3.暗闇の中で
「お客さん、着きましたよ」
――聞き覚えのない声に目を覚ます。何故だか体がやけに重く、自由に動かない。一体どうしたものかと、ぼんやりとした頭で考え始めて、木下はようやく覚醒した。そう言えばタクシーに乗っていてうつらうつらしてしまったのだと思い出し、体を起こそうとして――ようやく異常に気付いた。
今、彼が座っているのはタクシーのシートではない。粗末なパイプ椅子だった。しかも両手両足が細いロープで複雑に椅子へ括りつけられていて、身動きが取れない。
見れば、辺りは見慣れぬ場所だった。薄暗く殆ど視界がきかないが、かろうじて壁も床もコンクリートがむき出しであることだけは見てとれた。地下駐車場のようにだだっ広い空間だ。そこら中に巨大な木箱が積み重ねられているので、何かの倉庫かもしれない。
「随分と冷静だね、君は。もう少し慌てるとか叫ぶとか、ないのかね? それとも、まだガスが抜けてないのかな」
再び、声が聞こえた。見れば、木下の正面、十数メートルほど先に人影が立っていた。男だ。暗くて顔は見えないが、声の感じからすると年の頃は木下とそう変わらないように思えた。
「……ああ、いや。まだ夢の中なのかと期待したんだが、どうやら違うらしいな」
「そうだ、夢ではない。これは現実だよ、木下勇一朗くん」
カツンカツンと足音を響かせながら男が近付いてくる。まず服装が見えた。濃いグレーの、何の変哲もないスーツ姿だ。次いで、髪。こちらは黒々とした髪を七三に分け、清潔感すら感じられる。
最後に、顔。四十絡みの、人の良さそうな笑みが貼り付いていた。知らない男だ。だが、同時に少しだけ見覚えもあった。どこかで似たような誰かを見た覚えがある。
「さて、自己紹介が必要かな? 私は君をよく知っているが、君は私を直接は知らないだろうからね」
木下から五メートルほどの所で立ち止まると、男は恭しく一礼した。左手を胸に当て右手は腰の後ろに隠すという、外国の映画でしか見たことがないようなお辞儀だ。木下はそれだけで、目の前の男が鼻持ちならない相手であると感じた。
「自己紹介の前に、このロープを解いちゃくれないか? 食い込んで痛くてしょうがねぇ」
「はっはっはっ、聞いていたよりも豪胆なんだね、君は。拘束を解く理由はない、とだけ言っておくよ」
「そいつは残念だ」
ニィ、と余裕めいた笑みを浮かべる木下。だが、実際は精いっぱいの強がりだった。目が覚めてくるに従って、自分の置かれた絶望的な状況をはっきりと理解してしまい、内心では恐怖に震えあがっていた。虚勢を張っていなければ、今すぐにでも失禁し、泣き叫んでいることだろう。
どうやら木下は、「氷の華」に捕らえられてしまったらしい。
「あのタクシー運転手はどこへ行った? 頼んだのと全然違う場所に連れてきやがって。後で会社に文句を言ってやる」
「それは止めてくれないかな? 彼はただ、職務に忠実なだけなんだ。むしろ、君自身のリスク管理の不徹底を反省する方が先じゃないのかね? 我々が君に注目していたのは知っていただろうに」
「……まさか、適当に拾ったタクシーがお前らの手先だなんて、気付けるかよ」
「いやいや、それは我々の組織力を舐めすぎているよ。ターゲットを確保する為なら、我々は最低でも十の組織を同時に動かす――と言っても、殆どの下部組織は、今回の一件で軒並み駄目になったので、君の確保は難儀したのだがね。はっはっはっ!」
木下をからかっているのか、それとも本当のことを言っているのか。男の表情からは全く読めない。先程から何度も声を上げて笑っているが、どれも芝居がかっていて無機質に感じられた。
「で? 俺に何の用なんだ、名無しの権兵衛さんよぉ」
「おっと、私としたことが自己紹介を失念するとは。木下くん、君、話を逸らすのが上手いね。詐欺師の才能があるんじゃないのか?」
「お前ら程じゃないさ」
「おっと、これは一本取られたね……。さて、もうお気付きのようだが、ここは我々『氷の華』が持つアジトの一つだ。携帯の電波もGPSも入らない地下だから、助けは来ないよ?
