第19話

 とすると、まさにここで私が天使に頼ることなく、天使を作り出すことなく離接を宣言することを可能にしているものは、いったい何なのか。状況だけでは不十分である以上、状況への付け足しが必要である。構造的な第三のポジションによる付け足しではなく、特異な出来事による付け足しである。それをと呼ぶことにしよう。

 ___アラン・バディウ『哲学の条件』



 愛の大きさの重さは何で決まるのか。


 離散的エネルギー準位をインターネットの接続ではなく出会いの帯域幅としてポテンシャル化する。


 真理の効果は贈り物と誓いの言葉で視聴覚を楽しませてエネルギーを発散させ保留された内部の貯蓄を引き出そうとする。だがエクリチュールがいくらそれに期待しても性的な身体は殻の住まいに置き去りにされて原子の檻の中に閉じ込められる。


 文書化はデジタル化と全く対立しない。電子書籍は本質的にデータベースのカタログと大して変わりがない。むしろ世界の可視化あるいは可感化こそエクリチュールの倒錯的な観点が己の体験を物語るところではないのか。


 エクリチュールの番人たちが言っていることは、自分は「誤って」子供を産んだ結果として家庭の中に閉じ込められたので、その脱出口として子供の真理を務めあげるような身分の資格が仕事として必要だということではないのか。女性身体をエクリチュールの効果の中にメタファーとして閉じ込めることが男性的論理の存在を「物質化」しているが、その「物質化」とは単に自我の愛を離散させることに過ぎないのではないのか。これがあまりにとして当てはまってしまうのが味と音楽だ。注文の多い料理店は他者の欲望を欲望している。

 

 子供を出産することが性行為のメタファーである限り性愛と愛の真理はエクリチュールを確率として分断する。これがコギトの問題ではないのか。


 ディスクールの手管を弄することでエクリチュールを効果に転移させることは科学の方法をなおざりにさせる。挑発に誘惑で対抗しないからと言って、その快楽が説明する素振りに脱線させられたなら、人は想像する真実でそれを享楽の囮にするしかない。勇気だけでは何とも云うことはできないのだ。


 修辞学が美学理論に成り下がっている状況では科学のディスクールは心理効果の実験として社会的なサービス業に置換される。そこでエクリチュールは批評を経済学として実践しようとする。手品というものは見る人が多ければ多いほどより相手を騙しやすくするものだ。


 ネットの出会いがアバンチュールの体験に限定されるのは家庭の罪の清算に過ぎない。時の嫉妬が身を任せる中傷。中絶の浜辺。若さに身を焦がした老人が陽気な帽子をかぶり、若者は憂鬱な老人の外套を纏う。そうして労働からの休暇を遊戯の胎児として夢見続ける。


 女性の享楽を関数化して女性との快楽を人間的な関数に脱構築する。それで女性は非人間的な復讐に留まったまま男性は愛の思考をしているわけだ。


 ギリシア人は物理的な効果の知を技芸テクネーの腕前と同一視するということ。ソクラテスはソフィストに対抗して言論の効果としてはそうであるとは限らないことを示す。性愛の競技者としての無知の知。だがそもそもギリシアの社会では技芸とは有閑階級に対抗する商業的なでしかない。言論活動はそうではないと思われていただけだ。ソクラテスは病気の比喩を使いプラトンは善のイデアを使う。だが問題は変わらない。ソフォクレスはなのであって、彼の劇は国家との対立や人倫の対立とは「関係がない」。だから投票の数と僭主追放がくじ引きの本質となる。疑う余地なくソクラテスは「有罪」になった。



 実はヘーゲルは国会での討論を自由の見世物として民主主義を規定しなおしているだけで、本質的にギリシア人のこの判断を超えているわけではない。つまり主観的契機に社会の客観的判断が対立しているのではなくて、方法的な物理的存在の主体と原子論的な現象の価値の客体性が観念的に矛盾として分裂しているので、この両者を労働力身体で媒介するために貨幣という物質が必要になるということだ。だから質量が重ければ重いほど落下する速度は速くなると見た目的に考えるのだ。



