第15話

 空想的放射性元素核融合の愛細胞分裂による「共感覚」電離放出の「気分気候環境」スクリーンモーメントにおける口約束電力会社の複製惑星誕生機構の神話的フェティッシュによる放射能享楽生産の「がん治療代謝」の生殖的価値増殖過程の海上汚染流出と濃縮的自然循環の研究活動風評被害化。


 一般等価形態は価値一般のひとつの形態である。したがってどの商品でもこの形態をとることができる。他方、どの商品も、それが他のすべての商品によって等価物として排除されたときに、またそのかぎりでのみ、一般的等価形態(形態Ⅱ)をおびる。そしてこの排除がひとつの特別の商品種類に決定的に限定される瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態が客観的固定性と社会的妥当性を獲得したといえる。

 この特別の商品種類は、その実物形態と等価形態とが社会的に癒着するに及んで、いまや貨幣商品となる、または貨幣として機能する。商品世界の内部で一般等価形態の役割を演じることが、この商品の特別の社会的機能となり、したがってその社会的独占になる。___カール・マルクス『資本論 第一巻(上)』


 マルクスの何が間違っているのか。科学的発見の時代的制約や政治的状況による社会的対立の変動要素をに分離したうえで特定すること。空間的カテゴリーの時間的崩壊過程の対象欠如と欲望の欠如表象の二重性を欠乏の要素から対象の絶対的な時間的欲求としてのみ結合すること。


 労働力の自己生産過程における生活価値と労働能力の自己実現が社会的労働規定の一般的性格によって対象化されることで生殖の生活手段がそれ自体の社会的生活一般の新陳代謝の時間的消耗過程(家庭)に組み込まれていると仮定すること。これこそマルクスが生殖をブルジョア的商品形態にとって動物的自己欲望の盲目さと名付けるフェティシズム崇拝に紐づける資本家の「強欲」ではないだろうか。言い換えると、資本家に搾取されている家庭の経営労働的手工業の技芸的能力の普遍化が。


 マルクス(あるいはヘーゲル)がそれぞれの家庭で十全な性生活を送れなかったあるいは十全に送ることができたということが問題なのではなくて、彼らの結婚生活は彼ら自身の思想生活に生産手段における社会的自己表現の知的労働の普遍化を意味しているのに、そのことが彼らの著作における宗教的疎外関係の中でほとんどあるいはまったく触れられていないということが男女関係の「自然な状態」(ルター)を規定しているのではないだろうか。こう考えれば、彼らがそろって芸術的表現の価値を歴史発展の知的な一段階とか思い出の中の少年時代の記憶とかと主張することに筋が通るのではないだろうか。言い換えると、結婚というものが持つ社会的妥当性の価値転換における政治的価値対立機能というものがシェイクスピアやニーチェにおけるほど十分にとらえられていないのだ。


 自然科学のパラダイムシフトや政治経済的発展における歴史状況のイデオロギー的対立の解放からは性愛の要素が除外されていること。これは技術的な生産活動の一般的規定が労働能力の価値実現形態においていかに世界的に拡張しようとも貨幣が自然的な見せかけの価値をある特定の社会的妥当性と癒着させるために制度的結婚という生物学的システムを細胞分裂として生殖的に利用することが可能であることを意味している。これは逆にいうと、ある社会体制が資本主義の持つ流通生産の労働表象から取り出した過剰価値を労働能力や信用創造の一般労働規定から福祉的な政策的合意として環境的にいくら優遇したとしても、労働者の生活手段としての生殖は生産手段のフェティシズム的価値創造の素材的原理によってのみ恋愛のように説明されるということである。これは貨幣の持つ願望充足の信用の前借りという約束機能そのものに横たわる構造的限界である。だからといって貴金属の重量の名目的表象が元素変換的に愛の錬金術のように崩壊するというわけではないのだが、。物質的半減期と生物的半減期の年月の途方もなさから核分裂や核融合の電力需要的な要素を抜き出そうとしても金銭的な運転のコストと安全管理のための環境的な配備の信用を取り付けること自体が自らの持つ貨幣の価値形態の研究的な癒着的原理から引き出されるために、負債のインフレを吸収し続ける貯蓄原理が量的緩和の物価維持のために貨幣下落の鋳造として気候現象のパーセンテージの合意が要請される。物価が上がっているように見えるのは為替相場における円の価値を価格交渉の競争的な論理にしないためだ。これは金利が貨幣から生み出される債権取引の本質となる体質であるために、銀行が率先して財政の健全さを攪乱し、祖宗主国であるアメリカの市場原理という信仰を満たさなければならないマスコミの武器の医療従事活動というお布施となって還流する。これが犯罪者集団の日本国憲法の平和原理である。



