第312話 間違えた道

(――セキッ! ジジイに構っておる場合ではないッ。全員死ぬぞッ!)


 怒声が脳内を駆け巡る。カグツチが焦燥に駆られたままに咆えたのだ。


(いきなり何を!? このジジイが……――なん……だ?)


 敵の眼前でありながら、視界の端で捉えた異形に意識を奪われた。セキのあまりの異変にアルヴィスが背後へ視線を向けると、対照的に目元に歪んだ笑みを浮かばせる。


 ルピナの背後には、漆黒の襤褸ぼろを纏う巨大な異形が召喚されていた。

 瞳を持たず、禍々しい牙だけが生えた顔は一切の生気を感じさせず。襤褸ぼろのほつれから伸びる痩躯な六本の腕は各々が鎖に縛られている。

 上半身だけを地上から覗かせる姿は、まるで地獄から――冥府から這い上がってきたかのように見た者へ等しく絶望という感情を育んだ。


 そう――

 それはセキも例外ではなかった。


「なんだ!? あの化物バケモン――ッ!」


 なりふり構わずエステルたちの元へ疾駆せんと、アルヴィスへ背を向ける。だが、地上から噴き出たマグマが行く手を遮った。

 もちろんこの事象の原因はアルヴィスだ。


「邪魔はさせんよ」


「この……ジジイがァァァ――ッ!」


 マグマの熱をものともせず、セキは真紅の雨の中を疾走する。

 しかし、さらに眼前に待ち受けたのは、幾重にも張り巡らされた高密度の木々。アルヴィスの意思によって成長する木々は、セキを搦めとろうと縦横無尽にその枝を伸ばした。


(エステル! 逃げ……そういう問題じゃねえ! あの化物からは逃げられねえ……本体を。術者を叩かない限り――)



 一方。異形の怪物を眼前に見据えるエステルたちは、呼吸すらも忘れたように沈黙を保っていた。息の一つを吐き出せば、命を手放すこととなる。そんな思いに支配されるほどの絶望的な存在。

 だが、抗う意思さえも塗りつぶすほどの存在もまた、その巨躯に静寂を纏っているだけだった。


「さぁルピナ! 久方振りの戯れに終わりを告げようではないか!」


 化物を背後に置き、黒髪を揺らし俯いていたルピナが、アルヴィスの声にぴくりと反応の素振りを見せた。


「まさか使うとは思ってもいなかったが……冥土へ向かうに相応しい最後ではあるな……!」


「……様。アル……ヴィス様。終わりに……――もう……終わりにしましょう」


「ああ。その通りだ……! そして悲願を――」


「違い……ます。終わらせるのは私たちの……間違えた道を……です」


 ルピナがうな垂れたままに。力無く喉を震わせた言葉。アルヴィスの纏う空気がヒリつきを覚えたように渇いていくと同時に、セキの行く手を阻んでいた詩が鳴りを潜めた。

 聞き間違いを疑いつつも、アルヴィスはぎょろり、と剝き出しの瞳を彼女へ向けた。


「何を……言っている……?」


「無関係な種々ひとびとまで、私たちの欲望に巻き込んだら……それは私の仲間を殺した者……そして、あなたの最愛の娘を殺した者と……一緒です」


 言葉としては理解していたのだ。そして目を向けることを拒んできた。仲間の笑顔をもう一度見るために、ただひたすらに突き進んで来たはずの道のりの先。そこには、仲間の笑顔がないことを。


