第159話 情け

「おい、こりゃどうなってやがる」


 橋の上から二人の戦いを見守っていたムサネコがつぶやいた。一緒に見守る仲間たちも一様に頭上に疑問符を浮かべていた。



「ぐぐ……ぐあああああああぁああああ!!」


 術をかけたはずの茨木童子が頭を抱えて川辺を転げ回り、悶え苦しんでいる。目は大きく見開き、口からは涎を垂れ流し、断末魔のような叫び声をあげていたのだ。

 


「はぁはぁはぁ……ぐぐ……なん、だ、これは……どうして……封印したはずの記憶が……」


 ギルの潜在意識に潜り込んで茨木が見たもの。それは己の過去の記憶の断片。数百年前の幸せな、それでいて身を引き裂かれるような辛い記憶が顔を覗かせていたのだ。



「あ、頭が割れる……気が……おかしくなりそうだ……」


 精神に大きなダメージを負った茨木は正気を保つだけで精一杯の様子だった。呼吸は激しく乱れ、全身に汗をかいており、顔からは生気が失われていた。地面にへたり込み、川原の砂利をぐっと掴んで悔しさをにじませる。


 茨木はギルの中に見た記憶に逆に取り込まれてしまい、まるで操ることができなかった。憧術さえ決まれば操れない者などいない。例え相手が神であろうと。そうやってこれまで戦乱の世を生き抜いてきたのに……だ。


 それが、年端も行かない少年相手に不覚を取るとは。一体この少年は何者だ? あたしは一体何をされたのだ? 茨木は激しく脈打つ頭を押さえて必死に思いを巡らす。が、意識はすっかり麻痺しており、明らかに混濁していた。



「ねぇ茨木、術は失敗したってこと?」


 顔を上げると、すっかり術が解けた様子のギルが首の後ろをさすりながら立っていた。



「くっ……」


 大きくふわっとバックステップ。反射的に距離を取る。



「俺、どこにもダメージを負っていないと思うんだけど、まさか手加減したとか?」


 ギルは怪訝な表情で茨木を見つめている。



「こっちを見るなぁ! お前さん……お前に見られているとおかしくなりそうなんだよぉ!」


 茨木はなおも両手を地面についたまま、顔を上げて悲鳴のような声をあげる。それして、地面に伏したままでいることは己が矜持が許さないとばかりに、奥歯をギリッと鳴らし、苦痛に顔を歪めながら、片膝の上に両の掌を押し当てて無理やり立ち上がったのだった。



「ふ~ん、手加減したわけじゃなさそうだね。それなら――」


 ギルは右手の甲にキスをして「バルトサール!」と叫ぶ。暗黒属性に切り替える引き金トリガーを引いた。首からぶら下がった紅い首飾りネックレスから赤黒い光が漏れる。それはギルの右肩の深紅の六芒星のあざと共鳴し、右腕を悪魔のような形状にメキメキと音を立てて巨大化させた。



「バ、ルトサール……? 赤い首飾り……? そ、れは……ぐ、ぐぅぅあああッ!」


 ギルの放つ言葉、身につけるものすべてが茨木の頭の中を激しくかき乱す。混乱どころではない、狂乱しそうだ。剥き出しの脳に直接打撃を打ち込まれるような、苛烈な鋭い痛みが茨木を襲っていた。


 ギルは猛然と茨木に襲い掛かる。大きくジャンプして空中で物を投げるかのような体勢に身体を捻ると、勢いよく魔人の右腕デモンズライトを振り下ろす。



「いっけぇギルぅ!」


 橋の上からクロベエの甲高い声が聞こえてくる。他の仲間たちは固唾を飲んで成り行きを見守っていた。



「くっ……!」


 茨木は敗北を覚悟した。この少年は弱くはない。少なくとも攻撃力だけで言えばすでに相当のレベルにあると思えた。しかも白属性の茨木に対し、反属性の上位版である暗黒属性での攻撃。咄嗟に腕でガードをするのが精一杯だった。今の茨木に避ける力も返す力も残っていない。



「――」


 攻撃が来ない。腕のガード越しに目線を上げると、ギルが魔人の右腕の伸びた爪でこめかみをポリポリと掻いていた。



「きさま……まさかこの茨木に情けをかけたのか?」


「情け?」


「そうだ。でなければ、なぜトドメを刺さない?」


「ん~、俺にもよくわかんないや」


 そう言ってギルは照れ笑いを浮かべていた。あどけないその表情の中に懐かしさが溢れ返る。



(どんな理屈なのかはわからないが、あたしは自分の術にかかってしまったのね……)


 懐かしみという名のまやかしを振り払い、茨木は喉につっかえた声を無理やり押し出した。



「あ、たしは負けるわけにはいかない。もう人間に好き勝手させることは許さない……」


 ギルは不思議そうに茨木を見つめている。血色が悪く息遣いも荒い。その姿はとても苦しそうに見えた。


 唐突に首飾りに触れると、ギルは静かにその名を口にした。



「サリー」


 それは聖属性への切り替えのトリガー。右手は縮んで元通りとなり、いつの間にか身体は赤白い光に包まれている。左手を茨木に向けると、射るような視線を向けて魔法を放つ。



「ヒール」


 ギルの手から生み出された呪文は真珠色の柔らかな光に変わり、茨木を柔らかく包み込んだ。すると、さっきまでの激しい頭痛はピタリとおさまり、頭の中にかかっていたもやが晴れていく。


 茨木は落ち着くために辺りに充満する清々しい空気を胸いっぱいに吸い込むと、すっと姿勢を伸ばし、腕を組む。そして、普段と変わらない涼し気な瞳をギルに向けた。



「どういうつもり?」


 当然の問いだった。敵に……それも、このような子供に情けをかけられたのであれば、それこそ黎明れいめいの鬼としての矜持が許すはずもなかった。返答次第では……と、茨木は心の内に鋭い刃を携えた。



「よかったぁ。俺の回復魔法って怪我にしか効かないからどうなるかと思ったけど、上手くいったみたいだね」


 能天気な笑みを蓄えて、ギルは安堵の表情を浮かべている。敵意はまるで感じられなかった。



「あたしの話を聞いているのか? どういうつもりだと問うている!」


「ん、あぁ。なんか嫌だっただけ」


「何がだ?」


「苦しんでいる茨木を見ているのが」


「……! だからそれはあたしに情けをかけたということか!?」


 訝しげな眼差しを向ける。茨木にはギルの胸中がまるで見えていなかった。



「なんだよー。助けたいから助けただけじゃない。特に情けや別の思惑なんてなかったよ。茨木は些末さまつなことを気にするんだね」


「些末……だと……ぐ、ぐああぁぁっ!」


 まただ。猛烈な違和感が頭の中をこじ開けて、激流のように流れ込んでくる。茨木はあまりの激痛に、頭を抱えながら思わず片膝をついた。



「茨木」


 ギルの呼びかけ。条件反射的に応える。



「う……なんだ?」


「俺さ、やっぱり茨木とは戦いたくないみたい。だからさ、降参してくれないかな?」


「……」


 そのあまりにも身勝手に思えた物言いを、茨木は俯いたまま耳にしていた。

 ただ、そこに怒りが湧いてこなかったのが自分でも不思議だった。

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