未知通信

天池

未知通信

オルー「じゃ、おまえは、申し分のない男のくせに、なぜ自分から進んでむりやり男じゃないようにしているのか、その理由くらいは分かっているんだろうな。」司祭「それを説明するとなるとちょっと長くなり過ぎるし、説明してもよく分かってもらえないような気もしますが。」

              ――ドゥニ・ディドロ『ブーガンヴィル航海記補遺』



 鳴り止まない未知通信の中から一筋の声を聴き分けるのは別に僕の能力ではないし、誰の指示でも要請でも、計らいでも教条でもなかった。時計を裏返したような静けさが雄大な恐怖を薄めていた。そもそもこの部屋の床に置かれた時計は止まっていて、その裏側は扇風機のそれに似ていた。何も動こうとしない景色や止まった文字盤は断続的に別の場所の夜を映し出すチャンネルになるらしい。夜は眠り込んで立ち現れる。距離も厚みも表裏も存在していない。ほんの少しのそよ風も見つけた途端に消えてしまう。抜け道が予想外のところに現れるからこそ抜け道なのであれば、その出口がこんなにも開けた空間であるというのはやはり幻想だからに他ならないだろう。何も動きはせず、殆どの未知通信は幻想だった。事実が眠り込んでいるときに、風に揺蕩う通信が揃って不時着する原に僕はいた。そっと軌跡を辿ってみてもあまり先へは進めなかった。

 毎週月曜日の午前の内に、アパートのポストに必ず通信は届いた。何も表記のない茶封筒の封を切ると、大判の紙が数枚、幾重にも折り畳まれて入っていて、紙面には手書きの文字がびっしりと並んでいた。真ん中にマーカーペンで直線が引かれ、左側にA語の文章、右側にはその日本語訳が載っていた。瓊葩(けいは)はそれを二つ折りの状態で本の下敷きにし、ぴっしりと伸ばしてから、スケッチブックに端を貼り付けて保管することにしていた。灰色の表紙にノートの罫線をあしらったスケッチブックは、一部の本やノート類を並べた机上の棚の一角では大きさが少し目立ち過ぎるということを除けば、何の不思議も特別さも示さない外観をしていて、むしろ頼りなさをすら感じさせた。見開き一ページにつき一枚の通信を貼り付けているスケッチブックは二冊目に突入したところで、青みがかった黒テープの背表紙が息を止め合うように机の端に並ぶ。片方は表紙を見せ、もう片方は裏表紙を見せている。三面をこまごまとした物品に囲まれて長方形にくり抜かれた机上のスペースに明かりを点けると、二冊のスケッチブックは一際長い影を落とし、必ずその手の上に差し掛かるのだった。

 何気ない風にしてポストを開けて、片手でそっと封筒を掴むと、瓊葩は内階段で部屋に戻り、この長方形のスペースで封を切った。本の重みで折り目を伸ばすのも、マスキングテープを使ってスケッチブックに留めるのも、必ずここで一度にやり終えた。読むのにかかる時間は殆ど不変だ。枚数が多いときは初めから少し緊張している。通信は一枚分を一人が最後まで担当して書き上げており、一番下のところに署名があった。両手に広げた通信の日本語訳の部分を隅から隅まで、時折原文に視線を彷徨わせながら読み終えると、それを二冊のスケッチブックの間に横向きにして挟んでおき、次の紙に移った。視界の前方に飛び出している紙の数が増えれば増える程、静かに焦りが増幅していった。原文の一行目に少し目をやれば、それが誰の文章であるのか瓊葩には大体分かるようになっていた。署名のところを見るまでもなく、その途端、瓊葩の中に一つの名前が高速で巡るのだった。まるで自分の身体の周りを、小さな魚の子供がぐるぐると泳いでいるようだった。でも瓊葩の頭に突然浮き上がる名前が、他の名前とは違う、ある特別なものであるとき、それは波だった、無限に重なり合う密かで巨大な囁きだった。巨岩の陰に隠れていた魚達が一斉に逃げ出して、真っ白な泡の中を突き抜けて去って行く、大きな渦の中、それでも僕は呑み込まれずに、中心でじっと姿勢を張り詰めながら、文章の下方へ視線だけで潜っていった。


 ……わたしは何を選び取って生きていくとしても、人と関わることが結局は常に怖い。わたしの善性をわたしの中だけに留めておきたいと思っている。善性をおそるおそる取り出すこと、それ自体がわたしは怖い。インクの文字を見ているとわたしの過ごして来た長い時間を思い出す。そして少しだけ、その時間が目に見えない気体として発散して、人々の領域に溶けていく夢想が生まれ出すのを感じる。ついペン先に力が籠る。そうしていると、ペンの不変の長さや形体の上に、夢想に入り込んだ自分が逆立ちして、ペンが勝手に動いていくような、そんな空漠な想像に包み込まれたりもする。わたしはとにかくこの紙の前にいる。一人でこれを書いている。……ミハイル


