2.再会
『世の中には恵まれた人間ってのがいるもんだな』
安田翔太と知り合った頃、木下が彼に対して抱いた印象がそれだった。
成績優秀、品行方正、顔立ちはやや童顔ながらも整っていた。両親はどちらも医者であり、木下の記憶が確かならば、安田自身も医学を志していたはずだ。
何度か遊びに行ったことがある彼の実家は、団地暮らしの木下から見ればとてつもない「豪邸」で、出てくるお菓子や飲み物も駄菓子やジュースではなく、上等なケーキと紅茶だった。
その記憶は子供だった木下の脳裏へ強烈に焼き付き、後に「ブルジョア」という言葉を知った時に安田家のことを思い出したくらいだった。
中学卒業以来、安田とは会っていない。彼が私立の進学校へ進んでしまったことで、なんだかんだと縁が切れてしまったのだ。
当時はまだ、中学生が携帯電話はおろか、個人のメールアドレスも持たない時代だ。連絡手段は自宅へ電話するか直接訪ねるか、はたまた手紙でも書くしかない。木下にとって安田は、そこまでして交流を続けたい相手でもなかった。
精々が、折に触れ「そう言えば中学の時に、家が金持ちで優秀な奴がいたな」と思い出す程度。木下にとって、安田とはそういうレベルの友人であった。共通の友人も少なかったので、ついに風の噂を聞くことさえ無くなり、数十年が過ぎていた。
(衝撃的過ぎる再会だぜ、全く)
故郷へ向かう車中で、気だるげに窓の外を眺めながら木下は一人苦笑した。
まさか、安田との数十年ぶりの再会が、あんなことになるとは。想像だにしなかった。むしろ、想像出来る奴がいたら名乗り出て欲しいくらいだ。
他人事だと、正義感で自滅したバカだと嘲笑った相手が、まさか旧友だったとは。偶然にしては出来過ぎた、悲劇的な奇跡だ。あるいは、他人を助けずに見殺しにした木下への罰なのか――。
(馬鹿馬鹿しい! あの場には俺以外にも沢山の連中がいたんだ。俺だけが罰を受けるなんて、ナンセンスだ)
やり場のない苛立ちが沸々と湧いてくる。恐らくそれは、木下が心のどこかで罪悪感を覚えているからだろう。「見殺しにした」という自覚があるからに違いなかった。木下は、それに気付かないふりをする為に目を閉じ、電車の心地よい揺れに身を任せた――。
***
木下の故郷は、「帰郷」という言葉が似つかわしくない程度に都心と近い。電車で一本、一時間ほどの距離にある神奈川県は藤沢市の郊外だ。
本来ならば、都心勤務だからといって一人暮らしする必要もない。実際、木下の地元は藤沢市の中でも都心で働く人々のベッドタウンという側面の強い街だ。駅郊外には大型の住宅地や団地が数多く造成され、それに反比例して古い町並みはとても少ない。
それにもかかわらず、木下は大学を卒業するなり都内で一人暮らしを始めていた。両親との関係があまり良くなかった為だ。金銭的には大層苦労することになったので、木下は後に自分の決断を深く深く後悔することになったのだが――。
藤沢駅を通り過ぎ、一つ下った辻堂駅へと降り立つ。木下が住んでいた頃は、味気のないバスターミナルと取ってつけたような商店街が建ち並ぶ、典型的な新興の田舎町だったが、今はすっかり見違えていた。
駅前は綺麗に再整備されていた。味気なかったバスターミナルの周辺には広いペデストリアンデッキが整備され、大型の商業施設へと直結されている。
駅からやや離れた場所には芝生の整備された大きな公園や総合病院、誘致された企業のビルなどが並んでいる。まるで別の街にやってきてしまったような、そんな印象を受けてしまう程にイメージが変わっていた。
(変われば変わるもんだな)
改札を出て、小奇麗になった故郷の街を眺めながら、木下の口元に苦笑いが浮かぶ。街とは裏腹に、木下は見事に汚い中年男に成り果てていた。今はクリーニングされた喪服に身を包んでいるからまだマシだが、普段着姿ならば道行く女子学生が避けて通りそうな風貌だ。
なんとなく、惨めな気持ちになってきた、その時。
「……木下君?」
何か美しい存在が、木下に話しかけてきた。
女性だ。年の頃は木下とそう変わらない。だが、肌艶が良く長い黒髪も毛先まで手入れが整っていて、立ち姿もキリっとしているので、どこか若々しい印象がある。
年相応に皺が刻まれた顔も、むしろそれが化粧の一部ではないのかと思えるほどに整っており、大人の色気が漂っている。
喪服に身を包んだその女性に、木下は覚えがあった。
「金野か?」
「そう! うわぁ、久しぶり木下君! 中学校以来ね」
彼女の名前は
片思い、という程ではないが、木下にとっては「輝かしい青春の一ページ」にあたる。
「変わらないな、金野は」
「そんなことないわよ。もうとっくにオバサンだもの。木下君こそ、あまり変わらないわね。見てすぐに木下君だって分かったわ」
朗らかに微笑みながら、木下の社交辞令を社交辞令で返す金野。その距離感は、二十数年ぶりとは思えぬほど昔通りに感じられた。
