彼女は竹から生まれたのだと言った。
咲井ひろ
あの夏を、僕は今でも忘れてないよ。
2022年7月。
忘れもしないのは、あれが月曜日だったから。学校が終わってバイトが終わって家に帰りたくなくて何となく駅前で時間を潰して、何となく遠回りをして、
何となく辿り着いた思い出の公園は、思い出とはかけ離れていた。
好きだったブランコも滑り台もジャングルジムも、クルクル回る丸い遊具も撤去され、あったのは砂場とベンチだけ。
そんな場所で、僕は彼女と出会った。
公園の中心でポツンと一人。まるで彼女の為だけに存在しているような、スポットライト代わりの月明かり。黒髪が僅かに遮る寂しそうな横顔を見て、僕は生まれて初めて誰かを綺麗だと思った。
そんな彼女と目が合った。
「あなたも一人?」
彼女は微笑んでいた。
声を掛けられて咄嗟に顔を逸らしてしまった事、今は恥ずかしく思うし悔やんでもいる。ずっと見ていれば良かったのに。
「うん」
「そっか」
彼女は僕と同じ高校の制服を着ていた。しかし彼女のような人を僕は学校で見たことがなかった。だって一度でも見ていたら、廊下ですれ違いでもしていたら、彼女のような人を忘れるはずがない。
「私、昔この公園で遊んでいたの」
彼女との出会いは偶然だった。
「僕もこの公園によく来てたよ。もしかしたら昔ここで一緒に遊んでたかもしれないね」
「え、ホントに? すごい偶然ね!」
でもこの偶然は、偶然じゃなかった。
「そ、そうかな」
運命、でもない。あれはなんだったんだろう。だけど『同じ公園で遊んでいた』というだけで、まるでクリスマスに雪が降ったようにはしゃぐ彼女の姿で、どうでもよくなってしまう。
「ねえ。まだ時間あるよね?」
彼女は「あそこ」とベンチを指差して、どうやら何か話がしたいようだった。理由は分からなかったが、僕は頷いた。
「私ね、竹から生まれたの」
隣に腰掛けた瞬間、彼女はそう言った。変わった子だ、なんて思わなかった。嘘でも本当でもどっちでも良かったんだ。
「た、たけ?」
「竹馬の竹。松竹梅の竹。松茸の茸じゃないよ?」
「竹取物語の竹、だよね?」
「それそれ。あなたは何から生まれたの?」
「僕は」
彼女の、恐らく何気ないその問いに僕は答えられなかった。だって当然それは人で、当然それは両親で、それは僕が帰りたくない場所にいるわけで、
「分からない。何からだろうね」
思い出したくなくて、はぐらかしたんだ。
「ならあなたも竹から生まれたのかも?」
「だったらいいな」
僕達はそうやってお互いの名前も身の上も明かさないまま、他愛のない話を続けた。下らないのに夢のようでどうしようもなく楽しかった。時間が過ぎて行く度に、頭の片隅から離れないどうしようもない現実が苦しかった。
「そろそろ帰らなきゃ」
月を見上げた彼女が、呟いて立ち上がった。一人分の重みが消えたベンチはとても広く感じたけど、行かないでとは言えなかった。帰らなければいけないのは僕もだったから。
だけどそんな決定的な終わりを、彼女は去り際に覆してくれたんだ。
「次の月曜日。またここで会おうね」
「うん」
それからは毎日が輝いていた。だって火曜日水曜日はまだ思い出が残っていたし、木曜日は後4日、金曜日は後3日で、土曜日と日曜日には『もう少しで会える』って考えれば何ともない。
毎週月曜日の夜の、僕と彼女だけの時間。
連絡先も交換せず、何時に待ち合わせるなんて余計な約束もしない。ただ公園に行って会って話すだけの時間が、僕が自然に笑顔になれる唯一の時間だった。
そんな7回目の月曜日、朝に目が覚めた瞬間に僕は死にたくなった。
真っ直ぐに歩けない程の強風とあちこちで鳴り響く雷。冠水した道路から溢れ続ける濁流。流石に今日はいないだろう、いたとしてもすぐに解散になるだろうと、濡れたズボンで余計に重い足取りで公園に向かった。