 通信を抜き取られた封筒は、見た目の上でも性質の上でも、完全に普通なありふれた物体となる。スケッチブックを元の場所に戻し、封筒を再び両手に持つと瓊葩はほっとして息を吐く。全ての言葉を取り込むことは義務に近い。言葉の居場所はもう分からず、だからそっと席を立つ他ない。机の電気を落とすと、垂直に迫っていた影が消え、三方の障壁が作り出すささやかな暗闇が空間に残された。それはまた、一枚の写真に切り取られた、暗黒の嵐の海を進む一隻の船のようでもあったのだ。瓊葩は封筒をゴミ箱に捨てると、リュックを持って部屋を出た。アパートの外は濃密に巣食う光が地表じゅうの全てのものを捕食し続けるように燦燦と輝いていて、人々はそれと知らない内に共存関係を結び得たかのように、服の様々な色と繊細で逞しい素肌とを翳しながら、往来を寿いでいた。場と場とが絶え間なく繋がれ、浸され、刻み込まれている。大学の裏手のカフェで昼食を摂って、カプチーノを飲んでから授業に出た。

 古い教室の白塗りのドアを開けて中に入るとき、瓊葩は何とも言えず気詰まりで、不快な温度に溶け合っていく性急な繕いを感じる。月曜のB語の演習には学年を問わず十数人が出席していて、等間隔に並んだ教室の席は既に半分程が埋まっていた。瓊葩は前方の廊下に近い席に腰を下ろし、四方を断崖に囲われたような、少し窮屈な机の滑らかな表面を何を考えるでもなく見詰めながら、テキストとペンケースを取り出した。留学を視野に、現代のB社会における生活や言語使用について理解を深めることを目的としたこの演習は、数年前に新しく作り直された教材に沿って、日本語の説明とB語での板書で進められ、授業の後半は学生同士で行う会話練習に充てられた。教育やレジャー、医療、格差や分断、宗教、商業、音楽、文学等、テキストでは毎回様々なテーマが立てられ、人々が生きている場所の精細で見事な解剖が行われるが、半年前に始まったAへの軍事侵攻に関係することはどこにも書かれていない。

 事実は勿論無視されている訳ではない。B語を専攻とする学科全体でのことだが、授業の最初の数回は一貫してこの問題を扱う時間になったし、周知すべき大きな動きがあれば先生は必ずそれに触れた。でも戦争についてだけ知ることが正義なのではない。それは言葉にされずとも教室じゅうに伝わっていた。新品のテキストが開かれ、幾つかの項目を飛ばしつつ、授業はそのリズムに信頼を向けた。戦争を知らないリズムが部屋を満たした。実際、他のみんながどうであるのかは分からないが、瓊葩はまるで教室にいる誰もが帽子や仮面やコートを被って扮装をして、それで何とか自分達のいる空間に耐えているような気がして仕方がなかった。身体の奥がむず痒く、確かに椅子に座っていながら、無重力空間で身悶えするような心地がするのだった。

 本の中にどれだけ馴染みのない世界の構成が写し取られ、知らない日々が見せつけられようとも、それが一斉に閉じられてしまえば全部が蜃気楼のように揺らいで薄らぎ、黒板の文字はもはや黒板に残された文字でしかなかった。会話練習にしても、それはBに住むどんな人の人格も想定しない、無機質でニュートラルな応酬であり、むしろその間、知り合いの顔がマスク越しで交わされる言葉の奥に遠ざかっていることにどこか恐怖を覚えた。前はそんなことを思いはしなかった。所定の時間が過ぎ、机ががたがたと動き出して、僕は再びリュックを手に取った。動いていたものは一瞬の後には消え去り、一度放っておいたものが軽々と瓊葩を引き込んだ。


 ……希望に身を乗せて、逃げた場所も安全なところではなかった。君は君だけの場所へ、人は人それぞれの場所へ、向かっていくことを続けるしかない。それを認め合うこと、手探りのまにまに何度でも出逢うこと。我々が信じるのは、こうした容易には見ることの出来ない希望である。……セルヒイ


