第47話 魔人化

 ヨウザの目の前には真っ黒い霧が立ち込めていた。それはまるで黒い壁のようで、醜い女の視界を奪うには十分すぎる代物だった。



「何だい、この黒い霧は。鬱陶しい!」


 ヨウザが霧を払おうとした直後、突然数m級の火の玉が現れた。気づいた時には眼前で、避ける暇は一切ない。


 火の玉はヨウザに直撃し、ほぼ同時にけたたましい爆裂音が周囲に鳴り響く。そして、もう一方のサキソマのいる辺りからもヨウザの水魔法が直撃した音が響いてくる。



「やったぜ! 狙い通りだぜぇ!」


 空に浮いた状態で、嬉々とした声を上げるバイケン。すぐにそのさらに上空から声が聞こえてくる。



「何をしておる! どちらもまだピンピンしておるぞ! 狙うのは……カエルじゃ!」


 この声はキレネーだ。黒い霧が晴れ、先に姿を現したのは身体の大きいヨウザ。狙いはつけやすい。


 バイケンは背中にギルを乗せたまま、上空からヨウザの首を狙って真上から鎌を振り下ろす。



「バカが! 見えてるんだよ!」


 カエルの視野は上にも広がっている。前に本で読んで知っていたはずなのに攻撃を焦るあまりに頭から飛んでしまっていた。汗を飛ばしながらギルは声を張りあげる。



「まずい! バイケン! 避けろぉ!」

「遅いッ! アタシの必殺を喰らいな! 精吸収ドレインソープ!」


 地上で待ち受けるヨウザの身体から大量の泡が噴き出して周囲を覆われる。この物量はとてもじゃないが避けきれないと判断したギルは空中でバイケンを全力で突き飛ばした。


 ヨウザの攻撃の軌道から逸れたバイケンは、泡に完全に囲まれているギルを呆然と視界に映すことしかできない。



「ギルーーッ!!」


 バイケンの叫びも空しく、泡は瞬く間に何重にもギルを包み込むと、みるみる精気を奪っていく。



「ぐっ、な……こ、れは……」


 それはまるで溺れているように呼吸がまともにできない状態。体力が全身から奪われていく感覚。そして、何よりも気力が失われる感覚が強力でギルは抵抗する力を失った。



(愚か者が。そんなものはどちらでも楽に解除できるぞ。お主の二つの属性はどちらもお主の両親からの愛情のこもった贈り物じゃ)


 それはキレネーの声だった。この土壇場で精神を通じて話しかけてきてくれたのだ。ギルは残された気力を振り絞り、首飾りに左手の指先で微かに触れると言葉を発する。



「サリーーッ!」


 そのワードを口にした途端、首飾りから赤白い光がギルの全身を包み、同時にギルを覆っていた泡を一瞬ですべて弾け消した。


 一気に視界が開けて空から地上を見下ろすと、ほぼ真下に驚いた表情を浮かべるヨウザの姿が見える。ギルは右手で首飾りを触ると声を張り上げた。



「バルトサーールッ!」


 今度は赤黒い光がギルの右腕を包み、右肩の六芒星の形をした深紅のあざが光りを放つ。


 しかし、今回はそれだけでは終わらなかった。


 ギルの右腕は深紅に変色。腕は数倍の大きさに巨大化し、筋肉が分厚く盛り上がる。爪は長く伸びて尖り、赤黒い光を帯びている。


 その腕の異形は明らかに人外のものであった。一連の様子を見ていたキレネーが呟く。



「ほぅ、ここで来おったか……〈魔人化〉じゃ」


 それまで黙って戦況を見つめていたニンフが驚いた様子で聞き返す。



「魔人化? でも、どうしてこのタイミングでー?」


「あぁ、それはじゃな。きっと、あのクソ親父殿の気まぐれじゃろうな……全く、いびつな愛情表現じゃて」


「どゆことー??」


 上空での二人の話はギルにはもちろん聞こえない。右腕に有り余る力を感じて、ギルは落下しながら巨大な手のひらをヨウザに向かって振り下ろす。



「うおぉぉぉぉぉぉ!!」


 ギルが振り下ろした右腕の爪がヨウザの身体を肩から引き裂いた。ただ、慣れない腕のため距離感を上手くつかめずに深くはヒットせず、左肩から胸、腹にかけて、数十cmの深さで表面の肉を削り取っただけ。