「え」
そこで彼女は、傘も持たずにベンチで一人座っていた。
僕は一目散に走った。
「あ、来てくれた」
足音に気が付いた彼女の、ただでさえ白い肌のに蒼白に染まった肌色。何もかもどこまでも濡れたままで微笑む顔には髪が張り付き、雨が流れていた。
「何してるの!? 風邪ひくよ!」
「どうして風邪だけ『ひく』って言うんだろうね。他の病気は『かかる』って言うのに」
「どこか屋根のあるとこにっ」
「それってどこ?」
もういつものように話している場合じゃない。口に出したくなかった一言を僕は、告げようとした。
「今日はもう」
「帰りたくない」
遮ったのは、今まで聞いた覚えのない声色。月のように僕を照らしてくれていた笑顔以外の顔。それらを目の当たりにした僕は傘を捨てて、彼女の隣に思い切り座った。全身に染み渡るモノ以上に僕は不快だった。
彼女にこんな顔をさせる全てが憎かった。
「濡れちゃうよ?」
だけど僕は笑ってみせた。これが気の利いた言葉を持ち合わせない僕に出来る精一杯だったから。
「別にいい。僕も帰りたくないし」
すると彼女も笑ってくれた。
「私、この世界でずっと一人なの」
そうして語ってくれたのは、僕が聞きたくて堪らなかった理由。
「生まれた時からずっと一人な気がする。頑張っても頑張っても、みんな私から離れていく。勝手に期待して失望して、みんな逃げていく」
曖昧で抽象的で、だからこそ本心からの叫びのように思えた。
「僕は逃げない」
そうして僕も語った。今まで誰にも相談せずに押し殺した全てを、僕を押し殺す全てを打ち明けた。家のこと、学校のこと、僕自身のこと。きっと客観的に見れば下らないと笑われるようなことを。
「あ、ごめん。僕ばっかり話してるね」
そんなものを彼女は黙って聞いてくれた。
「いいのいいの。だってせっかくこんなに雨が降ってるんだから、水に流すの。ほら、水は昔から『穢れを祓う』って言うじゃん?」
「穢れを祓う、か」
「不浄を祓って病を癒すんだって。変だよね。だって明日絶対風邪ひいてるもん」
「かもね」
そこからはいつものような心躍る雑談。雨風は相変わらず強く、険しく、お互いに何度も何度も額や瞼を拭いながらの会話だったが、そんな状況が余計におかしくて楽しくて、遂には公園を駆け回って遊んだ。砂場の泥をかけ合い、水たまりを跳ね飛び、何もかもから解放されたみたいにはしゃいだ。とっくに水没しているスマートフォンには、きっと大量の連絡が届いていただろう。
「じゃあまた、来週の月曜日にね」
「うん」
こうしていつもより遅く、いつもより短い時間を終えた僕達は、また約束をして家に帰る。
翌日は熱と吐き気でベッドの上から動けず、両親からは「学校以外で二度と外出はさせない」と言われた。アルバイトも辞めさせられ、部屋からは何もかもを取り上げられた。
きっと先週までの僕であったなら、これに絶望していた。
だけど僕には来週がある。
彼女以外の他に何もいらない。家なんて抜け出せば良い。もしも追い出されたならただ月曜日をあの公園で待てば良い。風邪が治るかどうかだけが心配だったけど、治らないなら這って行けば良いと考えれば気が楽だった。
だって彼女は、絶対にあの場所にいる。
火曜日は騒音の中を眠った。これは後に分かった事だけど、どうやら部屋の外側から南京錠か何か鍵を取り付けていたらしい。水曜日は部屋に母親が来て、僕に食パンを投げつけて部屋からまた何かを奪って行った。木曜日は空腹を感じただけ。金曜日と土曜日ははっきり覚えていないけど父親が来て、顔が痛かった気がする。
日曜日は何も。
月曜日。早朝に僕は着替える。机の下に事前に隠しておいた金をポケットに入れて窓から家を出た。体に上手く力が入らず、あちこち怪我をしたけど、熱は下がっていたと思う。
彼女と会うのはいつも21時を少し過ぎた頃。