 未知通信の発行が始まったのは五月の末のことだった。日本での公演を控えていた演出家のセルヒイは、A侵攻が始まったとき、出演者を呼び集めて日本に避難して来ていた。政府は避難民の積極的な受け入れに乗り出し、公演準備がしたいという彼等の要望を鑑みて、廃校になった都内の中学校の跡地を自由に利用出来る場所として貸し出した。その後セルヒイは、すぐに避難することの出来なかった仲間や、避難民として受け入れられた様々な分野の芸術家達をそこへ招き、Aの創作者やパフォーマーによる一つの共同体を作り上げる。

 通訳者として彼等の元を訪れて支援活動を行っている伊月さんは、校舎の中で秘密裏に原稿の翻訳を行い、通信を完成させていた。いわば地下発行の通信だった。はじめは、校舎に足を運んだ人が持ち帰ることの出来るフリーペーパーが存在していたのだが、自治体の検閲が入ることと、次第に横行し始めた嫌がらせの為、セルヒイはそれを一部の支援者にだけ届ける媒体に変えた。そして一枚を一人が担当するシステムを作り上げ、未知通信と名前を付けたのだった。

 セルヒイの目的は、集まった芸術家達の手で楽園を作ること。半ば住み込むかたちで、毎日校舎に集まり、絵画の制作やオペラの上演を行った。その背景には自治体からの支援があったから、「豪奢な生活」を非難されるのは必至のことでもあった。

 ……我々に出来るのは、我々の個人的な生を守ることだけだ。

 とセルヒイは書いた。

 ……我々は我々の楽園を作る。だがそれは、決して一つの楽園ではない。

 しかし彼等の活動が攻撃の的になった理由はそればかりではなかった。セルヒイ達の避難が完了して間もなく、Aでは緊急体制が固められ、十八歳から六十歳の男性は原則的に出国が禁止されたのだ。戦争のニュースが連日伝えられ、セルヒイ達の活動についても知られるようになると、どこかから、こんな声が上がり始めた。ここにいる男性達は何故戦いから逃げているのか、故郷の危機に立ち向かおうともせず……。

 そうした事情で、彼等の集まりに途中から参加した芸術家は女性が殆どだった。そしてミハイルがやって来た。「女装して」出国を行った詩人のミハイルがSNSでそのことを公表すると、賛辞や連帯のメッセージと共に、夥しい批判が集まった。セルヒイ達への攻撃は加速し、校舎の入口が一般に開かれることは殆どなくなった。

 セルヒイは、ミハイルへの中傷は勿論のこと、ミハイルを擁護しようとする投稿の一部が示した態度に対しても、未知通信の中で厳しく反抗した。


 ……示唆じゃなく、もっと確かな言葉が人を救うだろう。目撃した感情や事実を、もっともらしく何かの過去に結び付けて、その顛末に語るのを任せたり、人々の共有する枠組みに放り投げて、もう仕事は終わったとばかりに素知らぬふりをしたり、そんな言葉は何一つここへは届いていない。私は断言しよう。我々の内なる倫理学によって承認されたものしか芸術にはなり得ないのだし、そのようにして発された言葉だけが、力を発揮し、ありあまる未知に包まれた人間に新たな展望を開くのだと。


 未知通信を受け取るようになるまで、瓊葩はセルヒイをどこかで敬遠していたし、正確に言えばある種の不信感を拭うことが出来ずにいた。セルヒイの開始した活動はあまりに大胆で、なおかつそれは明確な意志の下で輝いているように見えた。体育館で上演されたオペラの一幕を初めて観劇したとき、空間を決定づける圧倒的な歌の威力と、それを更に強めて加熱するような、演者達の激しい踊りの絢爛さとに強く衝撃を受けて帰宅したのだったが、あのときも胸の高鳴りをいつまでも持続させた原因の幾らかはセルヒイだった。間違いなく、一つの歴史的瞬間に居合わせてしまったという動揺がある一方で、それを実現させたセルヒイの人物像は全く謎のままだった。ネットで検索してみても、数行の紹介文の他には情報がほぼ見つからなかった。

 他の観客達のようにただ感激してばかりでいることは瓊葩には出来なかった。何度も体育館へ通った。セルヒイは上演前の挨拶に顔を見せることもあったが、段々とその回数は減っていった。体育館を出ると中庭から校舎の全体を眺めることが出来て、瓊葩はよくそこで魅入られたように佇んだ。下足場の上に掛けられた時計はずっと止まったままだった。あの建物の中にセルヒイはいるのだろうか、と考えながら、夕暮れの中庭を横切って校舎の隙間を抜けた。左右のドアから校舎に入ればそこはギャラリーになっているのだったが、廃校独特の物悲しさなのか、誰かの生活圏域と呼ぶべきものの放つ気配なのか、錆びた鉄のドアからは独特の雰囲気が漂っていて、瓊葩にはそれに手を触れる勇気がなかった。

