4.勧誘
「あの事故で死んだのは、確かに安田だったのかい?」
「……はっ?」
「だから、あそこで死んだのは本当に、本物の安田だったのか? と訊いているんだよ」
「なんだ、それ。そりゃ、安田に決まってるじゃないか。警察だって身元を確認している」
安田の遺体は、様々な照合によって本人の物であると断定されている。そこに疑いの余地はないはずだった。
「君は安田の遺体を確認したのかい?」
「いや、直接は見てねぇよ。ただ、ホームにいた何人かはモロに見ちまったみたいだがな。若い女がすぐ近くで見ちまったらしくてよ、そりゃ気の毒な悲鳴を上げてたぜ。その辺りは記事に書いた通りだ。嘘は言ってねぇよ」
「では、安田の顔は見ていないのかな?」
「いいや? 記事も……書いたっけな? ちょいと忘れちまったが、安田が轢かれる直前に目が合ったんだよ。最初は人相が変わり過ぎてて気付かなかったが、後で気付いたよ。『ああ、あれは安田だったんだ』って」
――安田が轢死した、あの晩に見た夢を思い出す。生首と化した安田が恨み言を言ってきた、あの悪夢を。あの時点でもまだ安田の名前は思い出していなかったが、無意識下では気付いていたのだろうと、木下は考えていた。
「そうか、安田は本当に死んだのか。……残念だ」
「なんだよ。安田に生きててほしかったのか? だったら命なんて狙わなきゃ良かったのによ」
「そこは痛し痒しと言ったところさ。あいつは、この十年以上の間、私の片腕を務めてくれた。『氷の華』がここまで大きくなったのは、間違いなく彼の力があったからだ」
何かを懐かしむように田崎が天井を見つめる。つられて木下も彼の視線を追うが、もちろんそこには何もない。無機質なコンクリートの天井が、古びた蛍光灯の光に淡く照らされているばかりだ。
「安田とは何かと気が合ってね。本や音楽の趣味も似ていたし、女の趣味も近かった。しかも、身長も体型もほぼ同じでね。一緒に過ごしている内に表情の作り方や喋り方まで似てしまったから、周囲からは『生き別れの双子なんじゃないか?』って、よくからかわれたよ。――ああ、もちろん彼と私に血縁関係はないから、比喩ってやつだよ?」
「言われなくても分かってるさ。あんたと安田じゃ本質が全然違う」
やや侮蔑を込めて言った木下だったが、田崎はむしろ「我が意を得たり」と言いたげな笑みを浮かべながらウンウンと頷いている。どうにも、この男は掴みどころがない。
「そうだね。結局、安田と私は本当の意味で分かり合えはしなかったんだ。彼は私を裏切り、『氷の華』の根幹に関わる資料を持ち出し、君達に提供してしまった。お陰で組織はガタガタだよ。合法的に活動していた団体は殆どパージせざるを得なくなったし、身元がバレてしまった幹部は残念ながら『お別れ』になってしまった。創設以来のメンバーは、もう私一人になってしまったよ」
皮肉めいた、それでいて哀しそうな表情を見せる田崎。だが、そこには実のところ何の感情もないのだろうと、木下は感じていた。
「おめでとう、木下くん。君達が警察に資料を渡してくれたお陰で、何人もの幹部が『最後のご奉仕』をする羽目になったよ。どうかね? 間接的にでも人を殺した気分は」
「……そういうのを詭弁って言うんだぜ、田崎さんよぉ。安田が持ち出した顔写真の面々は、早い奴は数か月前には死んでたって言うじゃないか。『最後のご奉仕』ってやつが始まったのは、俺達が資料を受け取るより前なんだろ? 俺の知ったこっちゃないぜ」
「ほう、やっぱり冷静なんだね、君。大概の人間は『君のせいで大変なことになった』って脅すと、心が乱れて正常な判断力を失うものなんだけど」
「残念ながら、まともな神経は持ち合わせていないもんでね。ゴシップ・メディアの記者なんかやってれば、他人から恨まれたり他人を病ませたりってのは、日常茶飯事だからな」
もちろん、この木下の言葉は虚勢である。人並みの胆力しか持ち合わせていない彼は、常に何らかの理由付けや言い訳を用意して、自分の書いた記事や拡散した情報が他人を不幸にしている事実を直視しないようにしているだけだ。
――木下にとって、目の前の現実というものは常にどこか他人事だった。自分の目前で起こっているはずのなのに、薄氷のヴェール越しに眺めているような、そんな気持ちが常にどこかにある。氷河期世代と呼ばれる棄民としての暮らしを長らく続けてきたから、そんな心持ちになったのか。それとも、それが木下勇一朗という男の性癖や本性であるだけなのか。どちらなのかは木下本人にも分からない。
