第二章 【旅立ちの少年】

第18話 水の精霊

 孤児院を旅立ち、ギルが最初に向かったのは〈スライムの谷〉。

 オーラミラの街の北西部に位置する川沿いに続く渓谷であった。

 

 ちなみにムサネコの子供である黒猫クロベエはギルの肩に乗ったり、たまに自分で歩いたりしながら共に行動している。



 スライムの谷はその名が示す通り、最弱モンスター〈スライム〉の生息地。そこに行けばほこらがあるという理由でその地を最初の目的地としていた。


 だが、いかにスライムといえど、一般の大人のヒューマンが真剣に戦っても大半は負けて、死亡するレベルのモンスターであることはあまり知られていない。


 それでも、ギルにはその地を訪れたい理由があった。祠には〈その地を見守る精霊と石板〉が存在しており、そこで自身のステータスを確認することができると言われていたからだ。今後最短で目的を達成するには都合がよい場所に違いなかった。



 現時点のギルの目的は大きく二つ。

 

 一つはムサネコの仇に復讐を果たすために、それを実現できるための何らかの手段を身に着けること。

 

 もう一つはレイアガーデンの推薦入学の条件をクリアするため、剣術・体術・魔術のスキル向上を図ることだった。

 

 ただし、ギルには二つの呪いのアビリティ、〈戦闘適正ゼロ〉と〈獲得経験値半減〉、それに先天性の運動障害疾患がある。唯一、戦闘時に役立ちそうなスキルと言えるのは、治癒回復魔法のみ。


 獲得経験値半減は、単に獲得できる経験値が半減するだけと言えばそれだけなので、直接戦闘時にマイナスに働くことはない(成長スピードが半分になってしまうのはもちろん大きな痛手だが)。しかし、もう一つの攻撃適正ゼロが大問題だった。


 このアビリティが付帯していることで、発動自体は可能な攻撃魔法も対象に届く前に効果が消されてしまう。さらに、戦闘に影響を与えるバフ・デバフなどの補助魔法や状態回復魔法まで効果が無効化されてしまうという点が非常に厄介なのだ。


 しかし、ギルにはすでに確かめていたことがあった。攻撃魔法はヒューマンなど、ということ。


 実際に、ムサネコの墓を作るために風魔法で土を掘ることに成功していた事実がギルの中に多くの可能性を広げていた。


 スライムの谷で修練を重ねながら、自身のステータスの変化を確認する。それによって、今後の修練の方針を決めるというのがその地を選んだギルの狙いだった。



 それでもあまり悠長なことも言っていられない。アルバーン校長から旅立ちの餞別としてもらった非常食も尽きかけてきており、このままだとあと三日も持たない状態だったからだ。


 一方のクロベエはそこらの野草やいつの間にか捕獲したよくわからない生き物を食べていて今日も元気いっぱいだ。やけに逞しいんだよなこの猫。





 旅立ちの日から九日目。ギルたちはようやくスライムの谷へと足を踏み入れる。

 

 渓谷の谷底に降りると辺りを見渡す。冷たい岩肌がむき出しで、空から差し込む光が岩壁に遮られるその場所は、まとわりつくような湿気が一層不気味さを演出しているかのように思えた。



「クロベエ、まずは祠を探そう。この辺りにはスライムしか出ないはずだから、ボクの回復魔法があればキミを守ってあげられる」とギルが口にした瞬間。



『ウピョー』


 突然目の前にスライムが飛び出してきた。それは想像していたよりも大きく、ギルの腰上くらいはあるであろうその物体は、突然クロベエに体当たりを敢行してくる。



「クロベエ、あぶなーい!」


 ギルは身を挺してクロベエをかばう。運動障害のギルだったが、なぜかちゃんとダッシュができて、クロベエの盾になることができたのだが、その後、形状自在のスライムに胸ぐらを掴まれて往復ビンタを喰らうと速攻で瀕死に追い込まれた。


 相変わらずと言えばそれは当たり前なのだが、何も抵抗できない自分が恨めしい。



「やられる……」と思った次の瞬間。『ウピョピョー』と声を弾ませながらスライムはビョンビョンと弾みながらその場から去っていった。どうやら、スライムは好戦的なモンスターではないようだ。


