……サ……。霧吹きで濡れた髪がクシによって撫で付けられていく。
今の僕は、さぞかしペタンとした髪型をしていることだろう。この不思議な状況も相まって、鏡があったらきっと笑ってしまっているに違いない。
「よし、と。それじゃカットしていきますね」
ショキショキショキショキ……ショキ……ショキ……。
淀みなく動き回るハサミの音を聞いていると、ここが美容室で彼女が本当に美容師さんなのではないかと思えてきた。
それほどまでに彼女のハサミ捌きは手慣れた風で、地面にはドンドンと僕から切り離された髪の毛が溜まっていった。
「ふんふふーん……」
「美容師さんって髪を切っている時雑談するものなんじゃないの?」
「え、美容師さんってカットしてる時雑談しないとダメなの?」
「お店によるんだろうけど、少なくとも僕が行っている場所はお話しするね」
「なるほど……美容師さんは雑談もしなきゃなのか……うーん、雑談……雑談ねえ……」
軽快に鳴らされていたハサミの音が止まった。どうやら雑談の内容を考えるために手を止めたらしかった。
本末転倒な気がしないでもないが、それを指摘するほど僕は子供ではないつもりだ。黙って待つことにする。
「そうだ! あたし花火ってやったことないんだけど、お客様はやったことありますか?」
「そりゃあね。手持ち花火のことだろう?」
「空に打ち上がる大きな花火もちゃんと見たことないし、手持ち花火なんてやったことないよ。ね、どんな感じなの?」
「どんな感じって……そうだなあ、棒の先から綺麗な火花が飛ぶ感じだよ」
「そうなんだ。色が付いてるやつとかもあるんだよね? やってみたいなあ……」
「今度買ってくるよ。二人で一緒にやろう」
なんだか可哀想になってしまった僕は、気が付けばそう言っていた。
「ほんとに買ってきてくれるの? 嘘だったらぶつよ?」
「嘘なんて言わないよ」
「やったあ!」
後ろから飛び跳ねる音が聞こえてきた。こんなに嬉しそうにしているんだから、下手なものは買えないな。少しお高めのやつを買ってくることにしよう。
「期待して待っていてくれ。それより、手が止まっているよ」
「おっとと。失礼しました。それではカットの方を再開していきますねー」
再びショキショキとハサミの音が聞こえてきた。どうやら後ろ髪をカットしているらしい。もうそろそろ、このなりきりも終わりそうだ。
再び黙ってしまった彼女は鼻歌を歌い始めていた。それに耳を傾けていると、不意にハサミの音が止まった。
「はい。おしまい、と。どうかな? 結構イイ感じにカット出来たと思うんだけど」
渡された手鏡で確認すると、自分で髪を切っているというだけあってお店でカットするのと遜色ないほど綺麗に切り揃えられていた。
「いいね」
「でしょ? 注文通りカッコよくカットしといたよ。流石にここじゃシャンプーは出来ないから、家に帰って自分でやってね」
「うん。ありがとう」
「じゃあ、髪を切ってあげたことだし、今日のご褒美をもらおうかな」
彼女は持ってきた道具を片付けながらそう言った。抜け目のないことだ。
「わかったよ。今日はおにぎりとカップスープを買ってきたんだ」
「おにぎりとカップスープとか最高の組み合わせじゃん。ね、早く食べさせてよ」
「はいはい。今準備するから待ってて」
今夜も僕らは星を眺める。少しだけ高い場所から眺める夜空には、今日も織姫と彦星が輝いていた。
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