だがしかし、今確実に言えることは、そういった現実を直視しない、どこか他人事のように受け取る木下の特性が、今の彼にある種の冷静さを与えているという事実だった――。
「ふむふむ。そう言えば、君も私や安田と同い年だったね。職歴も……ああ、確かそこそこの大学を出たのに就職活動に失敗し、それでも夢を諦められなくて派遣仕事で糊口をしのいで就職活動を続けた……だったかな? うんうん、氷河期世代の名に恥じない立派な経歴だね」
「余計なお世話だ」
田崎の語る木下の経歴は、まるで本人からヒアリングしたかのように正確だった。大方、伊藤辺りから漏れた情報なのだろう。全くいい気がしない。
「ああ、怒らないでくれたまえ。悪気はないんだ。それにしても、なるほど、安田が君を頼ろうとしたのも、あるいはそういうところを見込んでのことだったのかもね」
「……何の話だ?」
「いやなに、安田は何故、数多いる知人・友人の中で君と金野女史を選んだのか、ずっと気になっていたんだよ。言っては悪いが、君はただの弱小ゴシップ紙の記者だ。何の権力もない。助けを求めるだけならば、警察にでも駆け込んだ方が遥かにマシだ。――だが、安田はそれをしなかった。何故か? 分かるかね、木下くん?」
それは木下もずっと知りたかったことだ。「氷の華」を瓦解させたいのなら、一連の資料の送り先は木下と金野のもとではなく、警察の然るべき部署だろう。そもそも、安田自身だって警察に保護を求めればよかった話だ。なのに、何故それをしなかったのか。
木下は静かに首を横に振った。
「安田とは二十年以上も会ってなかったんだ。あいつの頭の中なんて、分からないさ」
「まあ、そうだろうね。これは、二十年近くずっと一緒にいた私にしか分からないことだろうさ。いいかい? 安田はね、ずっと罪の意識に苛まれていたんだ。心ならずも『氷の華』の大幹部として、多くの人生を狂わせたことに対してね」
「そいつは……今更だな。罪悪感を覚えたところで、被害者は許しちゃくれないだろう」
「その通りだね。だから、それはただの自分勝手な感傷さ。何せ彼はね、困窮した元同級生を『氷の華』の同士に迎えさえしてるんだ。彼らは大層感謝してたけど、実際には悪の秘密組織へようこそ! だからね。ある種のマッチポンプだよ。笑えない冗談さ」
元同級生――いつぞや和田刑事が見せてきた例の写真の面々か、と木下は思い至った。和田刑事も「安田が勧誘した可能性は否定できない」という見解を示していたはずだが、どうやらそれは当たりだったらしい。
「安田はね、私や君のような冷血漢と違って、とても人間らしい男だったのさ。罪悪感に塗れながらも罪は侵し続ける。友人を救うつもりで、却って地獄へ連れてきてしまう。おおよそ論理的ではないね。ちぐはぐだ、自己矛盾だ。でも、そういうのを『人間』というのだと、私は思うのさ」
「冷血漢のあんたが人間を語るのか?」
「語るさ。私ほど人間を愛している者はいないからね。本当に見ていて飽きない玩具だよ、彼らは」
「それは愛なのか?」と疑問に思いつつも、木下は下手に言葉を挟むのを止めた。田崎の頭は思ったよりもイカレているのかもしれない。下手に刺激しない方がいいだろう。
「……ええと、何の話だったかな? ああ、そうか。安田が何故、君を選んだか、だったね。まあ、斯様に安田は自己矛盾の塊でね。だから、『氷の華』をぶっ壊す為に資料を持ち出した時にも、きっとこんなことを考えていたのさ。『ああ、この資料のせいで仲間達が何人も消されるだろう』って」
「……なるほど、それはありそうな話だな」
「だろう?」
木下の同意を得られたのが嬉しいのか、田崎は心底楽しそうな笑みを浮かべた。が、眼はまるで笑っていない。木下はいつぞや写真で見た、ピエロの扮装をした連続殺人鬼を連想した。
「警察に資料を直接持ち込まなかったのは、間接的とはいえ仲間を殺したくなかったからなのさ。そこで、冷静な判断をしてくれそうな第三者に、資料を委ねた。それが君と金野女史だったって訳だ。どうだい? 筋は通ってるだろう」
「確かに……な」
田崎の説は筋が通っている。確かに、これならば安田のちぐはぐな行動にもある程度説明が付く。
だが――木下の中の何かは、「本当にそれだけだろうか?」とそれに異議を唱えていた。
「冷静な判断をしてくれそうな第三者」という条件に合致する人間は、恐らく木下と金野以外にも複数いる。金野はまだ分かる。彼女は安田の幼馴染で、恐らくは最も信頼出来る他人だったはずだ。
