第180話 力比べ

 城の東翼の間に突如として現れた巨大な蜘蛛。

 その禍々しさは鬼のそれを遥かに凌駕していた。


 妖としての格が違う。


 一目でそう思わせるだけの、他者を遥かに凌駕する存在感が土蜘蛛には確かにあったのだ。



「な、なんだおめー? さっきのめんこい娘っ子はどこに消えたズラ?」


 普段は金熊童子以外のことで感情が揺らぐことがない虎熊童子が、土蜘蛛が姿を現した途端、明らかな動揺を見せていた。


 辺りをキョロキョロと見まわし、幹のような太い首をゴキゴキと鳴らして首を傾げている。



「もし……、わたくしなら目の前におりますよ」


 赤黒い体皮に水色と黄色のまだら模様。邪悪な毒々しい色付きをした土蜘蛛から先ほどの少女の可憐な声が聞こえてきたことに虎熊は驚きを隠せない。



「なな、なして蜘蛛から娘っ子の声が? オラをバカにしてるズラか? 奇術じゃオラは倒せないズラ!」


 虎熊は焦りからか闇雲に拳を振り回す。土蜘蛛の翠に向かって伸びてくる岩のような拳を、翠は第1歩脚を素早く伸ばし、黒曜石を思わせる黒々とした鋭い爪で、打撃の始動前にピタリと止めた。



 基節きせつ転節てんせつ腿節たいせつ膝節ひざぶし脛節けいせつ蹠節しゃくせつ跗節ふせつ


 一般的な蜘蛛の脚には多くの節が存在するが、土蜘蛛には各節の間にさらに節が無数に存在するため伸縮自在。妖術で腕を伸ばす虎熊と違い、MPの消費は一切ない。


 土蜘蛛は単なる一動作として八本の腕を自在に伸び縮みさせることが可能。それだけでも基本的な運動性能スペックの差は明らかだった。



「ぐ……こんのぉ!」


 虎熊は翠の爪をそのまま掴むと無理やり折りにかかる。翠のもう一本の第1歩脚が伸びてくると、それも空いている左手で爪を掴んだ。


 6m級の虎熊と、5m級の土蜘蛛によるフィンガーロックからの力比べ。メキッミシッと乾いた音が東翼の間に流れる。そして、先に悲鳴をあげたのは……



「ぐぼぼぼぼ……いでえ! いでえズラ!」


 翠は鬼界一の怪力を誇る虎熊相手に力比べで圧倒する。虎熊の両腕は【バキッ】と乾いた音を立てて肘から折られ、岩のような皮膚と骨がバラバラと床に落ちていく。



「ああああ……いでえ! 怖え! でも、でもでもでもっ! 金熊には近づけさせないズラぁ!」


 金熊への想いが恐怖の感情を打ち消す。虎熊は雄たけびをあげながら、翠を上回る背丈から渾身の頭突きを振り下ろしてきた。



【ゴォォォン】と、辺りに鐘を突いたような音が反響する中、翠の真っ赤な眼の間、眉間に頭突きが直撃すると、ボロッと零れ落ちたのは虎熊の岩のような顔面の皮膚だった。



「があっ……つ、強すぎるズラ……」


 そしてついに虎熊は膝をつく。その衝撃で部屋が揺れると、茨木への攻撃に夢中になっていた金熊が唖然とした様子で虎熊に向き直った。



「なにやっとんじゃ虎熊ボケェ! 負けたら二度とウチに近づくことは許さへんで!」


「で、でも……こいつ、つ、強え」


「やかましいわ! ウチが勝て言うたら、おどれは黙って死ぬまで戦ってりゃええねん」


 一方的に虎熊をなじる金熊の向こうに白い肌が血だらけの茨木が姿が覗く。


 そんな中で、一刻も早く茨木を助けなければという思いは、翠の中に別の焦りを生み出していた。


 人間になりたい翠は、ギルたちに出会ってからと言うもの、通常は人間の姿で過ごすようになっていた。


 加えて、戦いを好まない元来の性格も相まって、「土蜘蛛完全体での戦闘」は、翠に毎秒ダメージと呼べるほどの大きな精神的な負担をかけていたのである。


 このままでは完全体を維持できない。そう思った瞬間から、翠の身体が小さくなっていく。



「あ、あぁ……」


 翠の小さな口から力の抜けるような声が漏れる。土蜘蛛の身体の大きさが半分に縮まったかと思われた時、じろきちが翠の頭の上にふわりと帽子をかぶるように乗ってきた。



「翠よ」


「じろきち?」


「うむ、おヌシばかり矢面に立たせてすまぬの」


「そんなことを伝えるためにわざわざ?」


「……いや、おヌシの力になりたくてな。殺生石によって妖力が奪われ、全盛期の十分の一程度の力しか出せないとは言え、これでも元は九尾の狐。仲間のピンチに黙って見ているだけってのは、どうもアチシの性に合わんのじゃよ」