 ある日、偶然そのドアから画家らしき人が出て来て、瓊葩と目が合った。画家はそこで待つよう合図をして中に戻り、しばらくすると一枚の紙を手にして再び現れた。それが未知通信の案内だった。画家が去ると、もう辺りには誰もいなかった。雑草の茂る中庭と住宅街を貫く道路との狭間で、ふとあらゆる道が記憶から取り払われたような不思議な感覚に突然取り込まれた。或いは、ただ一人取り込まれたのは誰も知らない迷路のようでもあった。それでいて景色は少しも変わらないから、とにかくどこかへ進んで行かなくてはならない、と瓊葩は直観的に思った。


                 ***


 未知通信を購読し始めると、セルヒイに対する印象は大きく変わった。瓊葩が未知通信に慣れ、心を純粋に傾けるようになるにつれて、セルヒイの内面も澄んで浮かび上がって来た。セルヒイは未知通信以外の場所で何かを表明したり語ったりすることを止めた。それは明らかに戦略的な振る舞いだったが、その分だけ通信に記された言葉が緊密な迫力を帯びた。セルヒイは、自分の考えや目的をここでは一切隠そうとしなかった。それなのに、新しく届いた文章を読む度に奥地へと入り込んでいくような底知れない深みがあった。それでもその声が、通信の他の声と同様にあの校舎から響いているのだという認識に瓊葩が疑問を抱くことはなかったのだが、ミハイルが来てからは、それもよく分からなくなっていった。


 ……わたしの見た景色を、ここで書こうとは思わない。よく加減を制御して、握りしめた幾つかの言葉を静止した筋力の隙間から零し、やがてそれが地上に集まって筋をなすその流れに捕らわれた人々を、幻惑の波及さす混沌の力で、思うままの風景に放り込む詩的優雅さを、ことさらに今試みようとは思わない。

 だからあなたのいる場所はどこでもない。国を持つなら胸の内に持ったままで、花を知っているのならその澄んだ一角に、言葉を操ることが出来るのならその能力を秘めたままで良い。今あなたは、何も眺めてはいない、何も知ろうとしてはいない、何も知らない、何も。汽車が暗いトンネルに滑り込んでいくなら、それをすぐさま粘土みたいに捻じ曲げてやろうと思った。何人の人が乗っているか? 乗っているのはあなたひとりだ。これは詩ではないし、これは言葉ではない。捻じ曲げられた空間はどこに繋がるのか、その完全な暗闇が持ち得た奇蹟的な体積は? あなたは何も知らない。汽車のこと、その光度のことなんてどうでも良いのだ――。一瞬、銀色のレールが光って、だからわたしたちは放り出されたのではない、どこかへ移動したのではない、言葉だけが汽車に残って、そして消えた、わたしたちは何も見えない線路に取り残された。何も降って来はしないトンネルの暗闇。わたしはわたしを語りたくない。わたしを語る言葉は数知れず積もる砂の上。わたしは何かを体験したのか? わたしはどこにいるのか。わたしは残された。自分で捻じ曲げた秘密のおこないを素知らぬ心で見送って。素知らぬ人はもはやいない。わたしはあなたに語ることにする。

 わたしの船はオケアノスに辿り着くとある航海者は思っていた。この場所は、あなたが何も知ろうと思わないこの広がりはそう名付けられていた。だが誰の為に? 今こそ、その名を焼き捨てよう。不遜さは燃える魂の内にあり、それ自体は少しだって燃えはしない。その冷たさを、知る人、知らぬ人、みなそれぞれの旅路に消えた。黒い水面の奇蹟的な体積。船はひとり乗り。あなたが乗る。

 あなたを乗せること。わたしがここにいて望むのは、たったそれだけのこと。そんなほんの少しの言葉を――手にこびりついた名残を――船べりに記して、今櫂を下ろそう、巨大な熱風を見よう。もう時間だ。時間は巻き戻る。