ならば木下はどうだろうか? 木下が安田と共に過ごしたのは中学の三年間だけだ。クラスでは一番仲が良かったが、逆に言えばそれだけだ。付き合いの長さだけで言えば、同じ高校に進学した栗原などの方が長い。
木下は、安田の両親の事故死をはじめとする、彼の不幸など欠片も知らなかったのだ。中学を卒業してからの関係は希薄どころかゼロだ。果たして、そんな相手に大事な判断を委ねるだろうか? 彼の苦労や不幸など全く知らなかった人間に――。
「そうか。逆、か?」
「おや木下くん。何か思いついたのかね?」
「ああ、あんたと話していて、ようやく合点がいったよ。なんで安田は、中学までしか付き合いのなかった俺に、大事な資料を送ってよこしたのか。あんたが言うような、冷静な判断が出来る相手なんてのは他にもいる。だが、安田とそこそこ以上に仲が良かった奴で、高校以降のあいつの不幸な人生を知らない人間ってのは、数が限られてくる」
「……すまない。君が何を言いたいのか、少々測りかねるのだが」
「だからさ、安田の奴は、幸福だった頃のアイツの姿しか知らない奴に、ジャッジしてもらいたかったんじゃねぇのかな? 自分の、罪をさ。高校以降のあいつの不幸と苦労を知ってる奴が、安田が『氷の華』の幹部だったって知れば、こう思わないか? 『ああ、安田はそういう方法で世間に復讐したんだな』って。安田自身が、例えば手紙で『心ならずも加担してしまった』って力説しても、殆どの奴は安田に復讐心があったんだろうって思うじゃねぇか、ってさ」
――そう。つい先ほど木下も言ったように、いくら罪悪感を表明しても被害者は許してなどくれない。それと同じように、安田が「世間を恨む理由」となる様々な不幸を目の当たりにしてきた者達は、いくら安田自身が否定しても「氷の華」の活動に安田が積極的だったのではないか、と考えるはずだ。
だが中学時代の、育ちの良いお人好しで正義感に溢れた安田しか知らない人間ならば、こう考えるのではないだろうか? 「安田がそんな犯罪に加担するはずがない。何かやむを得ない事情があったのではないか」と。
実際、木下はずっと「安田は田崎という男に脅されて、やむなく『氷の華』の悪行に加担していた」と思っていた。安田が自ら進んで悪事に手を染めるなど決してないと。
「ああ、田崎さんよ。アンタの言う通りさ。安田のやってることは矛盾してる。脅されて嫌々やったって、罪は罪だ。被害者は許しちゃくれない。でもな、きっとその罪悪感は本物だった。たとえ罪は許されなくても、罪悪感だけは本当だと認めて欲しかった。それが、安田が俺に資料を送ってきた理由だと思うんだ。……どうだい?」
「それは……ただの自己満足なのでは」
「ああ、自己満足だろうさ。世間様は、どんな理由があったって『氷の華』に加担した安田を許してはくれないだろうさ。たとえ警察に協力しても、軽くなるのは刑法上の罪だけだ。でも、それでも自分の罪悪感を信じてくれる奴が、一人でもいいからいてほしいと思ったんじゃねぇかな、安田の奴は。だから、警察発表やマスコミの報道経由じゃなく、直接自分の言葉で俺に伝えたのさ。――俺はそう思う」
もちろん、これも木下の推測に過ぎない。実際の安田の思惑は、死んだ彼自身にしか分からない。だが、少なくとも木下はそうであってほしいと願っていた。たとえ世間では偽善だと罵られても、自分だけは安田の良心を信じていたかったのだ。
――と。
「ふふ、はっはっはっはっはっ! 案外ロマンチストなんだな、木下くんは。――だが、気に入った。木下くん、君は私と同じタイプの人間だよ。自分は冷徹冷血なのに、人間が情によって不合理な言動をしてしまうのを慈しむ心を持っている! 『飼い主』側の人間だ。俄然、君に興味が湧いて来たよ」
カツンカツンと足音を響かせながら、田崎が未だパイプ椅子に縛られたままの木下へと近づく。
そして、木下の肩に手を置くと、そっと口を開く。
「なあ、木下くん。『氷の華』はこれから一度散り、機会を待ってもう一度咲くつもりなんだ。警察に我々との関係がバレていない子飼いの団体や企業も、まだまだある。再起は十分に可能なのさ」
「底なしかよ、あんたらの組織は」
「ああ、我々はそこら中に遍在するのさ。だが、幹部を担える人材が足りない。仕方がないとはいえ、だいぶ始末してしまったからね。――もう一度言おう。木下くん、私の仲間になる気はないかね? 君となら、上手くやっていける気がするんだが」
人間の形をした悪魔は、木下にそんな誘惑の言葉を囁いた。
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