1992年の彼ら
「バルセロナ・オリンピック、楽しみだなぁ」
「あれ? 安田ってスポーツ観る奴だったっけ。前に野球の話したら全然食いついてこなかったじゃん」
「それは日本のプロ野球に興味が無かっただけだよ。オリンピックでやる競技は、季節を問わず結構見るよ」
「ああ、そう言えば二月頃にも、『伊藤みどりが銀メダル取った!』とか喜んでたもんな。なんだっけ、アルベルトフジモリ・オリンピック?」
「それを言うならアルベールビルでしょ。木下、わざと言ってない?」
「バレたか」
――二人がそんな会話をしていたのは、一九九二年の七月のこと。
夏休みも近付き、教室全体にはどこか浮かれた雰囲気が漂っていた。
とはいえ、中学三年の夏は大事な時期だ。木下と安田のように雑談に興じている生徒ばかりではない。一部の生徒は、やれ夏季講習はどこの塾に行くだの、志望校はもう固まったかだの、真面目な話をしている。
「丁度、夏休みだからね。テレビで観れる競技は全部観るつもりだよ!」
「裏番組で重なった場合はどうするんだ?」
「……録画しておいて、観る!」
「そこまでやるのかよ。筋金入りだな安田は」
二人の笑い声が教室に響く。その度に、夏期講習や受験勉強の相談をしていた生徒達は、少し不機嫌になった。
木下はさておき、安田は間違いなく学年でもトップクラスの成績だ。その安田が受験対策の話をするでもなく、五輪観戦にうつつを抜かすと声高に叫んでいれば、苛立つ者もいるだろう。
「オリンピックもいいけどさ、安田はK高受けるんだろ? 遊んでていいのかよ」
そんな教室の空気を敏感に感じ取ったのか、木下がそっと話題を変える。安田はお人好しで通っていて基本的には人望があるが、どうにも一部の生徒――特に進学校を目指している男子からは、やや嫌われている。
両親ともに医者で家が裕福で、成績優秀でおまけに男女問わず人望がある、ともなれば、やっかみも多い。
木下は密かに、安田のそういう所を心配していた。
だが、どうやらそれは杞憂に終わりそうだった。
「もちろん、勉強もきちんとやるよ? オリンピック観る以外は、多分ずっと勉強してると思う。やり方さえ間違えなければ、勉強量は裏切らないからね。睡眠時間削ってでもやる」
「いや、ちゃんと寝ろよ」
「もったいなくて寝てられないさ。だってさ、中学最後の夏なんだよ? 後悔はしたくないんだ。やりたいことは全部やって、勉強も目標分はきちんと終わらせて、憂いなく受験に臨みたいんだ――ってことで、栗原君!」
安田は突然、近くの席で夏季講習談義をしていたクラスメイトの一人に話しかけていた。安田を目の敵にしているグループの中では、比較的穏健派の栗原だ。
「え、お、俺? 何? なんか用?」
「うん。栗原君もさ、K高受験するんだよね? で、夏期講習は●●塾」
「……そうだけど」
「ならさ、一緒に勉強しない?」
「……ええっ!?」
「他にもK高目指してる人、いたよね? 皆で『傾向と対策』練ろうよ」
安田が人懐っこい笑顔で勧誘しているのは、先程まで剣呑な表情で彼のことを見ていた面々だ。皆一様に「どうする?」と言いたげな表情で、顔を見合わせている。
「三月まで家庭教師してくれてた人がくれた、『K高受験対策・虎の巻』もあるんだ。本当は他の人には教えちゃいけないんだけど」
「えと……それさ、安田君には何かメリットあるの? 受験なんだから、ライバルが増えるだけだよ」
栗原が遠慮がちに尋ねる。それもそうだろう。K高は県下の私立でトップクラスの難関校だ。その難関校を共に受験するとなれば、必然的に競争相手になる。安田の言っていることは、「敵に塩を送る」ようなものだ。
だが、それに対し安田は、不思議そうな表情を浮かべながら、事も無げにこう言ってのけた。
「そんなのさ、全員で受かればいいんだよ」
安田があまりにも無邪気に言ってのけたので。他の面々はそれ以降すっかり毒気を抜かれてしまった。
彼らはそれをきっかけに安田とつるむようになり、残念ながら全員ではなかったもののK高へ入学し、共に高校生活を送ることになる。
一方、それを見ていた木下はと言えば――。
「あれ、木下君、ひとり? 安田君は?」
「K高受験組と意気投合して帰ったよ」
安田がK高受験組とつるむようになった結果、木下はおいてけぼりを食うようになっていた。ひとり黄昏れていた木下に声をかけたのは、金野だった。
「ああ、安田君もいよいよ受験モードに入っちゃったかぁ。フラれたねぇ、木下君」
「気持ち悪い言い方するな。ま、しゃーねーよ。同じ学校狙ってるグループとつるんだ方が、受験勉強には有利だろ」
「おお。安田君を取られて拗ねてる?」
「だから、気持ち悪いこと言うなって」
――等という木下だったが、半分は図星だった。
受験生とは言え、中学最後の夏休みだ。安田と金野と、三人で思い出作りでもしたいな、等と考えていた木下の計画は、全てご破算になっていた。
「ふふ、じゃあさ。私が慰めてあげよっか? 一緒に海でも行く?」
「……それもいいかもな」
「うん! じゃあ、早速予定を――」
「暇そうにしてる連中も結構いるし、余りもの連中誘ってワイワイやろうぜ!」
「……ああ、うん。そうね」
早速とばかりに、教室に居残っていた夏休みの予定がなさそうなクラスメイト達を勧誘し始める木下。
金野は、そんな彼の姿を見ながら、ちょっとだけ苦笑いするような、なんとも言えない表情を浮かべ、窓の外へ目を移した。
開け放たれた窓からは、初夏の生ぬるい風が緩やかに吹き込んできている。窓辺に近付き外を眺めると、薄曇りのモヤモヤとした空が広がっていた。
金野の手には、ノートの切れ端が握られていた。先程、幼馴染の少年からこっそりと手渡されたものだ。
『この夏、あいつフリーだよ』
切れ端には、丁寧な文字でそれだけが書かれていた。
金野は、切れ端を手で細かくちぎると、窓の外へとそっと放った。
幾つもの断片になった切れ端達は、初夏の風に乗ってどこへともなく飛んで行った。
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