 ミハイルの書く文章に視線の先で初めて触れたとき、瓊葩はそのくっきりとした文字列が繋がり合い、集まり合って生起するあまりに大きな重力と、日本語訳の言葉が導く広大な風景とに同時に攫われて、手から紙を落としてしまわないかと懼れるくらいだった。それは通信の最後の一枚だったから、二つに折り畳んで机に置くと、まるで何もかもを水晶型の海の中に落としてしまった後で、それを抱き込んで眺める存在になっている内に、しばらく高速で時が駆け抜けたかのような気がした。静かに他の三枚の通信をスケッチブックの横から引き抜いて、一つに固まった水底の古代遺跡の欠片を持ち上げるように本を抜き出し、通信をまとめてその下敷きにした。あのとき程、棚から抜き出す数冊の本が重く感じられたことはない。手を離した途端に全ては消えてしまう、視線を遮断した瞬間に全ては途方もない隔たりの中へ沈み込んでしまう。それはずっと前から知っていたことだった。それでもそのとき初めて僕は、自分を抜け出してあてどなく暗がりの方へ逃げていく、小さく痛ましい、怯えた一人の自分を発見したのだ。そっと呼吸が距離の幻惑をならし、僕は両手で本を持ち上げた。通信をスケッチブックに貼り付けて閉じ込めてしまうと、魚一匹分の体積が僕の胸から失われる気がした。遠いものに触れる手つきでそれを棚に戻した。水晶だったものが泡の塊になり、何度も海と役割を交代しながら、その反復運動の内に部屋に染み渡った。

 ミハイルの通信は、長大な手記と形容するのが相応しい。まるで長い旅の中で、様々な場所で巡り合った感情や発見が、時間的な繋がりを秘密にしながら記されているかのようだった。描かれるのは大抵抽象的な場所で、それが現実の体験とどう関係しているのかは分からない。それでも確かにミハイルはそこにいるのだった。未知通信が同じ場所で書かれていることを、瓊葩はもはや信じ得なかった。

 ……これは一つの長い物語なのだ。

 とミハイルは宣言した。終わりもなければ始まりもなく、地図すら作ることの出来ない旅の途中にミハイルはいた。けれどそれは、どんな景色を紡ぐものであっても、この現実を男のふりをして生きて来たミハイルの物語であることに違いはなかった。幾つもの言葉が、その実ミハイルによる、この世に一つの航海日誌だった。

 未知通信に記された色々な人の言葉を取り込んでいると、瓊葩は自分が自分だけの空間にいながら、あらゆるものに結び付けられて生活を続けている漠とした事実に触れ合わざるを得なかった。僕の毎日を成り立たせている風景の外側から、あの華やかな人達はやって来て、今この瞬間にもこの場所で日々を開拓している。その麗しさ、力強さに想像を膨らませれば膨らませる程、僕はどうして生まれたのだろう、と心のどこかで呟くのを止められなかった。

 ……私はその現実との間の距離をどうにか拡げようとしてここへ来た。もう何も見たくなかった。現実を理解し、受容することを迫るのがあのような仕方であるなら、私はそれを全力で振り払うしか術を持たない人間なのだった。

 とセルヒイは書いた。それは確かに希望の言葉だった。校舎の門が閉ざされてから、瓊葩はその小さな区画をことあるごとに想像するようになっていた。そしてその場所は、セルヒイの放つ言葉によって、全く新たなイメージへと変貌する。

 ……我々がこの唯一の媒介によって君に語りかけている、この場所を言葉の送信所と呼ぼう。我々のそれぞれの言葉が作り上げる一つの電波塔、その揺るがぬ姿こそ、君の見る未知の芸術のかたちである。

 どこからか響くセルヒイの声が、僕の身体を貫通して背後に消えていく。そのとき、机の上に前方から聳え立つ一本の影が、まるで今初めて生じたかのように、両手に広げた紙の上で荘厳に佇んでいるのを僕は見た。少しの間視線を紙から解放して、川の水面や夜空を眺めるときのようにそっとその線を辿って、棚に行き着くとまたこちらへ戻り、静かに、まじまじと、その突然の現前に心臓の血流を注ぎ込んでいた。これがセルヒイの言う電波塔なのだとしたら、僕はまさに、それをたった一人で目撃して捕らわれたことになる。視線を戻した紙の上は生ぬるい水たまりのようだった。僕は身を動かさずにそこをぴちゃぴちゃと泳ぎ切り、時間の岸辺に足を着けた。

 だがそれは王国の裾に広がる湖だったのか? 八月になって、施設の利用権を巡りセルヒイが自治体と争い始めた頃、ミハイルはまさしくその塔から通信を送った。


 ……わたしの王国では、明晰なものに対する反抗が根強い。それは文字にすること、整理すること、確認することへの反発力でもある。わたしがこの場所に来たとき、最初にこの身を包んだのはその力だ。ほんの少し場所を移動するだけでも、わたしが感じるものは一変してしまうのに、わたしはそれを言葉にするだけの気力を欠いていた。だからペンを握ることも初めは拒絶した。一体何が咲くか、わたしには分からなかったのだ。この地の植生を知らないわたしには、その任はまるで重過ぎた。