彼女はいつも僕より先に公園で待っていた。
だから「今日くらいは」と着いた夕方、彼女の姿はまだない。だから一人でベンチに座って、沈む太陽とはしゃぐ子供達を眺めた。両親とここで遊んだ時、僕はあんな顔をしていたのだろうか。まだ僕に友達がいた時、僕はあんな風に笑えていたのだろうか。
全てが朧げだった。
僕の頭の中で渦巻く何もかもが、彼女の微笑みで消え失せていく気がした。いつ辺りが暗くなったのか、いつ星が見え始めたのか、いつの間に子供達がいなくなったのか。
そんな時だ。
突然眩しさを感じた。
「待った?」
これはなんだろう、って。そうしてふと声が聞こえた方を見上げた時、僕は目を細め、見開いた。
「君は……そうか」
月そのものよりも遥かに美しく光り輝くその正体は、ふわふわと空を降りて来る彼女だった。真っ直ぐにこっちに、軽やかに舞う彼女を僕は疑わなかった。
だって彼女は自分を「竹から生まれた」と言っていた。ここ日本においてそれはあまりにも有名な話で、一人しかいないだろう。
「かぐや、姫」
僕が呟くと、彼女は「懐かしいなあそれ」なんてはにかんでいた。
「かぐやでいいよ」
「うん」
「いこ?」
「うん」
こうして僕は初めて彼女の名前を知り、僕達は初めて公園を抜け出した。
彼女と歩く夜の街。草臥れた街灯、道行く人々の疲労に塗れた顔ぶれ、全てがまるで初めて訪れた場所のように新鮮で、僕はおとぎ話の世界に迷い込んだようだと胸を踊らせた。
やがて辿り着いた、古びたビルの一棟。
「ここは……」
駅前からそう遠くない場所にある剥き出しのコンクリート。壁面に乱雑に貼り付けられたポスターに描かれていたのは、思わず目を背けたくなるおどろおどろしいイラスト、タイトルと『見知った』役者の名前。
「映画館なんてこんなとこにあったっけ」
「早くしないと始まっちゃうよ」
「うん」
入口を抜けた先、すぐ目の前に取手が錆びた大きな扉。スクリーン内は既に暗く僕達の他に
誰もいない
映画館。
一番前の中央2つに揃って座ると、いきなり鼓膜が痛むほどのオーケストラが聞こえ、画面には滲んだ赤のタイトル。
制服を着た若者が逃げ、叫び、千切れ、無惨に次々と殺されていくという冒頭に、僕は体を少し強張らせた。
だけどさっきまで輝いていた彼女の、今はスクリーンに照らされて輝いている横顔に、僕は強がることに決めた。
「こういうの嫌い?」
そんな時彼女がひっそりと、耳元で囁いた。
「ううん。大丈夫」
強がった。
「本当に?」
「本当に」
彼女の前では強い自分でありたい。目を背けない、逃げない。
「君が好きなものなら、僕も好きになりたいんだ」
「どうして? どうしてそんな風に言ってくれるの?」
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
「学校にも家にも、この世界のどこにも味方のいないあなたがどうして私に優しく出来るの? 私が好きだから? 顔が可愛いから?」
「違うよ」
「違うってどうして言えるの? みんな私の前から逃げるのに」
この時、僕は既に少しおかしくなっていたんだと思う。
「僕はもう君以外の全部がどうでもいいんだ。僕は君以外の全部が嫌いになってしまった。だから僕は君から逃げないよ」
好きだからとか可愛いからとか、そんな単純な理由じゃ説明が出来ない程に深く、まるで心臓か首の血管を鷲掴みにされているかのように苦しく、涙が出てしまうほどに彼女を求めていた。
「ふふふっ。そう。そうなの。そうですか」
彼女の手が、僕の手に触れた。
「なら私も、あなた以外に何も望まないことにしました。ですので下さい。貴方の全てを私に下さいませ」
スクリーンの中では、夫婦が教室の椅子の脚で串刺しにされていた。
