第一話「ある氷河期世代の死」

1.人身事故

 『初めに、けたたましい警笛の音が響いた。次いで、甲高く不快な金属が擦れる音。女性の悲鳴。「駅員を呼べ!」という誰かの叫び声。そして、一瞬の静寂の後、終電間際のホームは大混乱に陥った。――人が、電車に轢かれたのだ』

 そこまで書いて、木下はキーボードを打つ手を止めた。つい先ほど目撃したばかりの光景を思い出し、口の中に酸っぱいものがこみ上げていた。

 終電間際の駅のホームで人身事故を目撃したのが、つい数時間前。

 混沌と喧騒に包まれたホームに佇みながら、仕事用のSNSアカウントに「目の前で人身事故発生。■■駅」と投稿したのがその直後。

 駆け付けた救急隊や警察が、ブルーシートに隠れて「救助活動」を行っているのをぼうっと眺めながら、「記事にすべきだろうか?」等と他人事のように考え始めたのが、その更に数十分後。

 封鎖の解かれたホームから会社に駆け戻ってパソコンを立ち上げ、記事を書き始めたのは、ほんの十数分前のことだ。

 木下が勤めるのは、最新のニュースや世間を騒がす話題、雑学などを扱ったキュレーション・サイト「エルゴ・ニュース」の運営会社だ。ようは企業運営によるニュースサイトだが、その実態は国内外のゴシップネタや炎上案件を面白おかしく脚色して掲載する、いわゆる「まとめサイト」に近い。

 記事の殆どは提携ニュース社からの転載や、契約の外部ライターの手によるものだ。木下のような正社員たる編集者の仕事は、それら記事のチェックとサイト全体のアクセス解析など、裏方仕事が多い。

 しかし、社長――編集長の方針で、編集が手ずから記事を書くこともある。曰く「たまに体温を感じる記事があった方が、固定読者が増える」のだそうだが、木下にはその真偽は判断出来なかった。

 が、編集長の言わんとするところも分かる。今が正に、「体温を感じる記事」を書くべき時なのだろう。「百聞は一見に如かず」とはよく言ったもので、実際に事故現場を目撃したことで、木下の脳裏には普段浮かばないような情緒的な文章の数々が次々に浮かび始めていた。

 既に編集長には連絡を入れてある。原稿を完成させ次第、簡単にチェックだけしてもらってから、すぐにサイトで公開することになっている。警察発表よりも前に現場の詳細を伝えられれば、それだけで自分達の「勝ち」なのだ。情報は鮮度が命だ。

 仮令たとえ、それが凄惨な事故現場の様子を伝えるそれであっても。

 ――目を閉じ、当時の状況を思い返す。最初は……そう、酔っぱらった老人がホームへ転落したのだった。終電間際の、自らも酔っ払い、あるいは仕事に疲れ切ったホーム上の人々は、ざわざわとするばかりで誰も動こうとしなかった。

『誰かが非常ボタンを押すだろう』

『駅員が気付くだろう』

 いわゆる「正常性バイアス」というやつだ。非常事態を前にしても、周囲の人間が動かなければ自らも動こうとしない、あれだ。実際には誰も非常ボタンを探しもしなかったし、ホームに駅員が常駐している駅ではないので、気付きようがなかった。

 そのまま、誰も何もしないまま数分が過ぎ、電車の到着時間が近付いてきた中、ホームから線路上に飛び降りる者の影があった。着古したカーキ色のジャンパーとボロボロのジーンズを身に纏った男だった。

 男は、線路上に倒れ伏したままの老人に駆け寄ると「大丈夫ですか!」と声をかけ始めた。しかし、反応はなかったようだった。仕方なく男は、老人の体を引きずりながらホームの方へと運び、押し上げようと気合いの声を上げ始めた。

 それでも、ホーム上の人々は、その様子を心配そうに眺めるだけで手伝おうとはしなかった。木下もその中の一人だった。

 そうこうしている間に、ホーム上では「電車が参ります」という無機質なアナウンスが流れ始めていた。不幸なことに、老人が転落したのは電車が入ってくる方の端だ。そのままでは、二人が轢殺されることは明白だった。

 男は焦った。焦りながら老人の体を一生懸命にホームへ押し上げつつも、その視線は助けを求めるようにホーム上の人々へと向けられ――木下と目が合った。

 四十絡みの、木下と同年代くらいの中年だった。やけに色黒で頬のこけた、この世の不幸を一身に背負ったかのような険しい顔。どこかで見たことがあるような、どこにでもいるような。そんな彼の顔が木下の目に焼き付いた、次の瞬間。終わりを告げる警笛が鳴り響いた――。

 男の最期の姿を、木下は直接目にはしていない。彼は最後の力を振り絞って老人をホーム上へと押し上げると、その反動で線路へと倒れ込み、そこへ電車が突っ込んできたのだ。

 それらしい音はしなかった。あるいは骨が砕け肉が引き裂かれる音があったのかもしれないが、全ては警笛とけたたましいブレーキの音の中に消えていた。男の命の灯と共に。

 ホーム上に残されていた男のカバンだけが、彼の生きていた証となった。

 酔っ払いの老人の方は、いつの間にか姿を消していた。警察や救急が周囲の人間に行方を尋ねていたが、誰も老人の姿が消えたことに気付かなかったらしい。命を救った老人にすら顧みてもらえないとは、なんとも後味の悪い話だった。

