ハリネズミとイノシシの家

かためつむり

第1話

 少女の胸は跳ね躍っていた。

段差の大きな木製の階段を軽やかにタンタンッと駆け上がる。踏み締める落ち葉の音。木片や小枝が無造作に散らばる土。木の根があちこち剥き出し、どこもかしこも緩やかな斜面になっている庭。こんな根の凸凹などへっちゃらさと、少女はつまづかずに玄関まで走ってみせた。

 到着したばかりのこの家と周辺あちらこちらを、少女は眺め入った。木漏れ日に優しく照らされたログハウス調の家は、上半身が白い壁で、下半身は横向きの丸太が縦に並べ組まれている。物置小屋も、家と同じ式調だ。およそ100坪の敷地を木材の柵が仕切り、住宅地として取り分けられた周りの敷地には、まだ一軒も家が建っていない。天然の木々が家のすれすれまで残されており、ここ一帯が“別荘地風”をコンセプトにしていることがわかる。

(これが、これから我が家になるのか〜)

少女は、玄関前のひときわ立派な木に目を見張った。

 時は平成7年の8月初旬。自然に囲まれた土地でのスローライフに憧れた一組の夫婦が、林の入口に2階建ての注文住宅を建て、子供達を連れて引っ越して来た。若緑色の木々とそよ風が三角屋根の家を包み込み、夏の暑さを優しく和らげている。家の後ろは雑木林と最低限に区画整理された土地、反対側には一面に美しい田園が広がっていた。

 ガチャリと父親が玄関の鍵を開け、家族は中に入った。キッチンと一体型のリビングは、隣の6畳間を開け放つと16畳になり、この家の主役だ。

リビングは吹き抜けになっていて、2階部屋とのコミュニケーションが取れる窓がついている。小洒落たシーリングファンライトが天井から垂れ下がり、リモコンのスイッチを入れると空中でファンがクルクルと小気味よく回転した。

リビングの一角はレンガ作りになっていて、コロンとした風貌の、黒い金属の物体がこれ見よがしに座っている。

「ねぇ、これなぁに?」

小学四年生の持つ知識では、それが何なのかを

認識できない。

父親は答えた。

「あぁ、それはダルマストーブだ。冬になったらこの中に薪を入れて火をつけるんだ」

「へーー」

なるほど、ではこの長い金属の筒は煙突か。

少女の胸はさらに沸き立った。この家はもしかすると、なかなか珍しいタイプの家なのかもしれない。もしかするともしかすると、“お洒落な家”とやらの枠に分類されるのではないだろうか。

「お母さんはお庭に色んなハーブを植えたいのよね〜」

リビングの大きなサッシ窓から庭を見渡しながら、母親が伸びやかに意思表明した。母親はいつも大雑把で、あまり女性らしくない骨太な体格をしているが、時々乙女のようなセリフを口にする。

この家族がこれまで2年間仮住まいしていたのは、家賃月々1万円のボロボロな借家だった。隙間風が入ったり、ボットン便所だったり、毎日ネズミのフンが落ちていたりする家だったが、この家族はあっけらかんと明るく暮らしていた。ネズミ問題は、猫を飼い始めたらあっという間に悩まなくなった。そんな我が家はあまりお金のない平凡な一家なのだと思っていたこの少女は、他人とはちょっと違う小洒落た暮らしを一瞬にして手に入れたような気がして、胸を高鳴らせた。ふくふくと蓄積しつつあるこの感情は、いわゆるときめきと呼ばれるものだろうか。

 吹き抜けの高窓から、瑞々しい木の枝がこちらを覗きサワサワと揺れている。少女は高窓を見上げながら、はたと、まだこの家に入っていない家族たちのことを思い出した。

「ねぇ、にゃんこ達も早く連れてこようよ」

そうだねと父が機嫌よく答え、皆で車へと向かった。

 我が家の小さな家族たちは5匹いる。だが、猫の運搬に使うキャリーは2つしか持っていない。キャリーに入れられない猫は、段ボールに入れるしかなかった。

涼しい木陰の駐車スペースに停めた父のシビックのトランクを開けると、小さな彼等はキャリーと段ボールの中からミャーミャーと意見をぶつけてきた。母のアルトからも段ボールを1つ取り出す。4人がかりで、それらを家の中にいそいそと運搬した。

運びながら少女は母親に問うた。

「そういえばお母さんシロをよく捕まえれたね」

他の黒猫たちにはそれぞれハーブの名前が付いているのに、その白猫だけは何故か単純な名付けだ。何の捻りもない名前だが、白いのだからシロ。水色と黄色のオッドアイが彼のチャームポイントだ。たしかここへ来る前、なかなかシロを捕獲できず苦戦して、母だけ少し居残っていたのだ。

「うん、嫌がって暴れるから、無理やり縛ってきた」

「え…」

スッと一瞬、冷や汗のような寒気が首筋を吹き抜けた。さっきまでの軽やかな胸の鼓動が、ざわつきに転じ始める。日頃から時々極端な事をする母の言動に、ヒヤリとしたり恐怖のようのものを感じることが度々あるのだ。また今日もそれを味わう羽目になるのではないか…。

 家に猫たちを全て運び込んだ。ざわざわする思いで一つ目の段ボールのテープをはがすと、黒い個体がピョンピョンと2匹飛び出し、ここは何処ぞとウロウロし始めた。キャリーから出た子達も、早速家の散策を始める。

シロは?

残る箱を開けて中を見ると、前足と後ろ足がそれぞれガムテープでグルグル巻きにされた白い個体が横たわり、ワーワーと喚いていた。みぞおちの辺りがギュッと重くなったのを感じ、少女は眉をしかめた。

ひどいっ

ひどいっ

なんてひどい事を……

少女は声にならない悲鳴を心の中で叫びながら、

ごめんねシロ、怖かったね、ごめんねごめんねとシロに話しかけ抱き上げた。

 3人がかりでガムテープを慎重に剥がし始めた。少女には、彼が捕まえられた時の光景が容易に想像できてしまう。きっと母は、その無骨な手でシロをぞんざいに捕まえ、シロの恐怖などお構いなしにテープをガシガシと巻いたのだろう。今シロの耳は最大限の怒りを表明している。白い毛がふわふわとガムテープに付いて来た。

 やっとの思いで自由になったシロが知る、沸点に達したストレスを吐き散らす手立ては、とにかく逃げることだった。一心不乱にリビング中を駆けずり回る彼は、まるで口を止めずに手を離した風船みたいだった。

誰かが広いサッシ窓を開けた。外の空気を注ぎ始めた細い隙間を、シロは見逃さなかった。彼は真っしぐらにサッシの隙間に突進し、外へ飛び出した。

白い残像が、瞬きと共に視界から消えた。4人は言葉を失い、誰もいない真新しいウッドデッキを見つめた。オーライオーライと、引っ越し屋のトラックが到着する音が聴こえた。

 美しい家に引っ越したその日は、シロを見た最後の日になった。

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ハリネズミとイノシシの家 かためつむり @katametsumuri

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