「有象無象の命程度で、ワシの娘の命と釣り合いがとれるとでも思っているのか?」


「その釣り合いを決めることができるのは、私たちではないんですよ。誰もが誰かの大切な命であり得るのですから」


 顕現した漆黒の巨躯が今なお健在である以上、この場の誰もが、主導権を握るルピナの選択に固唾を呑む。


「そうか……」


「そして、私たちは……きっと存在を間違えているんです。ひとは、ひとの心は……――」


「お前が現代の情報収集と称して、こそこそとひと助けに出向いていたことは知っていた……そうか。これがお前の答え……か」


「長く……生きすぎたんです。体が朽ちることがなくとも、心は摩耗して……」


 アルヴィスが天を仰いだ。

 すると、解き放っていた魔力の威圧感が静かに大気に散っていく。


「うむ……千年か。長いはずがあっという間だったな。お前は結局……――」


 アルヴィスが改めてルピナへ送った視線は――


「――覚悟を持つことができなかったということか」


 失望の色に染まっていた。


「アル……ヴィス……様?」


 アルヴィスの姿が蜃気楼のように消え入る。

 そこで真っ先に反応を示したのはセキだ。 精霊体であるアルヴィスが大気に溶けたところで、セキの目には魔力の塊がはっきりと映し出されていた。

 当初に斬った冷え固まった溶岩の下。空洞が存在した場所へ視線を走らせる。

 そして、同時にアルヴィスが穴ぐらからその姿を現した。その手には金色に輝く杯が握られている。


「本当に……残念だ」


 杯にひび割れが生じ、グシャリ――とアルヴィスが杯を握り潰す。


「アル――ぐっ……! うぐっ……――」


「ルピナさん!?」


 ルピナが突如悶え、さらに背後に控えていた異形が薄く、そして砂絵のように風に揺られ儚く大気へ還っていくと、とっさにエステルが側へ駆け寄る。

 ルピナに一瞥をくれた後、アルヴィスは杯から溢れ、滴る液体を飲み干している。

 胸部を抑え息を荒げるルピナを余所に、アルヴィスは満足気な吐息を天に向かって吐き出した。

 すると、セキに斬られた腕に魔力が収束し、元の腕の形を作り上げていた。


「ぬははっ! 美味だなぁ……! そしてお前の精霊体の核である、精杯を失った以上、いかにお前とて、一週間もせずに消滅することになるだろう。だが、せめてもの慈悲だ。ここで――」


「何を勝手に話を進めてやがるんだよ」


 そこで状況を掴めぬままにセキがアルヴィスの前に立ちはだかった。わかっていることはエステルたちがルピナの心をこじ開けたこと。そして、アルヴィスとルピナが袂を分かったということだけだ。


「ルピナはすでに娘のような存在だ……そんなワシらの間に入るのは野暮だろう?」


「ボケが。苦しんでる女性を放っておくなら、男である意味がねえだろうが……」


「千年蓄えた魔力を飲み干した。お前ほどの男なら今ワシの前に立つことの無意味さがわかるだろう?」


「星の加護と相殺するには足りてねえだろ。知識をいくら蓄えても経験が足りてなさすぎるんだよ。加護の上がり幅と今の上がり幅。お前、大きすぎて把握できてねえだろ?」


 セキが後ろ手を振ると、察したグレッグがルピナを抱え、エステルたちと共に距離をとる。その状況をアルヴィスが眺めるだけに留まる理由は、今体を満たす魔力の全能感に酔いしれているからだろう。


「『力を手に入れた』、その全能感は簡単にひとを狂わせる。なんであれだけの鋭い観察眼を自分に向けられねえんだ……?」


「何を知ったような口を……抑え込むことが困難なほどの絶大な魔力……! ひとが……個が持てる力としてこれ以上の魔力などない……」


(――だから……加護の絶大な魔力を淀みなく操作していたのが、ルピナあのひとだったってことだろうが……)


 魔力が漏れ出す腕を眼前に置き、さらに前に立つ愚かな男を見据えようとしたとき、その男はすでに目前に迫っていた。


「自ら死を早めるか……! 愚かも――」


 言葉を紡ぎ終える前に、セキはすでに背後へ抜けていた。

 振り返ろうとしたアルヴィスの視線が、ズルリ――と斜めに滑り落ちていく。そこでやっとアルヴィスは、自身の肩から脇腹へ――そう、袈裟懸けに大太刀が走った後だということを理解した。

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