「仏の御石の鉢も蓬莱の玉の枝も火鼠の皮衣も龍の首の珠も燕の産んだ子安貝も何も望みません。貴方が私の前から消えぬというなら、私も貴方の前から消えぬとお約束します」
目の前で、最後の一人の首が刎ねて飛んだ。
「いざ月の都へ、共に参りましょう」
僕はこの時、
僕の通う学校の、
僕の教室で、
僕の椅子に座っていた。
血と臓物と脳に塗れた彼女は、隣の席に座って手を伸ばし微笑んでいる。
辺りにはクラスメイト達が、恐らくそうであると思えるものが、僕を嫌っていた全てが、転がっていた。
「あ、え?」
僕の座席の脚には、両親が突き刺さっていて、目が合った。
「なんで、僕はここに……これは、だって僕達は映画を見てて、それで」
「随分な表情ですねぇ? こういうのは「大丈夫」なのではないのですか? 私の好きなものなら好きになるのではないのですかぁ?」
わけがわからなかった。
「これらは貴方の「嫌い」なものでしょう? どうしてそんな顔をしているのですか? 私はこんなにも笑顔ですよ? なら良いじゃありませんか。私以外はどうでも良いではありませんか」
彼女の僕を見つめる瞳が、真っ赤に染まっていく。大きく開いた口から、鋭く尖った八重歯から涎をだらりと垂らして、僕の首筋をペロリと。
「貴方を私に『下さい』ませ。そして『共に』月の都へ参りましょう」
そして笑い、僕も笑った。
「さあさあ」
そこからのことはあまり覚えていない。
ただ無我夢中に走って、気が付いたら布団の中でくるまっていた。次の日か次の次の日か家に警察がやってきて、僕はあの夜が、あの日々が現実だったんだと思い知らされた。何度も何度も同じ事を聞かれ、同じ話を繰り返し責められ笑われ、憐れまれた。
こうして鉄格子の付いた窓と真っ白な部屋に閉じ込められて、もう1年が経つ。
「これが僕と彼女の思い出の全てです」
「なるほど、ね」
親族さえ来ないからこういう面会は新鮮だ。会う気も話す気力も僕にはもう残されていなかったけど、この、訪ねて来た初老の男が「かぐやの事を知ってる」なんて言うもんだから。
「間違いない。それは『輝夜姫』だ」
「は?」
「輝夜姫、古来より地球を脅かして来た化け物」
「ばけ、もの?」
「月の裏側にあるという都からやって時折やって来ては人を魅了して殺すか、食うか。700年前に我々の祖先が遭遇し名付けたんだ。日本最古にして、確認されている唯一の、吸血鬼」
「へえ」
「君は幸運だ。アレと遭遇して命があるのは奇跡と言える」
「奇跡、ですか」
「私は輝夜姫討伐を目的としている組織の一員でね。もし良ければ君の力を借りたい」
「そうですね。奇跡だったのかもしれません」
そう、僕と君の出会いは偶然でも運命でもなく、奇跡だったんだ。
「僕はね、あの時からずっと数えているんです」
「何をだ?」
「火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日曜って、ずっと数えてた。ねえおじさん」
ああ、ようやく会える。
「今日は何曜日か知ってますか?」
眩しい。
「僕は謝りたいんだ。あの時に逃げ出してしまったことをずっと後悔してる。僕は君以外に何も要らなかったのに、少しおかしくなっていたんだ」
眩しいなあ。
「僕はね、おじさんが嫌いなんです。彼女を「それ」とか「アレ」とか言ったおじさんが。彼女を「化け物」と呼んだおじさんが憎くて許せない」
「お前何を──」
「彼女は僕の「嫌い」なものを全部殺してくれた。退屈も孤独も、現実さえも殺してくれた。そしてそれはいつだって」
そう、確かあの時も、
「月曜日だったよね。かぐや」
君はそんな顔で笑っていたね。
「ふふふ」
彼女は竹から生まれたのだと言った。 咲井ひろ @sakui
★で称える
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