第13話
シェイクスピア『ヘンリー八世』の壊変。
「これからごらんに入れますは
笑いを招くものではなく、
高尚にして厳粛な
涙を誘う芸術です。」
健康でありそれまで独身であった二つの「栄華」が結婚して、ますます「栄華」を極めた一つのものになるためには何が必要なのか。身分違いの男女が結婚して血統による認知より学問的な公正を保つやり方で子供が平和に暮らせるように祝福の言葉を洗礼として与えるべきか。しかし男が王であって国の安寧を守るために他の人々の間をうまく泳いでいかなければならないとしたらどのような代価を払う必要があるのか。普通に考えると身分違いの二人が結婚して幸せな結末を迎えるというのはメロドラマ的であって、到底現実のものではありえず、それは喜劇の主題であって政治劇ではありえない。むしろそんなことを舞台に乗せるのは不敬ではないか?仮にその王が史実で浮気と結婚を繰り返し、多くの処刑を行い、自らに忠実であった者さえ手にかけてしまうような男だとしたら、なおさらそんな劇は到底真実ではなく、フィクションに過ぎないのではないか。それは我々が別の作者の主人公を創作するようなものだし、あえてそれを見世物にするのになぜ笑うのではなく涙を流す必要があるのか。ここには涙が二つある。婚礼のものと没落のものとが。
平和はとても高くつく。そのための怒りの炎は自らを焼き尽くさないわけにはいかない。この平和を積極的に推進し、現状を作り出した人物であるウルジー枢機卿は貴族に心から憎まれている。彼は国璽を持っており、王の寵愛を「不当にも」受けている。彼の働きのせいで土地を没収され、破産した貴族たちが大勢おり、フランスとの平和も商品の差し押さえによって暗雲が立ち込めている。国内の流通は実際の物品を通してではなく噂と伝聞を受け取る形式である手紙による財産管理によって記載される。そこでは王の名誉は金銭取引よろしく売買される。しかし、その噂や伝聞の真偽はどうなのか。誰がそのような噂を必要としているのか。どうして商品の差し押さえが最後まで続いてしまうのか。どうしてその噂を信じてしまう誰かが手紙を読む人物として要求されるのか。要するに口裏を合わせることで誰が得をするのか。
フランスから帰ってきたバッキンガム公の処刑は不当なのか正当なのか。そもそもこの処刑というものは必然的であったのか。彼はウルジーが買収した手先によって陰謀の罠にかかり、その命を奪われるのか。彼は自分の監督官が金のために裏切ったと推測する。この後の王の台詞は「心の底から礼を言うぞ」である。なぜだろうか。バッキンガム公は最初から最後まで自分の家柄と血統の正統な位階制を要求しているからである。つまり彼はヘンリー八世を簒奪者であり、自分の王位継承権に対して不都合な秩序に力を貸していると言って枢機卿を告発しているのだ。この件に対するウルジーの返答は自分はただ他の議員諸卿とともに「一票を投じただけ」と返答する。この言葉は本当なのか。端的に言えばここでウルジーが嘘をつく理由はどこにもない。なぜならウルジーがバッキンガム公を「私的な理由で」追い込んだという噂の信憑性とこの返答はあまりに噛み合ってしまうからである。論理的に言って、王の立場を脅かしそうな人物を貴族が放置したままでいるというのは信じられないことだが、バッキンガム公は民衆に人間としての信頼を得ている人物である。もし王や他の派閥の貴族がバッキンガム公を直接追い詰めて処刑したとしたら、王や貴族が戦費や宮廷の管理を維持するための資金が集められなくなってしまう。だからローマ教皇に仕えている人物が名誉や金銭的な理由から貴族の中の貴族である彼を策略によって「不当に迫害した」という噂が流されなくてはならないのだ。そうすれば重い租税や戦争の財産没収を民衆の信頼を裏切ることなく遂行しつつ彼らに不当な法律を廃棄するという恩赦も与えることができるからだ。
貴族の特権が王の不興を買う上で、国王としてのもう半分の権力を持つ人物のことが忘れ去られてはならない。それは王妃のキャサリンのことである。彼女は徹頭徹尾教皇や枢機卿というものを信用していないどころか相手が悪意を抱いているとしか感じられないほどに高貴な生まれの位階制を保守しようとしている。だからといって彼女が人間として悪い性格だとか不正で悪徳を持った人物であるとかいうことでは全くなく、貴族や民衆からの信頼も厚い情深い人物である。彼女の言動を判断する上で、まず貴族や騎士たちが形ばかりの悪口を言っているフランスの悪影響である仮装舞踏会のどんちゃん騒ぎのことを彼女がどう思うだろうかということを想像する必要がある。