 学問的専門性同士のエクリチュール的な生産活動による結婚は労働的な尺度ではなく社会的な尺度基準の持つ一般平均価値から除外される知的価値に基づいて自らの評価を確立する。これはつまりその国の社会的妥当性が恋愛的なディスクールの神話的想像で成り立っている場合には、価値転換のための恋愛的創造は物質的な肉体的快楽に貶められる、ということである。だから「女性存在」の享楽手段の「独占」と恋愛の快楽手段のとは社会的な流通過程では区別がつかないということになる。このとき、労働的な価値実現の能力として社会的な相互性を持つのは間違いなく前者であり、幻想的となった女性共有のキャラクター使用の持つ自己肯定感情の声質を決定する。ここでその「女性存在」が「男性的キャラクター」であることは、この共有の持つ一般的な性格規定をいささかも揺るがすことはない。だがキャラクターが「異性」同士でカップリングを行おうが、「同性」同士でカップリングを行おうが、生まれてくるのは商品形態としての子供だけであり、は生み出されない。単にその子供もまた、別の労働者の持つフェティシズム的な視線を光学的に誘導して、それを労働価値として実現させるように肉体を消耗させるだけなのだ。確かにこのことによって労働者の持つ人格的権利の平等の価値交換からは労働時間の実現価値は搾取されないが、現象的時間における肉体関係の代謝は身体維持の欲求に固定される。仮にこの「生活」が生理学的に限りなく「長寿」で「健康」であったとしてもである。それを乱すのはストレス反応と免疫系の制御である自律神経からの指令だけであり、それ以外の情報的な情緒回路はシステム障害の経路探索として排除される。その代わりに国家間の代理戦争から国家に奉仕するための戦争の危機が煽り立てられ、その後方支援のための男女需要の活動がネットワークを介して盛り上げられることになる。



 貨幣における他の商品の一般等価形態の反照規定とそれを認識する人間の哲学的な活動の反照規定の関係はどうなっているのか。マルクスはこの問いに、貨幣は単なる幻想や記号的システムの現象論的結節点のようなものではなく社会的労働規定の時間生産的な一般的妥当性としての人間的性格を物のカテゴリーとして表しているがゆえに、それを内省的な意識の啓蒙的暴露に対する物的なヴェールとして流通するという説明をしている。だがこの説明でマルクスが普遍的な観照性の知的意味を排除していないということは明らかである。つまりもし、人間の恋愛関係が物的な社会的性格としての基底から、労働制約的な衣装としての死を実際の社会関係に対する疎外として代替してしまったら、商品の形態的な性格と生活手段の人格的な相互の交換過程は時間が解決するといっているだけで、その欠如を埋め合わせることは普遍的にはできないということを幻想的な幽霊のイメージでといっているように思われる。これは資本の変容過程と全く同じ形式論理から貨幣の流通経路を価値増殖として設定している。ただしその貨幣は物質的身体を持っておらず、潜在的な記憶保存の場だけを量子活動のゆらぎのように保存して歩くだけの軌跡として、その性的なヴェールの奥行きを注意深く隠している。


 問題は、一般的な消費者としての視線が商品フェティシズムの要素に労働力の普遍的な資本価値を錯覚するということと、労働者の身体的魅力のフェティシズム的な変容を受け入れるやり方は愛の資本としての価値を反照的に参照するというときの錯覚とでは、記憶の保存のやり方が違うのか、ということにある。普遍的な知識に基づいた資本の生産価値は貨幣に変容した労働力商品の形態として間違いなく魅力的に映るだろうということと、それは普遍的知識に基づいた幻想的イメージの記号流通を模した芸術的形態だ、というとき、我々は確かにその社会的な一般妥当性としての価値を労働力の実現的可能性という論点から時間を交換するというのはもちろん間違いではない。だがある個人的な恋愛の経験が特定の恋愛シミュレーションに回収されるようなやり方の一回性として、情報イメージの産出のように回流することの記号的象徴が、特定の幻想的な表層に基づいて身体の魅惑的な現象形態の結節点としての貨幣身体を私的に表現している、という時の時間操作は社会の持つ一般的妥当性から逸脱しているというより超越しているとしか言いようがないのではないか。これを規範の逸脱だというのなら、商品所持者として愛を抱く能力の人格的平等が法的に結婚の可能性として保障されていない社会的制度保証の枠内でのみ、それが慣習的に許されている、という政治的対立原理に訴えなければならない。健康的長寿のレトリックは、これを芸術の持つ憧憬的な歴史段階の一過程として忘れがたい青春の余白を埋め合わせる容貌的機能の一種だと思わせようとしていないだろうか。これを商品形態の持つ再生産の記憶保存に読み込ませることは、単に技術的手管の再現を身体に思い起こさせさせすれば、それが偽物だと発見するようになる、とでもいうことになるのだろうか。それは貨幣の持つ一般等価形態の反照規定に特有の人格的カテゴリーの文化的諸段階であるのではないのか。