 かれのペンはざくざくと焦げ茶色の土に切り込み、その跡からはすぐさま驚く程大量の植物が次々に顔を出した。全てはそのペン先の思い通りなのだった。わたしはそれをしばらくの間よく眺めていた。土はいつでも違った眩さを湛えて、全く知らない巨大な世界がそこに立ち現れた。わたしはもはや詩人のわたしであるのか曖昧で、海からも土からもペン先を逸らし、一人で落書きのある木椅子に座っていた。壁に触れていた。ベンチに座っていた。夢を見る練習をしていた。

 かれはベンチに現れて、誰にも見通せないそのペンの秘密を教えた。生い茂る草の大地はその一振りで魔法の森へと姿を変え、四方の白い柵は黄金色に光り輝いた。わたしは何度もその場所で光を目に焼き付けた。そして気が付いたのだ。わたしに自在な景色とは、目を開いていようと閉じていようと、とにかくわたしが感じ取る全てのものを、わたしの信じた魔法によって作り替える可能性のことなのだ。わたしの魔法は一切の束縛を受けない。だから生きて最高に花開く日々を、わたしは知ろうと思った。人生の目的や人間の行先や、そんなこととは関係のない、開いては枯れ、開いては枯れ落ちる花の揺らめきや幻惑を、わたしはこの身で実現してみせたい。かれが別室で魔法なしの話し合いをしている内に、わたしは森の脇道を抜けて、裏手の柵に一斉に花を咲かせたブーゲンビリアを見ながらそんなことを思い出していた。


 通信が届く度、僕はその塔の確固たる姿に直面する。塔はいつでも僕の心臓の方に向いていて、どんな身動きをしても決して逃さなかった。だがそれは、やはり本当の電波塔ではなく、言葉を手繰ったり掴み取ったりすることによってしか近づくことの出来ないずっと遠い場所にその巨大な建造物はあった。それは僕のことなど見向きもしない、徹底的に堅牢な幻想の基地なのだ。僕はそれを見上げてうっとりしたり、寂しくなったり、ふいの感情に襲われて呑み込まれそうになったりした。

 目に見える空間を自分の愛せるものにする為の想像力を、僕はこの皮膚に包まれて生きながら求め続けた。そして「わたし」に対して疑問形でいるときに漏れた「わたし」が、一番もっともらしく聞こえたのだ。

 王国の全てはスケッチブックの中にあった。その塔に手を伸ばすとき、瓊葩は少しだけ悪徳めいた愉悦を感じるのだったが、それも心臓に開いた魚一匹分の抜け穴を塞ぐ為の衝動だったに過ぎない。追い求めることによってしか、その穴は塞がらないのに、どこを旅してみてもミハイルには出逢えなかった。夜眠れずにいると、胸の穴から幾つもの泡が飛び出して止まらなかった。「わたし」「わたし」「わたし」「わたし」「わたし」……。そうして僕は、湖の向こうに雲を纏った城の尖塔を見た。その未知を割いて、あなたがここへ来てくれたら良いのに。そのときはこの小さな泡が、きっと何よりも美しい景色を作り上げてくれるでしょう。僕は飛び掛かる沢山の言葉達を受け止めながら、幻想の原に身を横たえた。想像することで知ることだってあるのだ。ミハイルの苦しみ。希望。天地が揺らぐくらいの発見や、絶え間なく続く恐怖。一つ一つを想像して、その度に泡が昇っていく。全て、ここにいる現実だった。誰にも触れられない、水晶の中の世界、それでもこんなにも広大な、たった一つの事実なのに。

 ……今櫂を下ろそう、巨大な熱風を見よう。

 もうどんな風にも自分を繕わずに済むような、ただ僕がいたい場所へと僕は既に漕ぎ出していた。でもそれはどんな時間の糸も結ぶことの出来ない旅。真っ暗な水面に大切な面影が消えたと思ったら、すぐに大きな塔が立ちふさがって、霧が辺りを覆い尽くしていく。船の残像とわたしの鼓動。僕の見たい花はその熱風の向こうにあるのに、まだ僕の力ではそこへ辿り着くことが出来ない。疲れ果てて岸辺の草を撫でる。湖に言葉が降り注ぐ。その反映は、確かに綺麗だけれど、僕はちゃんと自分の視界を知らせたかった。あなたの言葉から何かを取り出して、僕の景色は作られたのだから、今度はその一部でも、僕の言葉であなたに届けてみたかった。あなたが苦しんだことを僕は知っている、時間差はあっても、ここで目を凝らして見届けているよ、って言ってみたかった。誰もいない場所を作り上げてくれてありがとう、ミハイル、それでもここから、わたしはあなたのところへ全力で漕いで行きたい。

