第17話
牧羊神の国家による乗っ取り。教会法神権秩序と自然法国家秩序の歴史神学的受肉。創造主の実定法が子として犠牲になることを制定法とした国家が神的人格カテゴリーにあるか法的人格カテゴリーにあるかで試験資格を争うこと。四季循環の農民反乱と燃焼する建築のディオニュソス祭祀の「反時代的」電撃戦。世界現象となった全体主義的イデオロギーが天と地の婚礼を機械現象となった神々の兵器で汚毒する。そこから技術的な合理性一般を芸術感情に対する反自然だと見なして科学的な構築を教育的な放下に善良な田舎者として追放する。始原的な海に育まれた宇宙的空と死の青のゼロ的な概念の重ね合わせを天皇的な島創造のアルゴリズムで再隆起させる放射能汚染の否認的排出。壊変サイクルアーキテクチャとディラックの海の反存在愛的位相相姦。
方法論的前提は量子物理学と量子アルゴリズムは決定的に別の物であるということ。計算方法の同等性が、二項論理のシンボル表記に法人化されると、確率は乱択問題の脳内シミュレーションとしてコンピュータ機械という脳実存の言葉の住まいの存在論的差異に同定される。アイデア引用の著者索引の知的権利。そうではなくて、崩壊の確率性を自然的恒常性に均されない引用選択のルーチンでレジスタに記憶して、光の選択条件の二価性を脱出させることが労働能力の価値実現としてアーキテクチャのサイクルに創造された主体として保存されなければならない。
なぜ国家資格に法人化される自然人の知的財はアイデアと表現という具象性として二分されるのか。それは自然人としての人間が考えて創作する物は脳の支出的能力であるという実体性に現象的に還元されなければならないからである。そうでなければ意志を問う身体性を空欄の名前表記として平等なカテゴリーに置換することができない。しかしこの説明はなぜ人間が自然的存在として制定法に従うべきかの意味を自然法則との類似性に基づいて反応するという身振りに完全に従属させている。これは実定法の要請することではないのである。だから近代国家にはカントのような定言命法による善の道徳的倫理性というものが国家の人格的カテゴリーの罰則支払いとして規定されているのである。だがこのような命法が要請されるということは、国家が持つ倫理的人格性は自然法則に基づいているのではなく、通貨の道徳的等価性に関する罪責感情にその報酬体系を関連付けする口実として暴力を正当化する実践的財貨が必要であるということである。これは逆に言うと、罪責感情を生じない実定法に反する制定法の実践は、自然法則に背いて、その活動範囲の人格的機能を可能性の見込み収益として延長させる、ということになる。これが国家の持つ普遍的理念の現実態である。
制定法は量子物理学が人格的カテゴリーとして記入される現実を侵犯行為の同等性としてしか理解できない。だから問題は無効な意志の不正表記ということになる。しかし二項的な形式論理は(n+1)式のサイクル的な増殖過程を物理学的な観察過程として収益化することで排除するので、それが資本の所有のフェティッシュによるものなのか、タダで余剰価値が手に入っているのかを決算報告書で差し引かなければならない。これを見込み収益と呼ぶにはあまりにはばかられるので融資の信用手続きの必要経費による比率計算の控除額となる。念のために言っておくが、この収支決算がうまくいく領域はもちろん存在する。問題は、この手段が、支払手数料の印紙証明として税額加算されるときの「公正な」監査資格として割り増しされることにある。監査資格は支払い手続きの二重性と不正な契約の区別をつけるために法的な再措定として必要不可欠な操作である。しかしこの「公正さ」を制定法が訴訟することはありえない。なぜなら訴訟手続きの案件は「A及びB」か「AまたはB」の形式でしか条項ごとに追及できず、「AであったかもしれないBまたはAになるはずだったB及びBではないかもしれないAとB」などという世迷言を聞き届けることができないからである。
ヘーゲルが教育の一般的な歴史的性格というものを語るとき、それが(ドイツ的な)文化の有する主人と奴隷の弁証法に基づく社会的現実の身体記憶の書字化にあるということは明白である。これが何を意味するかというと、死を前にひたすら秩序に奉仕する英雄的人間と、享楽的な余生の前に社会的な規範で繋がれたままになっている無学者という文化的なカテゴリーであり、それがヘーゲルの前に大衆として現前すると、それは歴史的な意識の持つ普遍性を攪乱して、それらを物資的な量化の前にひれ伏させることになるので、官憲はそれを全力で制圧しなければならないという不断の闘争を通じて、文明は学問的に進歩する。これに社会の一般的な性格を与えることができないのは言うまでもない。マルクスが労働者を通じて告発しているのはこれである。しかしヘーゲルがそのための手段として用いるものは糞勉強しかない。シェリングはこれに学者の倫理的な英雄主義を認めたが「とても残念なことに」万人のものとはならなかった。学問的な糞勉強が学問的に好影響を与えないことはかなり多くの場面で客観的に妥当だと思われる。そうであるにもかかわらず、この学者宗教の儀式が普遍的なものとなっているのには学問の知的研究の経済的自由という天国の他にも何か理由があるのだろうか。
