薄氷の向こう側へ

澤田慎梧

2022年のエルゴ・ニュース社

 二〇二二年四月。キュレーション・サイトを運営する「エルゴ・ニュース」社は、久しぶりの新入社員をオフィスに迎えていた。

「はい、ここが君の席ね。私物は袖机に入れて。鍵はこれ」

「ありがとうございます、副編集長! うわ~、『自分の席』って、なんかワクワクします!」

「ははっ、そういう反応は初めてだな。大概の若い子は『え、フリーアクセスとかじゃなくて固定席なんですか?』とか、『あ、どうせリモートばっかなんで特に席はいらないです』とか、ドライな反応が多かったけど」

「う~ん、私は逆ですね! 前の会社にも『自分の席』ってなかったんで、逆に嬉しいですよ?」

「はぁ、そういうもんかねぇ」

 親子ほども歳の離れた新人女性の初々しい反応に、副編集長と呼ばれた男は思わず目を細めた。

 コロナ禍により採用を中断していた為、実に二年ぶりの新人だ。大事に育てていかなければ、と気持ちを新たにする。

 「エルゴ・ニュース」社は「キュレーション・サイト」を謳ってはいるが、その実態はいわゆる「まとめサイト」に近い。国内外で話題になっている、主にゴシップネタを蒐集し面白おかしい見出し等で脚色した記事をサイトに掲載している。

 殆どの記事は外注のライターによるもので、社員たる編集者の主な仕事は、その内容のチェックだ。面白みが第一、訴訟沙汰回避が第二。倫理観が来るのは大概の場合、一番最後になる。

 若い、しかも女性にはキツイ仕事のはずだ。セクハラにならぬ程度に手取足取り面倒を見ねばと、副編集長は心中で密かに決意した。

「君、前職は大手の出版社だったよね。言っちゃあなんだけど、なんでよりにもよってウチみたいな会社に?」

 彼女を面接したのは社長――編集長その人だった。なので、副編集長はまだ彼女の志望動機すら知らない。これから、OJTという名目で指導していく都合もあるので、その辺りの情報は少しでも引き出しておきたかった。

「あはは、ちょっと色々ありまして」

 チャーミングな笑みを浮かべながらも言葉を濁す新人。言外に「私的事情なので踏み込むな」と言っているのだ。この辺りの腹芸は、なんとも最近の若者らしい。

「あ、でも御社……じゃなかった、この会社を選んだのには、ちゃんと理由があるんですよ」

「というと?」

「ほら、四年くらい前に人気の連載記事があったじゃないですか! 『氷の華』事件を追ったやつ! あれをウチの父が絶賛してまして、その印象が強くあったもので」

「ああ、『凍れる世代』シリーズね」

「そう、それです! ウチの父も氷河期世代だったので、当時夢中で読んでたんですよ。それで」

 「凍れる世代」シリーズは、今でも「エルゴ・ニュース」の人気記事の一つだ。とある氷河期世代の男性の死が、全く別の大事件へと繋がっていくという追跡取材記事で、大手出版社経由で紙の本にもなっている。

「『エルゴ・ニュース』って殆どが無記名記事なのに、あれだけ記名記事だったじゃないですか。『記者K』さんでしたっけ。その人って今も編集部にいるんですか?」

「ああ……Kさんはね、今はもう」

「辞めちゃったんですか?」

「そんなところだね」

「なぁんだ。ちょっとがっかりです」

 歯に衣着せぬ新人の言い草に苦笑いしつつ、副編集長は「もう四年も経つのか」と内心で嘆息した。

 新人は無邪気に語るが、当事者の一人だった副編集長には、とてもではないが笑って語れるような話ではなかったのだ。

 「記者K」が目撃したとある駅での人身事故。

 裕福な家に生まれた優等生の人生が行き詰っていく過程。

 そして、数多くの人生を狂わせた「氷の華」と呼ばれる集団。

 記事の殆どは真実だ。だが、当然のことながら記事には書かなかった――否、書けなかったことも多い。恐らくは、今後も書かれることはないだろう。全ては関係者の胸の内だけに秘められ、いずれ忘れ去られる運命にある。

 けれども、あの事件は決して過去のものではない。今も、確かに続いているのだ――。

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