 真理のディスクールをどう考えるか。確かに「何ものも真ではない。すべてはゆるされている」という真理は十分ではない。それはを意味に仕立てあげるからである。では真理の価値とは何か。哲学はそれについて何を保証しようとしているのか。法を特定の学問にもエクリチュールにも技術的に還元しないこと。だからが真理だということになる。性を数学的に代数化することも産出的な真理の効果に翻訳することも享楽という行為を出産と切り離すという結婚の法規定に詭弁的に従属させてしまう。ヘーゲルが他の哲学者よりも優位にある理由は間違いなくここにある。だからこそ男性的なファルス関数が理論的な参照値のメタファーとして国家的に女性の快楽を享楽ごと機械的に抑圧しに来るのだ。ではニーチェとラカンが間違っているのはどこなのか。プラトンやソクラテスに対抗して真理にしたことにおいてである。というのも結婚の離接的関係を音楽的な誕生とすることもディスクールのシニフィアン連鎖とすることもシェイクスピア劇のような袋小路に嵌ると思われるからである。つまり復讐の女神は最高神の嫉妬の座よりも高い地位にいるのだ。



 哲学は明晰化と一般化のとして存在するという仮説を立てよう。そのために愛の概念や意味を創出することもできるが、それは真理の一時的な効果のためではなく、離散的な関係の表象を別の一般的な役割に還元しないように思考を引き受けるためだ。だから哲学とは間違いを明晰に思考することを一般的な意味として考えるように促すことがと語ることの実践であって、哲学を欲望したり、を実現しようとすることは間違っているという物語になるのだ。



 文学的エクリチュールと哲学的真理の共犯関係とはどのようなものか。身分の高さの結婚を愛の価値実現の明晰さとして一般的な証拠にしてしまうこと。ここにギリシア的な愛とキリスト教的な愛の対立があり、それをルターが聖書の「出版」という形象で物理的な刻印の身体性にした。だがだからといってエクリチュールが身分違いの愛を別れの主題として建てることで、階級的な身分の高さを維持しようとする所有がなくなったわけでも悲恋の末の王の死という国家神学がなくなったわけでもない。人類の自然的な繁殖能力の散種性。感染症の生物隔離シミュレーターの極限死。



 エクリチュールを無限に継続するというのは作家の生活手段としてのみ有意義な命題で、それは教育の数学的真摯さという出版の発行部数のとして役立っているのではないのか。理想気体の量子的説明を愛と呼んでしまうような仮説。だが粒子は空間に無限に存在するのではなくなのではないか。重力の底知れぬ弱さ。愛が真空を満たすものであると言ってしまうことは心の中身を排除するような斥力を憎悪で返すという狭さに収斂していく。ならば何が返しうるものなのか。愛の価値という詭弁を暗闇の中で無限に囁く事か。


 事象の地平線から崩落した電流は電圧の落差でしか価値判断をすることができない。スイッチ回路のリアルタイムストラテジー。攻略wikiの共同体はいかに一つの世界を維持することができるのか。多の量をひたすら性能の考察とかわいさの論理で引裂くこと。エクリチュールから身体の衣装を放射させる電磁誘導の形成過程。裸の質量の作業量の総和を有限系列に確率的に関連付ける繰り込み。


 電子的な価値定立をした場合、何を売るあるいは支出したいと思えるのか。キャラクターのユニット単位の技術能力とそれを維持するための労働の素材的形態。現在のアプリゲームの欠陥は、まさにこの価値実現を無料化して、キャラクターのプロフィールに沿った衣装と使用価値の確率的排出だけを時間的な貯蓄性向の平均価格として抽象化していることではないか。つまりキャラクターのフォルムを人格の一般流通形態としてコンテンツ操作の指示対象にしてしまうことで、「魅力的な」身体を消費するエクリチュールの願望充足にしてしまっているということ。だから音楽と声しか離散的な質を維持することができなくなる。そこで実際の身体を養うための食事が人格の価値実現を担うものになってしまうのだ。



 エクリチュールの人格モデルはいかなる愛についての先入観を生み出すのか。このキャラクターを演じたいと思う振る舞いと、指示対象を消費するための欲望が他者の視線で表現されるために、演技の要素をメタファー化された性別の私として素材的に尖らせてしまうこと。そしてそれが売り上げや人気で数学的な効果を技術的に生み出すがゆえに、実際の私との意識の齟齬を反社会的な真理の詭弁性だと言わなければならなくなること。労働が疎外されているのに、その労働の価値実現の効果で人格が逆算されて、それをエクリチュールが果たすべき離散的な代数だとして措定してしまう。だからその反物質の負のポテンシャルが敵対性の演出として挿入され、社会的な享楽の裁きの代行としての役割を復讐の意志の無効化として宣言させられること。エクリチュールとは無知の知の反射作用であるのに、それを性愛の結婚の離散の肩代わりが収益性の復讐として発散させられる。これが消費の好みの一般的な傾向として統計化されるのだ。


 したがってエクリチュールの主体が技術的統計処理に嫌悪感を示すのは根拠があることなのだが、それは真理のディスクールの二次的な機能の派生物が国家によって指示対象に教育の履歴として措定されているからなのである。だから統計と技術についての方法論的な個別性をトランザクションの処理でドメインごとに解決していくアーキテクチャのモデル化が分散保障としての主量子を離散的なエネルギー準位としてキャラクター化するという言語運用は有意義な会話のトレードオフであると考えられる。書き込みの所有とテーブル占有の委譲を法哲学的な自己愛から離散させるための演算子を量子的な経路積分として決定できるような主体の視座を振る舞いとして二重化する戦略がユニット単位となる。単に外部からの介入で書き込むだけでは行動とロールの身振りはエクリチュールの要素に還元されてしまうからである。逆に言うとナビゲーションキャラクターやNPCはそのようなものが望ましい。彼らにとって確率は量子的決定の準位ではなく現象的な変動要素でしかないからである。しかしだからこそ国家や経営者が労働者をそのような分断でアーキテクチャを構築する可能性がある。仮に経営者がトランザクションを実行するような質的形成としての思考を真理としての誤りから明晰なものにコンテキストを倫理的に話法として位置付けるとしても。



 もしインターネットが離散的エネルギー準位としての性をキャラクター量子として価値実現できる余地が無料化の波のせいでほとんど不可能になっているとしたら、真理への愛のキャラクター化が復活してくる。エクリチュールの媒体的な消費にアクセス手段の容量を吸収されて、空間的無限さを帯域幅の無制限と混同することで出会いの要素を個別化された代数としてサービスを平等化する。インターネットではエピゴーネンとしての弟子が増殖する布教性はミームとしてのカリカチュアでしかなく、それを意図的にキャラ崩壊としてばらまいても願望充足の消費を加速させるだけにしかならない。これはキャラの人気投票として分散保障戦略の意味論的一貫性になる。つま量子化された確率的決定をキャラクターのに変換することで、投票的な統計にデータベース化してしまうことだ。このデータベース化はグッズ販売の物証としてチケット料金のアクセスを特権的に可能にするかもしれないが、労働的な価値実現は低い生産性と作業量の因子化によってする。信者そのものが負の産物となることでキャラクターの性の位置を守る宣伝の収益単位に成り下がってしまうのだ。知的労働の疎外は怠惰への憎悪として恋の利得を剰余享楽にコード化する。労働の思いが「どうして自分だけがこんな目に」という恋愛のトランザクションを分散して無償の奉仕をエネルギー準位の縮退として結論化してしまうのだ。



 光量子波長変換の恋愛の利得とは何か。恋をするほどに増してくる利益は愛であり、そのための負債として思いの深さが自己の欠陥の苦悩として突き刺さってくるということ。恋に捉えられている輝く眼差しは高貴な美しい姿を一度ならず二度も無限にも思い描くということ。だが恋は貧しすぎるとやせ細り、けちであれば冷たさが厚くなり、志操の鍵をかけておかなければ誰かに盗まれるかもしれないという不安を情欲のツケで支払わされることになる。会い過ぎれば飽きが来て、言葉を交わさないと孤独が耐えられなくなり、抱擁のない記憶は時間のノイズを祝福という呪いで加算させていく。恋愛がキューピッドの不公平な矢で傷つけるものであるということは、苦悩の原因もまた何ものでもない無から無限に寿命が加減重されるということである。レーザーのコヒーレンス検波の言語ゲームから引きはがされ、男性が自己の信頼をモードの愛として持たない時、女性は法の愛を持ちすぎてすべてが無であり、男性の厳命を強制された規律のように守り続け、気位の高い女性の愛を勝ち取るために信頼をひたすら裏切ろうとするその時に、重力の不動性は彷徨い歩く質量のように夜空に向かって放射として交換される。そのようなときに決して出会うはずのない性欲と感情が崩壊の絆として恥辱で結ばれる。それは恋の利得の軽蔑的な収奪であり、負の産物としての子供が量子的な海の確率となる空虚な決定であり、そして結合の永劫的な破壊を相姦の位相として繰り返すような、そういう種類の幸福としての揮発性が思い出の数々に呪われる欠陥格子の結晶へと容赦なく復讐の愛を恩赦として注ぐだろう。だから召喚される天使は受胎を告知する光子の波に復号された目を覚ますか決定不可能な開きにであって、決して去勢された愛の創作物の声の出会いの離散的な再現ではないのだ。

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