「ぐぎィィああァァァ!!」


 それでもヨウザにとっては十分な大ダメージ。身体からどくどくと溢れ吹き出る緑色の液体がヨウザ自身をさらに醜く緑色に染めていく。



「ぐはあァァ、いてぇーッ、いってーよォォォ!! このクソガキィ! 何てことをしやがるゥゥゥ!!」


 悶え苦しむヨウザを前に、ギルは呆然と自分の右腕を眺めていた。すぐに空からバイケンが降りてきて、慌てた様子でまくし立てる。



「おいよぉギル、ぼーっとしてんな! 早くしねぇとまた再生されちまう。今度こそとどめを刺すぞ! 火魔法よこせ!」


 その声にハッとして、ギルはすぐに聖属性に切り替えると火魔法を放った。バイケンがニヤリと笑う。



「上出来だぁ! いっくぜぇ、オイラの最強風魔法〈空の鎌エアファルクス〉!」


 バイケンの残りのMP全てを消費して放たれた空の鎌エアファルクスは、ギルの火魔法を巻き込みながら巨大な炎の鎌となってヨウザの身体中にドスドスと音を立てて突き刺さった。



「ぐ……へァ……ブへ……ベベ……」


 ヨウザは声にならない声を漏らして仰向けに大きな音を立ててひっくり返った。肌は焼け焦げ、鎌が刺さった体中から毒々しい液体を漏らす。身体はヒクヒクと痙攣していたが、まだ息はあるようだ。息を切らしてバイケンが言う。



「こいつ……まだ息があんのかぁ。今度こそとどめを刺さねぇと……」


 バイケンがふらつきながら力なく鎌を振り上げると上空から声がする。



「勝負ありじゃな。ウンディーネよ、そうであろう?」


「まぁさすがに瀕死だし、これなら神さまにも怒られないね。――このカエルのお仕置きは、おねーさんたちが引き受けるから、身体の長い動物のバイケンくんは少し休んでなさーい」


 ニンフの言葉を聞いて、安堵の表情を浮かべるバイケン。その場にペタッと尻もちをつくと二人に手を振り、労いの言葉に応える。その近くではギルが右手を見つめながら立ち尽くしていた。



「おい、大丈夫かぁ?」


 ギルの右腕はすっかり元に戻っていた。さっきのは何だったのだろうと不思議な感覚が消えないまま。バイケンの言葉も耳に届いていない。



「おいおいおいおいー、ブス死んじまったのかァ? まぁテメーはクソキメーし、とっとと死ね」


 立ち尽くすギルの後ろから甲高い男の声が聞こえてきた。



「くっ、サキソマぁッ! お前だけはーーッ!」


 ギルは激高しサキソマに飛びかかる。



「うぜェ。学習しねぇバカガキが」


 サキソマはスウェーバックでギルのパンチを避けると、さっきと同様に通り過ぎざまに髪の毛を鷲掴みにしようと手を伸ばす。


 しかし、今回はギルのスピードが速く捕まえきれない。そして、頬に痛みを感じて手で触れると、皮膚が切れて血が出ていることを確認する。



「んだァ、避けきれなかったってか。俺様があんなガキに? ウソだろ」


「ふん。ウソではない。貴様などすでにギルの敵ではない。ここで白旗を挙げれば即刻の冥府行きだけは勘弁してやらんでもないぞ」


 サキソマが声の方向を見上げると、空に浮かぶキレネーの姿が目に入る〈ちなみにニンフは精霊なので、ニンフが許可した相手以外は基本的に姿を見ることができない〉。キレネーをジロジロと見つめてサキソマは甲高い声を上げた。