この仮装舞踏会を主宰しているのはウルジーであり、王はフランス側の貴賓としてこの無礼講の集まりに参加し、のちに妃にすることになるアンと熱烈にダンスをする。ウルジーがこの会合を資金集めと貴族の信望を得るためのばらまきだと考えているのはまず間違いない。しかしここで王は逆にキャサリンとの問題を解決するための手段を発見する。それは枢機卿のせいで自分の正体を見失っているという状態を美しい婦人に対する愛欲の夢として貴族の常識や作法から抜け出すための通俗的な祝祭を敢行するという音楽的な試みである。しかしここでも王の立場から、それを表に出すことは貴族や民衆に対する信頼からできない。したがって、王の派閥の貴族はウルジーを名目にした手紙を使って、宮廷の関心を分裂させ、離婚問題をウルジーの差し金という国の馬を没収する陰謀に変換してしまう。聖なる秩序に仕えるはずの人物が、まさか俗的な関心に縛られて己を見失っている、という風に。
ウルジーは王の離婚問題にどのような立場でいるのだろうか。彼は王が誰を愛しているのか、ではなく、どうしたらフランスとイギリス両国の平和が教皇の権威でもたらされるか、という王の名誉の問題しか考えていない。ここにキャサリンとの信仰の対立があり、かつ王の庇護を失うきっかけがあったと言えよう。キャサリンは離婚に対してはいかなる教権の影響も受けず、キリスト教の純粋な心情に対する徳性の訴えだけで民衆や貴族とその美徳の貞潔を分かち合おうとする。だからキリスト教を政治の利害関係として利用してしまう教皇の使節や枢機卿とはどのような裁判に対する妥当な善意の提案であっても妥協できない。しかし彼女の心情は生まれの高貴さに基づいているのであって、キリスト教と庶民の利害というものが貴族に対して対立的である場合にはほぼ無条件にそれに反対する。したがって学問的公正を男性側の論理に回収される女性的な弱さの無知だ、という弁明でしか回答できないのである。これが途中から、弁明の機会を教皇の使節とウルジーが懸命に用意したにもかかわらず、キャサリンが裁判を離籍し、召喚に応じなくなる理由である。王は離婚の裁判についてもしキャサリン以上の妻を持つと自慢する男がいたら、そいつのいうことは何一つ信じてはならぬ、と言う。キャサリンはほぼこれに生まれの高貴さによる誇りだけで否定しているように思われる。そこにすべてがある。キャサリンと同じくらい魅力的な女性を持つと自慢できる王が嘘つきだと断言できる人物は陪審員の中に一人もいないということが。
王の寵愛を受けたアンという女性はどういう人物なのか。史実と違って、彼女がはっきりとした会話を行い、自分の意志を見せるシーンはこの劇では一か所しかない。それは彼女の友人である老婦人から、王から結婚を迫られ、しかも年金や収入や生活の便宜を無条件で計ってもらえると聞かされるシーンである。ここではシェイクスピアが何を表現として強調しているかが重要である。それは彼女が王の庇護に対して無であり、自分の立場も身分も操も資産さえ単なる無力な祈りに過ぎないと語る点である。老婦人はそれとは対比的に、王からなにもかもタダでもらえて長い間下働きで見向きもされない自分と比べて羨ましいし、その結婚に尻込みする理由など何もない、と語る。ここで祈りというものが心からのものか悪意からのものかがはっきりと区別される。というのも、王が子供が欲しいというのは自分の簒奪者としての立場を確固とするためにあわよくば男子が欲しいという気持ちが半分くらいあるし、貴族たちもアンという女性が素晴らしいのは認めるが、欲しいのは王位継承権を持つ男子であって、王妃としての貴族でない女性ではないと心の中で考えたうえで結婚の幸せを祈っているからだ。しかし彼らはそれを公然としない程度には賢明である。逆にアンはウルジーにとっては心の中で顔に出るほどに毒づいてしまうほど王の忠誠を守る上での致命的な矛盾であり、劇として完璧な場面で「偶然に見つかった」自分の財産目録と離婚裁判の引き延ばしの手紙を王に「発見」される。王が友人としての「愛情」に訴える場面でウルジーは王としての立場に「忠誠」を表明してしまうという手違いを起こすことで失脚する。しかし彼は貴族の誹謗中傷に対してはすべて公然と否定できるほどに義務に対しては忠実であり、貴族が捏造した証拠以外の何も決定的な証拠を突き付けられることもなく宮廷を後にする。彼が女のように涙を流すのは忠実な部下であるクロムウェルだけであり、彼は最後まで自分の忠実さを愛に対して曲げないことで神に対して肉体という高潔な心を取り戻すことになる。彼が忍耐という衣を纏ったまま死んでいくのは、この世の財産をすべて捨て去った時である。