(その後味の悪い話を飯のタネにしようって男が、今さら何を)

 思わず、自嘲じみた苦笑を浮かべてしまう。「エルゴ・ニュース」の記事の中でも、ゴシップや人の不幸を煽りたてたモノは人気の「コンテンツ」だ。驚くほどのページビュー数を叩きだしてくれるので、広告収入にも大きく寄与している。

 「他人の不幸で飯を食っている」ことなど、今更なのだ。木下は、そのまま本文を書きあげ、それをEメールで編集長へと送った。

 程なくして、編集長から若干の手直しをされた完成原稿が返信されてきた。内容に殆ど変更はないが、一部の言い回しに生々しさが増していた。実際に現場を目撃した自分よりも、「もっともらしい」印象に変わっていた。流石だった。

 木下は、それをサイトへアップロードした。「エルゴ・ニュース」のトップページを開くと、記事は問題なく公開されていた。公式のSNSからも自動で更新通知が投稿されている。

 見出しは『終電間際の■■駅で人身事故! 本誌記者Kによる生々しい目撃談!』。考えたのは編集長だ。

 SNSの様子を見ると、既に深夜であるにもかかわらず、ポツポツと記事が「共有」されていた。終電間際とは言え、都内沿線での人身事故だ。影響を受けた人の数も決して少なくないだろう。人身事故の場合、そういった「割を食った」人々の一部が、自分の不幸を自慢するかのようにSNSで情報を拡散して、コメントまで付けてくれるのだ。ページビュー数がモノを言うこの業界では、実にありがたいことだった。

 ざっとマスコミ各社や他のニュースサイトの記事をチェックしたが、いずれも「■■駅で人身事故が発生。電車に遅れ」程度の内容だった。現場からのレポートをいち早く伝えたのは、「エルゴ・ニュース」だけだ。

 一人ほくそ笑み、木下は大きく伸びをした。既に帰りの電車はない。「漫画喫茶で夜を明かすか」などと一瞬考えたが、今月は割と家計が厳しい。このまま、会社に泊まって節約しようと思い直す。

 木下はデスクの下から愛用の寝袋とアルミロールマットを引っ張り出し、急造の寝床を整えると素早くその中に潜り込んだ。長らく洗っても干してもいない寝袋からは、やや味わい深い薫りが漂っているが、気にしたら負けである。

 空調はつけっぱなしにしておいた。事務のお局からはうるさく言われるだろうが、今は真冬だ。しかも、二〇一八年のこの冬は、格別に寒い。西日本では三十二年ぶりの寒さだそうだ。木下も凍死などしたくはなかった。

 ――目を閉じるが、眠気はやってこない。木下は今年四十一歳になるが、最近は睡眠時間が短くなっているように感じていた。歳をとった証拠かもしれない。

 ふと、瞼の裏に轢死した男の絶望的な表情が蘇った。名前も知らない、同年代と思しき、どこかで見たことがあるような、どこにでもいるような、そんな男の顔が。

 電車での人身事故の場合、被害者の氏名が公表されることは少ない。調べようと思えば調べられるが、逆に言えば、知ろうとしなければ知らないままで済んでしまう。

 木下が知ろうとしなければ、彼は「名も知らぬ哀れな犠牲者」のままとなる公算が高い。そして、木下にその気はなかった。

(おかしな正義感なんか振りかざすから、ああなる)

 自分が傍観者であったことなど棚に上げて、木下は死んだ男を侮蔑した。

 木下達は、いわゆる「氷河期世代」だ。国からも企業からも冷遇され、安定雇用の恩恵を受けた者の方が少ない、見捨てられた世代だ。あの男が見た目通りに木下と同年代だったのなら、正義感が報われないことなど、とうの昔に学んでいるだろうに、と。

 「この世の誰もが自分の人生という名の舞台の主役である」――そんな言葉を、どこかで目にした覚えがある。まるで笑えない冗談だ、と木下は思ったものだ。

 頑張っていい大学に入って、その次はいい企業に入って、がむしゃらに働いて働いて。それでも世の景気が悪すぎて、気付けば取り返しがつかないくらいに貧しいまま年を取っていた。そんな人間はゴマンといるし、氷河期世代の中ではまだマシな方だ。

 多くの氷河期世代は正規雇用にすら辿り着けず、いわゆる「ワーキングプア」として現在進行形で擦り減っている。預金がないどころか、借金がある人間も多い。

 世間の荒波に揉まれるだけ揉まれてボロボロになるのが主役だというのなら、人生とは三文芝居でしかないだろう。木下達の世代では、別の時代に生まれていれば名優だったであろう人材が、主役どころかその相棒役にさえなれず、脇役ですらなく、出番を待ち続けて燻り続けているのだ。

 来るはずのない出番を、擦り減りながら待つことしか出来ないのだ。

(他人を助けている余裕なんて、俺達にはないだろ?)