「無理をなさらないで。わたくしならまだ戦えます」


「遠慮は無用。仲間の申し出はありがたく受けるもんじゃて」


 言うなり、じろきちは自身の妖力を翠に流し込む。それは、凶悪な大妖怪として知られた九尾の狐の闘争本能の塊。


 翠が元来持つ心優しさに上書きすると、土蜘蛛の狂戦士モードとも言える凶悪な性格が現れた。


 身体の大きさは元通り……いや、さらに巨大化を続け、その体長は虎熊童子をも超える7mにも達した。



「いいぞ、翠! 見違えるようじゃ」


「…………ア”あぁ!? 敵は……どごだア”?」


 九尾の闘争本能と土蜘蛛の親和性が高かったのか、翠は限界を超える能力を一時的に手に入れることに成功する。だが、その代償として理性はほとんど失われていた。



「虎熊ッ、化け物が後ろにおるで! とっとと酒呑さまからもらった丸薬を飲めやボケが!」


「だ、だって、お、オラ、薬は嫌いズラ」


「ドアホ! 負けたらウチらの存在価値も、オマエとの関係もお終いやぞ」


「う……わかった。オラ、飲む」


 虎熊童子が取り出した丸薬は〈鬼魂地黄丸きこんじおうがん〉。


 酒呑童子が服用する〈鬼魂奇應丸きこんきおうがん〉の下位互換ではあるが、一時的にステータス極大アップ、HP・MP全回復、HP自動回復、必殺命中率100%などの強力な効能が得られるものであった。


 虎熊はその場に尻から腰を落とし、足を使って丸薬の入った腰布をどうにか外すと、獣が餌を喰らうように、床に落ちた腰布ごと丸呑みして丸薬を体内へ飲み込んだ。


 次の瞬間には鼻からフーッと息を吐き、折られた腕は完全に再生。岩肌のような皮膚色は真っ赤に変色。立ち上がった身体からは煙が舞い上がる、溶岩の化身へと姿を変えていた。



「ぐはは! アチい! 強え! 今のオラ、すっげぇ強えズラ」


 虎熊は有り余る力を誇示するように、咆哮とドラミングを繰り返している。じろきちはその姿を見てほくそ笑むと、翠の頭の上に乗ったまま、ポンポンと頭を叩いて尋ねた。



「のう、翠よ。ヤツに勝てるか?」


「あ”あ”!? ブヂゴロッゾオオオ!」


「くくっ、今のおヌシも嫌いではないぞ」


 同族嫌悪。強者は同じ場所に自分よりも上の存在を認めはしない。間もなく翠と虎熊の視線が激しく交錯。すると、両者同時に飛び出した。先手を取ったのは……虎熊童子。



鬼魂地黄焦きこんじおうしょうーッ!!」


 両手を後ろに引いてから、翠に向かって真っすぐに放たれる双拳。その両の拳の先からはオレンジ色のマグマが噴出し、広範囲に渡って翠の行く手を阻む。



「プッ!」と、翠は口から糸を吐き出す。糸は目の前で粘度の高い強力な蜘蛛の巣となって広がり、マグマを受け止めるとすぐに燃え尽きた。


 マグマと蜘蛛の巣がまるで映画のスクリーンのように翠の視界のほとんどを占有していた。もちろん虎熊はその一瞬のスキを見逃さない。


 気づいた時には、視界の隙間から虎熊の溶岩が連なって伸びてきた前蹴りが翠の顔面に直撃していた。



「グボォッ」 


 顔面は瞬時に焼けただれ、その衝撃で後方に大きくのけ反ると、土蜘蛛こと翠の巨体はそのまま仰向けに倒れてしまう。



「来るぞ! 上じゃ!」


 さらに追撃が襲ってくる。虎熊は巨体に似合わない華麗なジャンプから全体重を乗せた踏みつけを狙っていた。


 危険を察知し、翠は懸命に脚を動かしてその場から退避を試みる。が、虎熊は宙に浮いた状態で両腕をグンと伸ばすと、左右からがっちりと翠の身体を挟むように押さえつけて固定した。



「がはぁ……ぁああ……」


【ズゥゥゥン】という城が揺れるような重い響きの合間から、翠の言葉にならない苦痛にあえぐ声が漏れていた。


 虎熊の全体重を乗せた踏みつけは翠の仰向けの腹を直撃し、その両足は床まで貫通していたのだ。


 虎熊はふるふると小刻みに震える翠の胴体から足を引き抜くと、ゆっくりとその脇に移動し、高らかに己の勝利を宣言した。



「どおだぁ! オラの勝ちズラ。今のオラは誰にも負ける気がしないズラ」


 興奮を抑えきれない虎熊は、再びドラミングをしながら雄たけびをあげる。


 翠の頭にしがみついていたじろきちは、「よっ」と声に出して床に着地すると、翠の貫かれた胴体をじっと眺めていた。



「……さすがじゃな。確かに勝負は決しておる」


 じろきちの眼前で、翠の腹は自動回復によってジュクジュクと奇妙な音を立てながら元の状態へと再生されていく。


 八本の脚を器用に使って身体を起き上がり体勢を立て直す。


 怒りと興奮。燃えるような深紅の瞳。

 すでに、翠の理性は完全に失われていた。

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