「ほゥ、ほぅほぅほーッ! 空に浮いてるエロそうなツラしたねーちゃんかァ。俺の好みよりはだいぶババァだけどよ、見た目がエロそうだから一応アリにしといてやらぁ」


 キレネーは左右のこめかみにビキビキと青筋を立てて、怒りに震えている。



「貴様……。まさかとは思うが、それは私に向かって言っているわけではあるまいな……」


 キレネーの発言にサキソマはさらに声を高くして言い返す。



「はァ? そこのとんがり帽子被ったテメーに決まってんじゃねーかよ! いい歳コイてもったいぶってんじゃねぇ。とっとと降りてこい」


 キレネーは無詠唱で上空に巨大な火の海を作り出した。目が真っ赤に光り、理性を失っている。



「うわぁーッ! 大災禍メイルシュトローム!」


 ニンフが慌てて、巨大な火の海を上回る水属性最強魔法を上空に向かって放ち消火した。上空で大爆発を伴って水蒸気が上昇し、辺り数キロに渡って水蒸気が散布される。



「ぐがァァーッ!!!」


 その時、爆発の様子を見上げていたサキソマが突然苦痛の声を上げた。ギルが背後から強襲し、魔人化した右腕でサキソマの左肩から腕をごっそりと引きちぎったのだ。


 普段のサキソマならたとえ背後からの攻撃でも早々に気配を感じてかわすのだが、ギルのスピードは想定外で、攻撃を喰らう直前に気づくのが精一杯。


 そのため、頭部への攻撃を避けるのがせいぜいで左肩から左腕をギルに一撃で持っていかれていた。



「ナイスじゃギル! だが、まだ浅い! 畳みかけるのじゃ」


 キレネーの言葉が耳に入ると同時にギルは詠唱を開始。「闇衰弱ダークワース!」と叫ぶと、右腕に纏った黒い霧が地を這い、サキソマの月明かりの影に同化すると、地面から上空へ一気に立ち登って全身を覆い尽くす。


 しばらくして影の中から現れた〈それ〉は、今まで見たことも無い異形の姿。弱体化や老化は感じない。おそらくステータスに差があり過ぎて、サキソマのアビリティ〈変化メタモルフォーゼ〉が解除されただけのようであった。


 その姿にギルは驚きの声を漏らす。



「何だコイツは……蛇……なのか……?」


 その姿は翼を持つ巨大な蛇のようで、体長はゆうに十mを超えており、胴体が俵のように太く、頭と尾は細く、鋭く尖った鼻先は刃物のようで、体色は薄い墨色をしていた。


 しかし、それ以上に衝撃を与えてくるのはその悪臭。鼻をつまんでもなお、鼻の奥に突き刺さってくるような猛烈な激臭に耐えきれなくなったギルは大ジャンプで大きく後ろに距離を取る。



「貴様、やはりあやかしか。それにしても、さっきのカエルに勝るとも劣らぬ醜さじゃな。散々仲間を口汚く罵っていたのに、自分も似たような姿だったとは。こいつは笑えるわ」


 空からキレネーの高笑いが響く。サキソマはわなわなと震えながら言葉を吐き出す。



「……あやかし? だから何だってんだ? 俺が醜い? だから醜い奴のことを悪く言うのはおかしいって? そりゃ違うぜ。醜い奴にだって感情はある。醜くたって言いたいことは山ほどある。おゥ、エロねーちゃんよォ。テメーみたいな美形のナリをした奴には一生わかんねぇだろうなァ。物心ついた頃から醜いと罵られてきたヤツの絶望はよォ」


 初冬の冷たい風が吹きすさぶ。

 空からは真っ白な雪がちらつき始めていた。

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