――では、改めて。私の名は田崎太郎。一応、『氷の華』の総帥ということになっている」
「お前が、田崎か。なるほど、どこかで見たツラだと思ったが」
いつぞや和田刑事に見せてもらった写真を思い出す。あの写真の中では、安田と背格好と雰囲気の似通った青年だったが、今や変わり果てた中年だ。面影はあるが、言われなければ同一人物だとは気付かないだろう。
「やはり、私の顔と名前は知られてしまっているんだね。参ったなぁ、折角この二十年近く、写真も撮らず監視カメラにも気を付けていたのに。警察にバレてしまったか。身内まで消して、世間から隠れていたのにねぇ。全部おじゃんだ! ははっ」
――木下の背筋に冷たいものが走った。今、この男は何と言っただろう? 「身内まで消して」と言わなかったか?
和田刑事の話では、田崎は天涯孤独の身だという。木下はそれを、ただ単に家族親類がいないだけだと思い込んでいたが、どうやら違ったようだ。
この男は、自分の過去を消す為に身内を始末したのだ。本当の悪魔だった。
恐らく、木下も目的が済めばあっさり殺されてしまうのだろう。冗談ではなかった。
「なあ、田崎さんよぉ。いい加減、本題に入っちゃくれないか? 俺をこんな楽しい部屋に招待してくれた理由ってやつをさ、教えてくれよ」
震えそうになる膝を必死に抑えながら、木下は勝負に出た。あくまでも強気で冷静な自分を演じる。そのことで相手に「余裕」を感じさせる。
圧倒的不利な状況にもかかわらず余裕を持った相手というのは、不気味に映るものだ。何か切り札があるのではないか? 何か交渉材料となる情報を持っているのではないか? 少しでもそう思ってもらえれば、僅かながらも生存への道が開けるかもしれない。木下はそこに賭けたのだ。
「本当に肝が据わってるね、君は。うちの幹部に欲しいくらいだよ。これから人手不足になりそうなんだ。どうかね?」
「謹んでお断りする。で、どうなんだ? 俺はこれでも忙しい身分なんだ。商談は手早く済ませようぜ」
あえて「商談」という言葉を使って「自分と交渉するとお得だぞ」と暗にアピールする。とんだ優良誤認だが、四の五の言っていられる状況ではなかった。
「ま、話が早くて私は助かるがね。君に訊きたいことは、二つある。一つ目は私の興味本位の質問だ。肩の力を抜いて答えて欲しい――君は、『氷の華』をどう思う?」
「どう思うって、それは……クソッタレなカルト集団?」
「はっはっはっ! はっきり言ってくれるねぇ」
「それ以外に言いようがないだろう。なんて言って欲しかったんだよ」
自分が命惜しさに美辞麗句でも並び立てるとでも思ったのだろうか? 木下は訝しんだ。だが、どうやら田崎はそういった話をしたい訳ではないようだった。
「木下くん、それは果たして、本当に君の意見かな?」
「……どういう意味だ」
「そのままの意味だよ。君は『氷の華』について、どれだけのことを知っているんだい? 君がクソッタレ等という評価を下したその理由は、本当に君自身の頭で考えた結果なのかい?」
「そりゃあ、安田からの手紙もあったし、警察からの情報もあったからな。編……信頼出来る人から提供してもらった、お前らに関する事件の取材結果も見た。俺みたいな人間の屑から見ても、お前らがクソッタレなことは事実だと思うが」
吐き捨てるように言い放つ。木下には田崎が何を言いたいのか、さっぱり分からなかった。「氷の華」が外道の集団であることは疑いようのない事実だ。それを何を今さら、と。
「じゃあ、質問を変えよう。木下くん、君は今までに一度でも『氷の華』が関わったと思しき事件の現場を見たのかい? 被害者から直接話を聞いたことがあるのかい?」
「――それはっ」
言葉に詰まる。確かに、木下が「氷の華」ついて知っていることは全て伝聞によるものだ。木下自身が直接に現場に出向いたり、被害者からの証言を聞いて回った訳ではない。