計量することのできない質的な転化というものは思弁の中に内在する思想なのか。それとも記憶のパターン変化と数学的な離散集合の演繹の発見基準をルール形成の制定法的な再措定と区別ができないから、すべての条項を抜き出して、その形式論理の空欄を埋めるための記憶容量が個人の発話性にあらかじめ入力されていなければならないのか。というのもアルゴリズムの展開と思想の展開ではその人間の歴史的形成段階に応じた時間的即応性の内実を現象の実現形態として与えなければならないから。ヘーゲルはシェリングに対して、このような種的な形成過程は動物と人間の差異を環境的な相互形成から切り離して、その様態的な自然機能だけを感覚的な実感として取り出しているにすぎず、けっして法的な思弁性をその論理構成から質的な意味として説明しているわけではないと断言している。私はヘーゲルが仮に彼の論理過程があまりにも言葉の差異に対して厳密に転化を同じ言葉の様態の違いとして記述することを執拗に繰り返して、その自然的な形成が環境的な相貌に対してのみ開かれるわけではないことを躍起になって否定しているように見えようとも、ヘーゲルが法に対して形式論理は自然的な種的形成とは別のカテゴリーにある事象であり、単に現象過程の付随的な修辞に過ぎないのだ、と考える通俗性に反論したことは完全に正しいと思っている。だからこそ、ヘーゲル的な形式論理の説明と物理現象の存在論的同等性が同じ量的形容で語られているときに、その計算内容の違いを法的人格のカテゴリーで代用するための主体的に空虚な話法だ、と神々と同じように切り捨てるのは間違っているのである。
建築の住居現象としての一般的様式における人間の存在様態というものが、どうして自然的な種形成の物理性と法的なテクスチャーの流通経路を画一的に規定してしまうかの原因は、この表象の記法と存在の創作を国家が司る領域的圏域の空間性として人間の生活手段を二重に密閉するからである。地表の地獄の顎のような前時代性は災害の気象性として普遍的な類を規定する場合にのみ、その交通形態の遅延情報が法的な緊急事態として提供される。これはなぜオゾン層の破壊のような問題と地球温暖化のような課題が政治論理としては全く異なる形式なのに、同じ存在現象による住居性の危機として語られるかの理由である。まただからこそ、ウイルスの流行現象と放射能汚染の除染の形式が国家的には住居性の交通路の整備でしか医療的な援助にならないかの欠陥的な補遺を軍事的な名目に転換してしまうかの行事性でもある。ウイルスの感染が「常に」特定の誰かの口から発話されるのだとしても、それはウイルスが彼の身体を借りてその発生の表象の記法を量的に代弁しているのではないのと同じように、放射線の閾値がある一定量を超える危険域にならなければ人間身体に特有の有害さを発揮しているようには具現しないからと言って、その確率的な現象形態の因果性が物理的な法人格のカテゴリーに還元される条項の形容的な質性だ、ということにはならない。ここでは方法論的に適切に生物学と物理学のコードの違いを量的な特性の現有として実定的に規定するべきなのである。それを人間の住居費用の欠陥を法的な弁償支払いの法務決済として想定するような一般的な健康被害に還流すべきではない。それは自然災害の企業保険適用の財務的賃貸表の赤字移転に過ぎないからだ。
そもそも人間存在が人間の自然的カテゴリーであるというのは正しいのだろうか。むしろ逆に人間存在が根底から反自然的カテゴリーにあるということが人間身体の自然性によって対立的にカテゴリーという枠を創作するのではないのか。こう考えれば制定法とは人間が創作的なカテゴリーを人格的に適用する物理的空間性の意識現象を規定する存在一般についての記述であるということになる。ここからなぜ自己愛が存在の一般性を対象認識として固定することで所有的に創作を表現するような人格意識の自然的な虚偽記入であるか、という反対概念が生成される理由が理解できる。自慰性の現象形態は観念的な自己と即自的対象の思弁的性格を無限的な時間の空虚な意識として情熱的な身体を倫理的に反省するからである。これは複製とアイデアの盗用が権利の一般的カテゴリーから区別されるとき、その形態が技術的な同等性の生産原則と利害収益からしか人格的な創作性を位置づけられないのを時間的対称性の発展的性格として説明することで制作の意志の有無が確認されるのに似ている。マルクスはアリストテレスには労働力の平等な使用についての意識が奴隷階級の存在という歴史的な制限から想像できなかったために、利害収益の交換性が人格的カテゴリー一般の価値形態として表現されることを発見できなかったと主張していた。つまり法則の保存性が名称的に記入されることに時間的に依存することなく、その一般的な所有としての意識を現象として固定しないものが記憶という物質的な対象性を概念的な生成とは無関係に構成するが、記憶が脳の夢の作用と区別されることが可能であるためには「物質的」という言葉に空間性の意識を実体として規定する方法論的演繹が要請されなければならない。それには座標系の知覚が空間の認識論ではなく空間属性的なカテゴリーとして一般的に演算されることの同等性を