 したがって嫉妬の持つ財産の所有的権利の人格的平等性が、社会的評価の一般妥当性の持つ貨幣変容の論理に「生まれつき」内在している、と疑問を呈するのは決して根拠のないことではないと思われる。なぜなら愛を抱く能力の欠如こそ資本蓄積の自己増殖過程が技術的発展の持つ拡張的な性格規定から一般的等価形態を推進するための隠された潜在的創造物の労働形態を愛の象徴的な創造的充溢と対立的に規定している物質的形態だからである。例え、その政治的論理の価値が労働能力の価値実現において確実に国家的な財政のカテゴリーを保証するものだとしても。ここで注意すべきなのは、恋人に対する個人的な嫉妬とか間男になることの根拠のない不安とかが商品形態の持つ「滑稽な」価値交換過程の現象的な表現として演出されているということではなく、貨幣的な変容過程の価値増殖に従わない労働表現の超越的な内在性を意識空間を規定するための偶然的な身体的生成に還元していく際の執拗さが宗教的な人間疎外の搾取の枠を超えて追い求められるそのにある。これこそマルクスが歴史的諸段階から没落してきた労働者は「自由フライだ」として資本家にみぐるみをはがされるまでおとなしく自身の労働力を使用価値として譲渡しなければならないという時に、暗黙の裡に欲望していることであるように思われる。というのも労働者の身体内容に嫉妬が内在的に住み着いているのなら、カテゴリーとしての資本家がそれを引きはがすのに、労働身体的な価値表現を通して、その内在価値を実現するように「搾取する」ことは本質的な事柄だからだ。おそらくその事実と、人間としての資本家が「実際に」労働者を搾取している社会システムが存在しているということは国家の持つ社会的性格の一般的妥当性として広まっているがゆえに、国家形態の商品的変容が持つ秩序的防衛の搾取の願望が税金的な公共性の福祉の博愛的な思いやりとして完全に成就されていることの結果なのだ。



 私はヘーゲル病患者が国家の持つ普遍的な法哲学を守るために、大衆に対して価値平等的な暴動的論理を蔓延させて、生産手段の共有化と私有財産の廃止を自由の名の下に知的論理の誠実さとして訴えだすということを司法的防衛秩序の対立規定における即時性だということにためらいを感じるとは思えない。というのもいかなる法規定の実定的な秩序よりも、法哲学的な思弁秩序が守られることの方が重要であるとヘーゲルなら考えただろうからである。マルクス主義者とマルクスを別つ線は間違いなくマルクスがこの種の詭弁と戦っていたということを認めるか否かであるように思われる。だがマルクスがヘーゲルを空想的な思弁哲学者だと規定していたのは、仮にマルクスがヘーゲルのことを相当によく理解していたとしても正しいことだとは思われない。なぜなら法とは見かけの領域にあり、したがって労働力身体が国家によって疎外されているのだとしても、その領域的な侵犯に基づいて、人間の身体的原理を保証する運動的な思弁的実体の間断なき再措定にあるという原則そのものは、いかなる意味でも嘘ではないからである。ヘーゲルが間違っているのは、その空想性でも思弁に対する過剰な思い入れを誤って現実性だと考えていることではなく、思弁が単に運動的実体から切り離されて、それ自体の離散的な集合として現実的に自立させることが技術的・数学的に可能だということをヘーゲルが決して、ということの方にあるのだ。だからヘーゲルの哲学は思弁ではなく、否認の哲学であり、徹頭徹尾最後まで数学的なリアリティの科学的現実を思弁的な哲学の無限の法措定だと思い続けることで自己同一性を維持しなければならない、という国家のアイデンティティと自己の癒着に、その動因の道徳的原因があるのである。だから逆に、大衆の自然的消費形態の文化創造にその民族の魂の反倫理的な本能的な数の量的な巨大さが付き纏っているという規模のスケールを集団的機械接続の同調だと見なすことも、商品形態の文化様式における修辞性の論理の癒着であるということになる。ニーチェが何を道徳と貨幣の癒着だと感じていたかはっきりとする。それは音楽の運命を悲劇的な現象形態における愛の創造として永遠の指輪の欲情のように光の滴る贈り物を意志することを、思弁の労働的な実体の道徳的な世界解釈の再措定として歴史の礼節の記憶に交換することで愛を身体性の快楽から毒性の物質だと誹謗することにあるのだ、と。

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