編集長からも直接取材を進められていたが、伊藤のことや自分の身の安全を守ることで手一杯で、結局果たせずじまいなのだ。
「おやおや、その表情は図星みたいだね。流石に被害者団体や支援している弁護士くらいには話を聞いたのかと思いきや、おやおや。君は他人から聞いた話を根拠に、我々をクソッタレ呼ばわりしたのかね? 酷いなぁ。君はアレかな? SNSで炎上案件が発生した場合、ネットに転がっている情報だけ読んでファクトチェックしたつもりになって、嬉々として炎上に加担する、ネットイナゴと同類かね?」
――全く反論が出来なかった。木下が自分の脚で稼いだ情報など、たかが知れている。そういった意味では、エルゴ・ニュースが普段からやっている炎上案件を起こしたり、「延焼」させたりする行いと、なんら変わらない。
「木下くん」
言葉に詰まっている木下に、田崎は突如として優しい声音で話しかけた。がらりと変わったその雰囲気に、木下の心が揺さぶられる。
「君が知っている事件は全て実際に起こったことであるのは間違いない。だが、あれらを起こしたの我々ではないのだよ。全ては我々を貶める為に、誰かが企んだ陰謀なんだ」
「な、なんだって……? 一体、誰が」
まさかの展開に、木下も囚われの身である事実を忘れ、思わず前のめりになる。
しかし――。
「それはね……嘘に決まっているだろう! 君の知っている事件は、全部、全部、全部! 我々が起こしたものだよ! はっはっはっ! 木下くん、君は中々にピュアなんだな!」
「お前……俺をからかっているのか!」
からかわれたのだと気付いた木下の心中に、怒りの火が灯る。今すぐ目の前の男を殴り倒してやりたいと思うも、固く結ばれた手足は動かず、パイプ椅子がガタガタと音を立てるだけだった。
椅子自体も音を立てるだけで全く動かない。どうやら何かで床に固定されているらしい。
「おお、勇ましい限りだね。いいね、木下くん。君は実にいい。――そう言えば、『大銀河の波動』の幹部の中には、君のようにピュアな心を失っていないくたびれた中年が大好物な紳士がいたな。彼はまだ、警察にもマークされていない。ここに呼ぼうか? 撮影隊と一緒に」
「……遠慮しておくよ」
ゾゾゾッと、木下の中の怒りの炎が寒気に負けて消えていく。
例のセックス教団の「儀式」では、同性同士の絡みもあったのだと思い出し、田崎の言葉が冗談には聞こえなかったのだ。
「……ふざけるのも大概にしろよ。今のが興味本位の質問だってんなら、もう一つが本命なんだろ? とっととそっちの話をしようぜ」
強がりながらも、木下は失禁寸前なほど緊張していた。いや、既に少し漏れてしまっているかもしれない。田崎に臭いでバレないだろうか? 等と益体もないことを考えて現実逃避をしかける程度には、正気を失いそうだった。
「ふむ、それもそうだな。ではもう一つ質問だ。こちらが本命さ。今度は、おふざけではない。君にしか訊けない重要ことだ。いいかな?」
「おう、どんとこい」
半ばやけくそ気味になりながら、木下は堂々とした態度を見せた。
「こちらの質問には、よく考えて答えて欲しい。――木下くん、君は安田の最期の現場に居合わせたそうだね?」
「……なんのことだ?」
「とぼけなくても調べは付いてるよ。あまり私をイライラさせないでもらいたいかな」
「……ちぇ、バレバレかよ。ああ、そうだよ。多分俺が、知り合いの中で安田を見た最後の人間だよ」
そう言えば「記者K」の正体が自分だということを、和田刑事達にも見破られていたな、等と思い出しながら、木下は開き直って見せた。あくまでも堂々としていなければならない。
「残念ながら、我々の情報網でも安田の最期の姿だけは分からなくてね。そこで、目撃者の君に尋ねたい。――あの事故で死んだのは、確かに安田だったのかい?」
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