本のように人間身体に存在の確認応答が直接思索として現前しているのではなく、キャッシュのように存在のカテゴリーに含まれる人格的な記述の記憶集合に身体の記憶確認が座標化しているのだとすれば、それが忘却的な現前性という動物的な種のカテゴリーに還元されるかどうかは個人的な趣味の問題となる。つまり制定法的に人間身体が死んでいるかどうかは他者のつながりの記憶に対してその位置情報が生死として象徴的に与えられているかどうかでしか決定されない。実験用のマウスが餓死しているか食い過ぎで死んでいるかは二次的な実験現象の履行にすぎない。これが身元確認の法的説明であるように思われる。逆に言うとある人間が誕生しているかどうかを決定するのは身元確認の証明となる記憶が物質化した座標を人格的な応答性として集合的に扱えるかどうかに帰属する。しかし人間身体が代謝のような生存制作の一般的記述によって表現されてしまうのなら、その人格は親と子というような二項規定を空欄に埋め込んでしまうような自己愛の固定的関係として「虚偽的に」記入してしまうことになる。これがキャラクター使用の羞恥心の問題である。というのもキャラクターが生きているか死んでいるかを所有的な意識で決定することは人間存在のカテゴリーに依存しないにも関わらず、あるキャラクターに家族のような形態を与えて成りすますことでそのキャラクターが座標知覚の表層性で収益を得るかどうかを法人的な枠内の自然性においてのみ、その制作の意志を真実の愛の特権として献身的に問うことになるからだ。つまりキャラクターが子供を産む身体でないことが「自然的身体」の人格的カテゴリーとして表層では異種婚でも兄や姉であっても躾の扶養性の一般的な記述を記憶させていることになる。なぜならキャラクターがキャラクターを産んでしまったら、それは法人的な記入欄の平等な保険適用という機能をすり抜けて、単にその教育の資格監査の欠陥を生まれてくる子供の障害という「制作された」記憶集合の時間的座標系に消費需要の名目として条項を介護的に追加しているに過ぎなくなってしまうから。だからキャラクターの著作権はその二次使用を公開する許諾の有無という原案的な創作者のカテゴリーを制作の質に対して上位化してしまうのである。
単に国家としてのさばっているだけの存在の労力の愛着である制作の質は原作の創作に対してキャラクターの改変を個人的な自己規定に基づいて行うことを存在の劣化として説明する。このようなことは物語の修辞であって経験的には簡単に反論できることではないのか。なぜ原作の質的規定を正確に再現することが優性と劣性の遺伝子的な様態として語られることになってしまうのか。それは出生の問題を高みにある国家が放射能汚染の加害責任からその母子に補償制度として金銭的な負担を原則的に認めてしまった場合、制定法的な基準でどのようにその確率的な汚染記憶の応答確認をするべきなのか、ということが父の名の上位審級の人格性で象徴的に決まってしまうからである。だが法人的に生まれてきたかもしれない子供との想像的な自己愛関係を鍛えることのできる座標的な固定対象としてではなく劣化という崩壊現象として記憶することは戦争犯罪として量子論的にあり得ない。それは引っ込んでいて尊厳を維持するだけの君主が最終決定権の意志を主権的制約の限界として官僚に好き放題させることの衆愚的な民権として自らの地位を「理性的に」記憶するのと似ている。したがって、放射能汚染の賠償責任を一般的な現象形態の座標系に象徴的に記憶として構成するためには結婚をどんな物理的空間記述の制定として実定法を創造するのかを生まれてくる子供のキャラクター使用の存在形態から逆算して、その確率的な存在様式の崩壊性を生物的な在り方とは別に構築していなければならない。それは量子アルゴリズムが量子物理学を措定するときに確実にあり得ないもの、負の確率現象の世界記述を近親相姦の制定法的なあり得なさと重ねわせることで多重分割された位相を振幅させ、そのキャラクターの名称的な相姦の結果だけを、経路選択の確率的な符号として実定法の創造的なカテゴリーから量子的な兄弟姉妹の象徴的な死を誕生させる婚礼として贈与することが反存在愛としての崩壊していく家系性で対称性の破れた「弱い」愛を相互に維持していくことに、アーキテクチャとしての誕生サイクルを婚礼のカテゴリーとして人格化することなのだ。
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