 そのあとも、何度かスライムに襲われては逃げ出し、回復を繰り返しながら歩き続ける。


 谷に降り立った翌日。ギルは岩肌にぽっかりと空いた小さな洞窟を発見した。そろりと中を覗くと奥から青白い光がこぼれているのが見える。



「この光は……。やっと見つけた、ここで間違いないよ」


 スライムの谷の祠。旅立ちの日から十日目の夕暮れ時を過ぎた頃、ギルは洞窟へと足を踏み入れた。


 洞窟の奥にある祠までは、周囲に気を払いながら慎重にゆっくり歩いたものの、ほんの数分だった。距離にすればおそらく二十mもないだろう。


 目の前にある石板から神秘的な青白い光が零れていて、ギルはその不思議な光景の中で立ち尽くしていた。



「おや、子供とは珍しいー」


 突然、石板の奥から精霊が姿を現した。同じタイミングで一気に洞窟の中がパッと明るくなる。


 一体どこから出てきたのかはわからないが、淡い青色の衣を羽織った、肌の露出がやや多めで、美しさと可愛さを併せ持つ妙齢の女性の姿をした小さな精霊が現れたのだった。


 宙に浮いているが羽などは生えていない。長い髪と丸くて大きな瞳の色も濃い水色をしていて、耳が少し尖っているように見える。探し求めていた相手に出会えた喜びで、ギルは声を弾ませた。



「わぁ、本物の精霊さんですか?」


「本物だよー」と精霊は手を振り微笑む。敵意は全く感じない。ギルは胸を撫で下ろす。



「ボクの名前はギルガメス・オルティアです。祠にはステータスを確認できる石板があると聞いてやってきました」


 ギルは精霊におじぎをする。



「こりゃまた丁寧な子供だね。ボクはニンフ。水の精霊だよー」


 ニンフと名乗る精霊は、宙をくるくる回って歓迎の意を表した。



「ニンフさん。早速で申し訳ないんですけど、ボクは色々問題を抱えていまして。ステータスを確認させてもらってもいいですか」


 ギルが言うと、ニンフは人差し指を立て口の前で振りながら、「チッチッ」とわざとらしく声に出すと、ニカッと笑う。



「ステータスなんていつでも見れるよー。それより、キミは何か食べないと体力がヤバそうだねー。まずは食事にしよーかー」


 そう言ってニンフがくるりと宙返りをした次の瞬間、石板のある突き当り小部屋の横に新たな部屋が出現した。


 そこには、削った岩で作られたテーブルとキッチン、焚火ができそうな暖炉が置いてあった。



「ねぇ、ニンフさん。あのぉ……これって一体どういう現象なんです?」


「ニシシ。この部屋はボクの結界の管理下にあるから大概のことはできちゃうんだよー。あ、そうそう、大事なことを言ってなかった。ボクのことは敬称なしで敬語も使わないで。ボクはんだよー」


 これって精霊の世界では普通のことなのか。世の中にはまだまだ不思議なことが沢山あるんだなぁ。それに呼び方や話し方についても、本人がそう言うならそうした方がよさそうだ。ギルはとても素直だった。



「うん、了解。ニンフさ……ニンフ。じゃあ、あの……これから夕食の準備ってこと?」


「ボクは精霊だから食事はとらなくても平気なんだけど、キミの食事はボクが用意するし、一緒にも食べるよー。『男を掴むならまず胃袋を掴め』って言うからねー」


 さっきから、所々ニンフの発言の意味がわからない部分があるのだが、精霊とは思考や感性も当然異なるのだから、わからないところがあっても不思議ではないと、ギルはいちいち気に留めないことにした。


 ニンフの作ってくれた料理は美味しくて、ギルは満腹に加えて、初めての旅による体力の消耗と、最初の目的地に到達したという気の緩みも手伝って、祠のリビングでそのまま寝てしまう。


 この場が彼にとっての大きな転機となることなどもちろん知らずに、ギルは泥のように眠り続けた。

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