もし、これが偶然の再会だったのなら、二人でお茶としゃれ込みたいところであったが、二人にはそう出来ない理由があった。出会ったのも、偶然ではない。辻堂駅の改札前で待ち合わせしていたからだった。
「っと、立ち話もなんだから、行きましょうか? 車、駅前のショッピングモールの駐車場に停めてあるから」
「悪いな、世話になる。斎場まで、遠いのか?」
「ちょっとね。駅からは離れてるけど、車ならすぐよ」
二人はこれから、安田翔太の葬式に向かわなければならないのだ。
***
実家を通じて金野から連絡があったのは、つい数日前のことだった。
『安田君のお葬式をするから、木下君にも参列してほしい』
何故、金野が安田の葬式の連絡をしてくるのかは謎だったが、断る理由はなかった。木下はすぐに実家から伝えられたメールアドレスに連絡を返し、当日の待ち合わせの約束を取り付け、今に至る――。
「なあ、訊いてもいいか?」
「なぁに」
金野の愛車――英国製の高そうな小型車――に乗り込んでしばらくしたところで、木下はおもむろに口を開いた。
「安田の葬式、もしかして金野が手配したのか?」
「そうよ。正確にはうちの両親が引き受けて、私が手配したの」
「身内でもないのに、なんで金野が」
一瞬、「もしや金野と安田は結婚でもしていたのか?」という考えが浮かんだが、すぐに打ち消した。流石に、夫が死んでこんなに落ち着いているとは考えにくい。
「う~ん、他に引き受ける人がいなかった、からかな」
「なんでさ? 安田のご両親だって、まだいないような歳じゃないだろ」
「……そっか。やっぱり、木下君にはそこから話さなきゃいけないのか」
ぽつりと、独り言のように呟きながら金野が始動キーを押すと、愛車のエンジンが小気味よい唸りを上げた。そのまま、教科書通りに方向指示を出してからゆっくりと車を発進させながら、金野は語り始めた。
「安田君のご両親ね、随分と前にお二人とも亡くなってるのよ」
「えっ……?」
「事故でね。高速道路で渋滞に捕まった時に、後ろから大型トレーラーが突っ込んで。私達が、高校生の頃よ」
「マジか。俺、そんな話、全然知らないぞ」
普通に考えれば、中学時代に付き合いのあったクラスメイトの両親がそんな死に方をすれば、少しくらい情報が伝わってくるものだ。だが、木下にはそんな話を聞いた記憶は、欠片も無かった。
「他ならぬ安田君が、友達や知り合いには殆ど伝えなかったのよ。理由は知らないけど……。彼のご両親とお友達だった私のお父さんには、流石に連絡があったけど」
「金野の、親父さん?」
「うん。安田君のご両親とは、幼馴染だったんだって。だから、私も安田君とは小っちゃい頃から知り合いで……まあ、その話は今はいいわね」
「金野と安田が幼馴染だった」という初耳の情報は少し気になったが、木下はあえて口を挟まず金野に先を促すように頷いた。
「安田君、その後は親戚の間をたらい回しにされてね。酷い話だけど、その親戚の人達が揃いも揃って悪い人ばっかりだったらしいの。いつの間にかご両親の遺産も、おうちも、他人の手に渡ってて……」
「なんだそれ、あまりにも酷くないか」
「でしょう? うちのお父さんも怒ってたわ。でも、全部後の祭り。結局、安田君はバイトしながら苦学して大学にまで進んだんだけど……その後のことは、私も父も知らないの。全く連絡が取れなくなっちゃったから」
「そんな、ことが」
安田の辿った人生の転落劇を聞き及んで、流石の木下も絶句した。「運が悪い」の一言では済ませられない不幸の色を、この短い話の中に感じてやまなかった。
「きっと、相当に苦労したんだと思うわ。お父さんが言ってたけど、亡くなった時に安田君が持っていたお財布には、千円しか入ってなかったそうよ。住んでたアパートにも通帳の類は見付からなくて、それが全財産だったんじゃないかって――でも、それでも誰かを助けようとして命を落としたらしいから、きっと正義感の強い安田君のままで亡くなったのね……」
懐かしむように、悲しむように、慈しむように、ポツポツと語り続ける金野を前に、木下は一言も発することが出来なかった。
「自分はその安田を見殺しにした。あまつさえ、その最期を飯のタネにした」等と、言える訳がなかった。いずれバレてしまうことかもしれなかったが、今それを明かす勇気は、木下にはなかった。
安田の事故について詳細を報じたニュースは数少ない。殆どが、安田の名前と「人命救助の末に自らが轢かれた」ということを簡単に報じただけだ。木下の書いた記事だけが、その中で異彩を放つほどに現場の空気を伝えている。
安田の訃報に心を痛めた金野が、事故を報じた記事を読み漁ろうとするのは自然なことのはずだった。その際に、最も現場の詳細を伝えている「エルゴ・ニュース」に辿り着くことも。
(勤め先がエルゴ・ニュースだって事すら、言わない方がいいかもな)
金野の丁寧な運転による心地よい揺れを感じながら、木下はぼんやりとそんなことを思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます