第18話

 量子キャラクターユニットの自己意識崩壊サイクル引用における言語運用単位のカード電磁場の交換作用。貨幣の客観的妥当性と一般的価値形態の対立規定を時間的な分割ではなく量子的な経路積分の弾力性とスケーラビリティにおける結合性の愛の二重性に名称空間の繰り込み区画としてフラットに加減重していくこと。愛の音楽的劇構造の労働的な価値実現の重力子の宇宙との結婚を自然的な身体の祝福の言葉として召喚する。



 ヘーゲルにとって概念の自己規定の本質が君主的な自然神話の観念的な建国で英雄の戦争が神々との混血を農産物の気候性と潮汐力で重ねることが豊穣性の世界史の一回性になるので、専門性の洗練された偏狭さが学問的な真理を決定しだすと、一般意志ではなく世論と「偉人の言葉」しか残らない。そこから尊敬と軽蔑の聴衆の態度がテクノロジーの一般的形態の持つ情熱に対して官僚的なメディアの格調高い「理性的な」一般流通で対抗される。それはカルト教団のような霊的な媒介としての集約性を圧力として持つ。しかしだからこそ、革命的な「粉砕」の持つ突進力を煽動の形態で必要とするときは、歩兵突撃に狂信化して、陸上の弾道的な破砕の原理的強度と装甲の厚みを物理的に創り上げることではなく騎兵的に運用し、海上の巨砲的な「地盤」と高速魚雷に「耐える」無駄な側面戦力が加算されることになる。これが航空突撃の国家的倫理である。この歴史の教訓から読み取れることは、軍事兵器のロマンが物語的に生成されることは、仮にそれが全くの犯罪だとしても、ありえたかもしれない民衆の躍動の総合的な表現だが、兵器購入の共同作戦は時代遅れの遺物を借金の肩代わりに見栄えの人質として国家の不動性に足を取られているだけのだということである。そしてこれらのことはもちろん核兵器と放射能汚染にも潜在的な負の確率的世界創出として当てはまる。



 誤解の無いように先に言っておくが、私は十七条の憲法のような原則法の調和の決まり事よりもヘーゲルの概念の自己矛盾の法哲学の方を高く評価している。それはヘーゲルの言っていることがもはやれっきとした犯罪になっているとしてもそうである。しかしヘーゲルが侵犯の同等性と正義の原則の思想的統一について語ることが復讐の不滅性に対して無限に優位にあるとしても、ヘーゲルが自然科学をどんなことがあっても国家の君主制の自然原理よりも高く評価してはならないというような普遍的理性の永遠性のようなものを単純に祭り上げるわけにはいかない。ヘーゲルが国家を自己の観念的な価値形態の規定的な実現形態だといっていることは、国家の有機的組織の観念的自己規定を手足のように動かすスポーツ選手のように税金が省庁の大衆娯楽になっているとしても、マスコミが主催する学問的真理の普遍性を有する意志の総体的実現だ、などど説明することを屁理屈でないといえるのだろうか。サイバネティックスや障碍者の倫理的自己実現が国家的支援のスポンサーの枠を獲得することはこのことと無関係ではない。そしてそのために演出的に地球から宇宙の進出がテクノロジーの進歩だ、という無教養が無重力歩行し始めるのだ。



 電子製品のグローバル競争の市場論理というレトリックは国家主権の持つ市場の闘技場形態の再演性という市民社会の自己規定なしには説明がつかない。労働力の形態も商品の価格もそのことにはなにも関わらない。実際に関わるのは株の証券取引市場の持つ兌換性の信用に過ぎないのである。しかしアメリカにとっては今でもこのことは重要であり続けている。ヘーゲルは占領を行った者が、その国家の有機的自己形態の国民性に関与することはありえず、単に支配することだけを求めているといっていた。このことがまさに円とドルの輸出的形態の関係に当てはまる。これが問題なのは、文化の持つ大衆と教養人の対立形態という規定性が占領の持つ娯楽的消費の形態として割り込むことで、教養に反抗する大衆文化、という対立規定を占領的に温存させることができるというやり方でメディアの独占が行われているからである。厄介なのはヨーロッパの階級的没落に対抗するアメリカの娯楽というやり方がアメリカの物理学的教養として日本の西洋的文化の受容性に階級的に対立する規定として、スポーツ観戦などの通俗性が反教養というサブカルチャー的教養として増殖していることにある。なので例えば野球が物理学的な教養課程を表すことを通してヨーロッパの理論物理学的教養をブルジョワ的階級の時代錯誤だ、として否定することが、理念的進歩である商業流通の一般性として成り立ちうるということである。もちろん概念の自己否定という規定を考えるのでなければ意味が分からない。理論物理学は野球選手に差別的だ、という主張に現実性を持ち込むことができるだろうか?これこそジェンダー論理の代補作用にほかならない。というのも意味が分からない自己規定に一貫性を持ち込むためだけに性別的な自己規定を政治的公正さとして持ち出して、その差別内容を暴力否定の教養として制定するということこそ、戦後進歩主義の概念的な自己規定があるからである。この進歩主義に意味の分からない共感的な可愛さを動物的なミニマリズムとして感染的にミーム化することを大衆運動の創造だ、といっても軽蔑的な皮肉が増してくるだけなのはそのためである。もはや国家に「賛成」するか「反対」するかでしか階級も教養も存在しないのだ。



 国家が一般的な流通経路を独占的に占有していることの代価は何であるのか。それは労働的な学習形態の知的文化的価値の徹底的なにある。このことはいいことではないのか。公共スペースのデータベースの拡充や視聴覚メディアの設置などはこのことの有意義な要素であると言えよう。だがこのことの否定的な影響は取り返しがつかない。それはある文化的価値はコンテンツとして消費されることを除いて、倫理的な意志の労働的な担い手の集積的な国家的自己実現でなければならない、という創作のとして与えられる名目物価価格の商品形態だ、という自己規定の定立である。これがなぜ致命的であるのかはまず回り道をして、二次創作のデータベース的な使用価値を一般流通経路から切り離して、独自のサークルとして個別販売するための文化的同等性の市場創出という神話的な空間性を考察しなければならない。いうまでもなくコミックマーケットと御三家(アイマス・東方・ボカロ)の動画的コンテンツ生成の祭りとその絶対的洗練による腐敗のことである。ここでは問題を哲学的思弁性と美学的コミットメントの政治経済性だけに絞ることにする。つまり個々の文化的質の内容性を問わない。ネットによる匿名批評が個々の作品の文化的質をとして読んだことは妥当ではあるが、それはいかなる意味でも一般的ではなかった。それはデータベースの一般形態の欲望に過ぎないからである。そして教養と娯楽性の融和から引き出された歌唱的な独立性が性的な自己実現として独り立ちした時、国家が占有している一般的流通経路とは国家の侵犯の同等性を昇華して、その本質的形態を防衛することだという平和原則に置き換えられてしまうのである。なぜなら、著作権の知的財産を法的に保障して、言論の自由を世論の独創性の承認にしつつ、個人的な特殊性の利益を自然的身体の所有性に統一するためには、プラットフォームの生成的発展が国家創造の意志になってはならないという英雄願望の悲劇として復讐の無効化を宣言するからである。もちろん個別的な復讐が問題にならないのは法律的に明らかだが、もはや個別的な復讐と国家が物理学的要素で無視している確率的な因果法則を結び付ける動機しか残っていないのなら話は別になる。この場合、復讐が完全な精神的要素でのみ遂行されるからこそ、ルサンチマン的な妬みの理念を持ち出すことが避けられるようになっているからである。こうして芸術的創造が実定法と復讐の区別がつかない量子的崩壊の意志に倫理性が宿ることになる。



 我々は例えばコンテンツプラットフォームでキャラクターガチャを光の貯蓄原理に投資された手持ちの石で引いて、目当てのものがでなかったとき、それを他人に八つ当たりするのは倫理的でなく、単なる私的な暴力に過ぎないと知っている。しかし放射能汚染の影響を受けた子供や母親の場合はどうか。それは八つ当たりに過ぎないのか。この場合、ある特定の誰かに復讐を行うのはすべて不正だが、復讐の意志を倫理的にするのは不正ではないといえる。これは復讐心を全く持たない無差別殺人との対称性として重要な区別であると思われる。別の形態、例えばワクチン接種の副作用で人が死んだ場合、それを国家に復讐するというのは侵犯の同等性から、謝罪と科学的説明の原則が他の人間との集団的な予防の観点での普遍性に照らして、確率的に不法であると措定することができる。これは行政が無能であったとしてもそう言える。その場合は、明らかにその行政の個別責任が問われるべきだからだ。しかし国家が放射能汚染とワクチンの影響を混同している場合は、制定法の原則的な機能そのものが文化的な価値形態の対立規定の俎上に載せられるのでなければならない。それは確率的にミームが伝播する存在論的郵便的形態と、物理学の「弱い」相互作用の家庭的自己占有の専門的中毒性という座談会の自己規定を壊変することにほかならない。観光ツーリズムの人口流動性と文化遺産の「批評的」挿入を原発という建造物に「記念碑化」することは電力供給という思想的源泉の収益を編集として享楽化して、その蓋然性の健康規定を自然的生成の共有として称揚することにほかならなかったからである。この「共有」の価値形態が皮肉にも「クラスタ」と呼ばれたことは的を射ている。というのもクラスの相互参照を空間的構築としてコード的に統一せずにばらばらの名称のままで混雑した包摂概念を発病の警報装置として統計的に公表することが、検査の絞り込みと行動ルートの枠の制限を歴史の裏からすり抜けて、自宅的な所有性を小さな動物性として電子化することにならざるを得なかったからである。



 コロナウイルスの流行が経済的に打撃を与えたのはまさにこの文化的流通形態の郵便的な交換性が文字通り電子化したというデジタル革命をいかなる物理的な価値実現にもできなかったという批評性に存在する。カードの電子的な交換価値は現金と支出の結びつきをポイント換算して、その商品の電子的価値定立を引用的な戻り値として呼びだすのだが、アーキテクチャの構築原理が生活手段と表現手段の関係として考察されない限り、単なる遊戯性の形態に堕落する。要するに、問題は相も変わらずコンテンツの収益性だと見積もられていたわけである。なぜならコンテンツの質をいかに文化的な視座から教養的に眺めようとも、それがいかなる国家との対立も歴史的な遺産としてしか存在しなかったからである。だから特定の政治家のパフォーマンスがメディア的な視点を劇構造にして真理を塗り替えている、というの方が現実的な脅威になったのである。これがなぜ問題かというと、商品のコンテンツの持つ煽情的な宣伝文句と政治宣伝のアイロニーの持つアジテーション的な身振りが共感というミームから生成される演算子になると、創作というカテゴリーは安全な所有性という知的形態を維持できなくなるからである。現在のコンテンツが陥っている保護主義的なウィットと冷静な断定の繰り返しの技法は砂糖菓子の淡雪が失恋の諦念を理解の喜びに変えるメロドラマとして再現されるオペラと親縁であり、その敵対原理は解釈批評的な形態に限定されていく。ここで性愛の筋が脱線してばかりいるアジテーションの美学のどこが間違っているかに言及するよりもアジテーションと見分けがつかない引用の落差による国家的な不正の告発が皮肉な嘲笑の響きとしてしか言及できなくなっているプラットフォームの心理的な融和性について問題視した方が有益だと思われる。それは懲罰としての笑いが罰を受ける身体のアイロニーとしてのお笑いにしかなりえない人工的な身振りの真剣さにロマンチックではない恋愛のイベント状態の意識転送がルートの重しとしてかかっているからである。



 なぜ無料化が問題なのか。それは恋愛の自己実現過程が労働力の価値形態として結婚の前に与えられると、現実にありえないほど倫理的自己努力の無限の負荷が最小の形態で加算されるからである。我々は次のように言うかもしれない。そんな風にフィクションのように結婚を考えるのは重過ぎる。現実には結婚して上手くやっている人は大勢いるし、恋愛だって好きにできると。しかし政治的自己規定はどうなるのか?それはジェンダー問題の社会的労働過程の平等化として記入されるしかない。子育ての休暇申請による年齢的問題も同様である。このことを現実に訴えるいかなる政治的経済的対立規定も階級的には教養として存在しない。労働力疎外の本質としては知的財産による収益性だけが存在するのであって、その創作への無限の努力義務だけが倫理的に課されているのである。これでサービスはことの理由がはっきりしたはずである。この「無料の壁」をある特定の個人が突き破るのは超人的な努力が必要である。仮に法人企業がそれに一定の援助を別のコンテンツ形態の融資表現として用いることになったとしても、その無料的な形態を個別的な販売性に転化することはほとんど不可能である。我々はいまでも世論の独創性の個別的承認対偉人の国家的収入の自由参加という市場競争にしのぎを削っている。創作プラットフォームに投稿されているすべての作品を残らず文化的な質的価値として評価することは原理的に可能ではない。検索可能な名称空間の統計的実在量という概念は、労働の持つ客観的妥当性と一般的価値形態の対立規定を集合的な平均価格という出版形態に流してしまう。人格を支出することは可能だがキャラクターを買い戻すことは可能ではない。文化的同等性の交換価値は決定的に無料化のサービスによって破壊されているのだ。かつての二次創作の性的表現というものが担保していたのはこの同等性なのだが、アプリケーションプラットフォームの形態は、それが全く悪いわけではないにしても、個別性の担保と国家原理の絶対性の対立を多様性の自己表現の再帰という衣装制作の現象性で妥協してしまっているように見える。言い換えると市場創出の労働能力の自己規定は文化的同等性の交換価値が性の侵犯ではなく、法的な召喚性の婚約的な出生に基づくのでない限り、すべからく契約の応答確認に還元される、という古典的重しの意味づけに個人の最小作用が求められることになる。ただしこの場合の召喚性とは欲望の負の重力子を喚起するというキャラクターの現象性と、正義の無限の法的回復性が性の侵犯の報復から婚礼の祝福を取り戻すという経路積分の物理的交換の確率的座標性に量子化されることが必要不可欠であり、単なる美学的決闘性の音節的自動化のセクシュアリティといったブリコラージュ的な変態的創出系であってはならない。それは素材の無限の生成変化を観念的な概念運動にモデル化するシミュレーション制作というアルゴリズム的視座に発言内容を保存することになってしまうからだ。だからこそ私たちは自然的身体の相姦性の潜在的家族に対してこそ好きという愛の言葉を、保存される可能性のなさとして手をつなぎながら一方的に囁かなければならないのだ。

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