 闇夜の中、一枚の黒い写真が燃えている。暗い大地で僕はそっとそれを見詰め、段々と呼吸を整えていく。どうか苦しみが全部この場所に零れ落ちてしまいますように。たとえそれが今ばかりの幻影に過ぎないとしても。王国の灯りに照らされながら、一隻の船は頼りなく弧を描く。


                 ***


 まるであの晴れ晴れしいオペラの演出の一部かのように、華やかな匂いを格調高く纏わせながらその知らせは届いた。いつもの茶封筒と一緒に、大きさの違う焦げ茶色の封筒がポストに入っていた。四隅に薄く枠取りの模様が浮かんで、まるで魔法の効果で何かをそこに貼り付けているみたいだった。差出人の表記はやはりなかった。

 以前のような文化的な活動が数ヶ月に亘って停止している状況では、もう施設の利用を特別に許可することは出来ない、というのが自治体の最終判断だった。焦げ茶色の封筒に入った二つ折りのカードには簡潔に交渉のいきさつが記され、集まっていた全員がその決定に既に同意していることが語られていた。日本語の、印刷された文章だったが、どこかに温かみの感じられるカードだった。そして下段は、非公開で行われる最後の舞台公演の招待状になっていた。必要な限りの言葉が、塔の中へと慇懃に手招くようだった。カードを四角形の封筒に戻すと途端に浮き上がる魔法。真白な階段が弧を描いて伸びていく。封筒を机の奥に立て掛けてから通信の封を切った。


 ……我々は語ることを止めるのではない。我々の声は抵抗であり、証明でもある。だが何よりまず個人的な道具であり、毎日を生き抜く為のとっておきの手段である。少しの間でも、ここでそのそれぞれの声にかたちと彩りを添えられたのは幸福なことだった。我々が言葉を振り撒き、それを君自身が実体化する限りにおいて、ここには交信があった。我々はこの内密な交信の場を抜け出して、またどこかで語り始めるだろう。だが電波塔が役目を終えても、未知通信は決して廃墟になるのではない。それはいつまでも、我々の日々が息づく場所であり、君に届いた言葉が作り上げる風景であり、未知すらも分け与えられるような、我々にとっての楽園の入口なのだから。


 焦げ茶色の封筒を上着のポケットに仕舞い込んだ瓊葩は、大通りを走り抜けていく車の列を横断歩道の手前で眺めながら、役目を終えた電波塔のことを考えていた。それは僕に明け渡された城だろうか。そこには本当に、まだ何かが残っているのだろうか。涼しい風が向こうの街路樹を揺らしている。沈みかけの陽を浴びながら横断歩道を渡ると、角のカフェからは店内のジャズが流れ出していて、大きな街路樹の葉陰には待ち合わせか時間潰しをしている人達が集まっていた。僕は穏やかに散らばった視線を弾きながら、道の真ん中を歩いていく。目印の曲がり角が近付いて来ると、頭の中に幾度となく聴きに行った音楽が流れ出した。もはや迷路のゴールがすぐそこまで迫っているようだった。一本道に入り込んで校門の前まで来ると、招待状に書かれていたように通用口から中に入った。扉を閉めて振り返ると、校舎と柵に挟まれた通路は案外広く、ざらざらした地面とくすんだ校舎の壁は一層荒んだ感じを与えていた。

 中には何人かの気配があって、ギャラリーを見ている人もいるみたいだった。瓊葩は校舎に入ってみようと思ったが、やはりやめておいた。すっかり暗くなった中庭の、今人のいなくなった広がりが、見逃してはいけないもののように思えた。瓊葩はコンクリートの通路を出て、真白なスニーカーを草の中に沈めた。

 一人、誰の視線も振り解きながら、中へゆっくりと進んでいった。体育館の奥のところに小さな菜園があって、その白いアーチの脇に一脚のベンチがあった。僕はその鉄の手摺りに触れてみた後で校舎の方に振り返り、閉ざされた窓と止まったままの時計をじっと見た。そうしていると、このベンチより後ろのものは、この瞬間に全て暗黒の湖に沈んでしまうような気がした。なんという静寂だろう。僕は思わず真白な階段のことを忘れてしまうところだった。

 ふと、校舎から体育館へと早足で向かう人がいるのに気が付き、瓊葩も急いで通路へ戻った。取り繕った高揚の中に、何か苦々しいものを隠していた。

「私達はここでの活動を本日をもって終了し、それぞれの場所で新しい表現を模索することにしました」

 タキシードを着たセルヒイの挨拶にすぐさま通訳が入る。

「未知通信と名前を付けた、完成のない私達の作品は、皆さんの記憶の中に皆さんの想像するかたちで存在している筈です。それがこれまで通りの在り方を失ったからと言って消え去るのではないということは、先の通信でお伝えした通り。これからその証拠をご覧に入れることにしましょう。私達は、いついかなるときも私達として生きており、その表現が誰かに伝わるとき、それはいつでも不滅の通信なのです」