 自分や同級生達が受けた屈辱的な仕打ちを思い出し、木下の中で燻っている怒りの炎が俄かに勢いを増す。――が、こんな場所で一人怒りに打ち震えたところで、世の中が変わる訳ではない。

 無力感に苛まれない為の防衛本能なのか、木下は急激な睡魔に襲われ、そのまま安らかな眠りへと落ちていった。


 ――そして、夢を見た。

 どことも知れぬ薄暗闇の中に、中年男の顔が浮かんでいた。電車に轢かれて死んだ、あの男だ。

 恨みがましそうな眼で木下を見つめる男の顔には、おおよそ生気というものが感じられない。

 それはそうだろう。男の顔は宙に浮いている。体は存在しない。中ほどで千切れた首からは、ポタポタとどす黒い血が滴り落ちている。

「そんな目で見られても困る。赤の他人の酔狂に付き合って命を懸けるほど、こちとら人間が出来ていないんだよ」

 これが夢だと理解しつつも、木下は言い訳がましい言葉を男の首へ投げかけた。僅かながらの良心の呵責がそうさせたのか、かすかに感じる恐怖をごまかしたかったのか。それは木下自身に分からない。返事を期待したわけでもない。

 だが――。

『赤の他人だなんて、酷いじゃないか木下。昔はあんなに仲が良かったのに』

「……なんだと?」

 口の端からゴボゴボと血の泡を吐きながら、生首が答えた。まるで旧知の友人にそうするように、馴れ馴れしい口調で。

「悪いが、生首に知り合いはいないぞ」

『そりゃあそうだ。僕が生首になったのは、君が助けてくれなかったからじゃないか。あの時、助けてくれてれば、数十年ぶりの再会が叶ったのにさ』

「……お前のことなんて知らない」

『そうやって、現実から逃げるのかい? もう、僕が誰なのか君は気付いているはずだよ?』

「うるさい。消えろ」

 いちいち癇に障る生首の言葉にイラついた木下は、何かその辺りに落ちていたモノを拾い上げ、投げつけようとして――止めた。それは、千切れた誰かの二の腕だった。

「ひっ!?」

『おいおい、僕の腕を乱暴に扱わないでくれよ木下』

 二の腕を取り落とす木下を見て、生首がケタケタと笑った。

「お前は、誰だ」

『自分の胸に聞いてみるんだね。そら、目覚めの時が来たよ』

 急速に辺りが明るくなっていく。生首の言葉通り、目覚めの時がきたらしい。

『次に会う時は、ちゃんと名前を呼んでくれよ』

 最後に、生首のそんな声が聞こえた気がした。


   ***


 ――ブブブ、ブブブ。

 眼を開くより先に、何かの振動音が耳に届いた。携帯電話のバイブの音だ。

 むくりと起き上がりデスクの上の携帯電話に手を伸ばす。アラームかと思いきや、電話の着信だった。スマホの画面には「実家」というそっけない文字が大写しになっている。

 時刻は既に朝の七時。いつもなら、もう起きている時間だ。

「……もしもし」

 通話ボタンを押し、不機嫌そうに応答する。木下と両親の仲は悪くはないが良くもない。こうやって電話がかかってくるのも半年ぶりくらいだ。

「あ、勇一朗かい? お母さんだけど」

「どうした、こんな朝早くに」

「実はね、東京の警察からアンタ宛に電話があって。連絡が欲しいって」

「警察……?」

 警察の厄介になる覚えが木下には無かった。そもそも、東京在住の木下に連絡を取る為に、東京の警察――警視庁が都内ではない実家へ電話するというのもおかし話だった。

「あのね。中学の同級生の、翔太君って覚えてるかい?」

「翔太? ああ、安田翔太か。もちろん覚えてるよ」

 おぼろげに、中学の時に仲の良かったクラスメイトの顔が浮かんだ。確か両親が医者で本人も成績優秀という、絵に描いたような優等生だったはずだ。

「その翔太君が、亡くなったらしいんだよ」

「えっ?」

 ――木下の背筋に謎の寒気が走った。

 木下達も既に四十代。同級生には病気や事故で亡くなった人間もそこそこいる。だから、訃報自体は悲しくはあっても、そこまで驚くことではなかった。

 にもかかわらず、木下は全身を貫くように走る不気味な寒気を覚えていた。

「なんでもね、。で、持ち物にウチと、他数件の電話番号が書かれたメモがあってね。……ちょっと? 聞いてるかい?」

「……ああ、聞いてるよ」

 母親になんとか答えつつも、木下は震えだした手を抑え、携帯電話を取り落とさないようにすることに必死だった。

 頭の中に二つの顔が浮かぶ。一つは昨晩、電車に轢かれて死んだ男の顔。もう一つは、ややおぼろげな安田翔太の顔。

 その二つが、木下の脳内でゆっくりと重なった。人相はだいぶ違う。だが、確かに面影があり、鼻や目元など一部が一致した。

『もう、僕が誰なのか君は気付いているはずだよ?』

 夢に見た生首の言葉が蘇る。

 そう。電車に轢かれたあの男は、中学時代の友人である安田翔太に違いなかった――。

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