 セルヒイが挨拶を終え、一歩後ろに下がると、それを合図に左右から大勢の人が現れて、列をなして舞台を埋め尽くした。誰もが輝かしく身を飾っていて、順番に真ん中に近付いて挨拶をすると舞台袖に捌けていった。その見事な動きの美もセルヒイの演出なのだろう。もう本人の姿は見えない。一列目の人達が皆いなくなると、二列目の人々は一気に前方へ躍り出て、そのまま挨拶を続けた。二列目の挨拶も終わりかけの頃、三列目の一番端にミハイルの薔薇色のドレスが見えた。二列目の最後の一人が恭しく頭を下げて足早に去ると、三列目の人達は心なしかゆっくりと前に進み出た。列は真ん中で二つに分かれ、そこに向かって突き出るように緩やかな角を形成していた。どちらの列も段々と短くなり、左側の最後の一人が静寂を残さないように挨拶を終えると、右側からミハイルが少しその後を追うようにして進み出た。

「わたしの言葉を読んでいて下さった皆さん。どうもありがとう。わたしは何を語ると決めることもせず、ただそのときに語れることを言葉にして来ました。どのように受け取ってもらっても良い、語らずに隠し通しておくよりはましだと思ったことだけを。それでもあなたたちを信じていたから、わたしはわたしの言葉を紡ぐことが出来ました。祈るようにあなたの目を想像してペンを滑らせました。

 わたしは自分を壊すような気持ちで国を抜けましたが、むしろ全てを壊していく目に見えない何かのスピードから放り出されたのです。わたしは詩人として作品を作って来ましたが、それはある種の覆面を被って行う作業でした。それは着けていて安心の出来る仮面でもあり、世界を無免許運転しているようなわたしには唯一無二のものでした。でもそれを外し、頭も身体も破裂してしまいそうなくらいの恐怖の中で、わたしに語れなかった言葉の片鱗を見たときに、透明な炎でわたしの全てを焼かれたような気がしたのです。それから壊したと思っていた自分の姿を見詰め直してみると、今までのわたしが、大抵は当たり前のようにして来たこと、して来なかったことの後悔が雪崩のように襲い掛かりました。皮肉なことだけれど、自分の軽薄さを数多の後悔で押し潰そうとするとき、そこに大海原が開けるのです。でもそれはあまりに恐ろしい海でした」

 ミハイルは沢山の薔薇の花びらそのものが塗り固めたような生き生きとした色の中に包まれて、舞台の端に仁王立ちしていた。瓊葩は初めて自分の見たかった花を見ていると思った。言葉はミハイルの口からとめどなく零れ出していた。体育館の前方に固められたパイプ椅子の座席で、瓊葩は太ももや手首に落ちる涙を堪えられなかった。舞台にはミハイルがたった一人でいて、今そこから語っているのだ。

「その海で、わたしが過去を語ったり、わたしの感じる世界を語ったりすることに、初めは意味を見出せませんでした。わたしは詩を書く為の覆面を捨てていました。わたしがわたしとして生きることと、それを表現することとの間には途方もない隔たりがあったのです。それでもあるときから、わたしは決めたのです。わたしの破綻と破綻を繋ぎ、言葉を刺繍していくのだと。自分と自分を繋いで、影の広がりを覗き込むのだと。そのようにして海を渡り、自在なものを探し求めて通信を書きました。それは確かにわたしがこの身で生きた事実です。今のわたしが伝えられる、何より明らかなことの一群です。だからそれが、どうかあなたの奥深くまで沈んでいきますよう。花を見た記憶が、あなたのどこかに沈んでいるように」


                  *


 暗い一本道を、人は好き好きの位置取りで歩いていく。瓊葩は少し足が重かった。それでもゆっくりと、嬉しい情熱を靴底に隠しながら道路を踏みしめた。大通りに出ると、ヘッドライトを点けたトラックや車の列が絶え間なく通過していった。光が遠ざかり、すぐにまた追われて、新鮮な循環を生み出している。瓊葩は左右を見渡して、遠くにぼんやりと立っている電波塔の姿を想像した。そしてこの身で、この情熱と共に生きていく世界を感じ取れるだけ感じ取ろうとした。僕は薔薇色の糸の伸びる一本の針を手に持って横断歩道を渡る。その途端から背後の全ては果てしのない海になり、針だけはいつでも光り輝いていた。


                  *

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未知通信 天池 @say_ware_michael

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