王と戴冠式を挙げるという栄誉は夢なのか現実なのか。シェイクスピアはアンの場合は式典を戴冠の簒奪の芝居にしないために徹底的に形式的かつ順序の厳密な施行において象徴的な威容を身振りに完全に還元できるように設定している。この身振りが聖なるものと猥褻なものとを民衆の出産と分かち合うようにするという点に礼拝堂の改名が反映される。一方でキャサリンの場合は完全な夢幻劇になってしまっており、待女と共にウルジーの功績と腐敗を交互に学問的な比較級で並べて弾劾し、思い出の中の自分をオルフェウスの音に導かれるままに月桂樹の冠を棕櫚の枝で平和の精霊たちに輪となって付けさせ、それを忠実な待女に誠実に記録させようとする。彼女に祝福を送る人物はもはや天使だけになってしまった、その時に彼女が礼儀をわきまえない邪魔者だと思っていた教皇庁からの使節が赦免をするように来訪する。死刑執行の直前であるかのように彼女はその使節に自分自身が心をかけ、愛情をもって接している人々の目録を読み上げ、彼らに少しでも資産上の便宜を図ってやれるように嘆願する。彼女が自分自身のように愛せる者たちには真に貞潔な乙女であることがそれを裏切る者には男の名を捨てさせると断言させるほどにはっきりと示される。彼女は立派に埋葬されることを願い、目がかすんでも最後まで自分の生きざまを口にして不滅なもののように記録させようとする。
偉大で気高い人物はみんな死んだ。残っているのは見世物を娯楽として鑑賞するために必要なゲームを求める人々である。だが天国と地獄の執行猶予はまだ続いていて煉獄による浄罪の炎は妖精のようにまだ灯っている。貴族たちは騎士と共に待女の身分だったアン、かつてウルジーの部下だったクロムウェル、そして王の腹心の新教のキャンタベリー大司教であるクランマーが死ぬまでは安心できないと語る。彼らの教えは異端であり、疫病のように国の健康を脅かすと。そして王は「この」現状をとても憂えており、彼がよく口にする「ええい」という怒りの言葉とともに、そのことを新しい司教に相談したいという祈りの身振りを示す。王は正直に涙を流す誠実なクランマーに対して聖母マリアに誓ってベットトリックのように王の指輪を与えることで、司法権力を買収して好きなように王の意志のように扱える貴族や他の司教たちの陰謀の裏をかくようにする。その時アンの子供が生まれたという報告が入る。王が男子を期待して返答を要求すると老婦人が王のように似ている姫だ、と報告する。そして王は老婦人に駄賃程度の通貨を投げ与えて返礼する。老婦人は出産のお礼がこんなちっぽけなものかと憤慨して、その言葉を取り消すぞ、と不満を言う。そして洗礼をめぐる弾劾裁判が始まる。クランマーは門の外で小僧のように待たされる。入った時には「平民のように」なるためにロンドン塔に入居することを勧められる。ウィンチェスター司教であるガードナーは平民には訴えることのできない枢密院議員であり、この裁判の判事と陪審員を務めているという二重の隠れた身分によって、クランマーへの「態度」を示そうとする。クランマーはそれに「友情」を示すことで返礼する。しかし没落する人物に対する憐れみを知るクロムウェルの態度からこの裁判は法的に全員の態度が一致すると言っても信仰の問題ではなく利害関係の問題に過ぎないということがわかる。クランマーが王の指輪を見せ、貴族たちが弄する法的な例外状態が喜劇的な正常さに反転することで芝居を医者と共に見ていた王が登場して、この態度は忠臣に対する責任を不可避的に負うものであると一同にクランマーに対する和解と愛情を持つようにと要求する。ここで彼らは暗黙の裡に『ヘンリー六世』の劇で演じられた「娼婦である」ジャンヌと貴族間の婚姻の葛藤を解決しようとしているのだと王(シェイクスピア)は言いたいのである。だがこの和解は王の権威が新教との心からのつながりを保っている場合にしか維持されず、カインとアベルあるいはユダのように反転する可能性が史実のように存在しうることを踏まえて見物しなければ、空虚な祈りとなり、洗礼の重みを失うだろう。
裁判の後のシーンで演じられるのは端的に言えばセックスの暗示である。しかしアンとのセックスだと出産の時間との辻褄が合わなくなる。ここで問題なのは、女性が王の所有物のように見世物として扱われるのに対して、庶民である女性はどのように抵抗すればいいか、という点を扱っている。それでセックスでどちらが上かをフランスとの戦争のように思い知らせ、大砲をぶっ放すかのように殴り合わなければならないという気合を民衆と共有しなければならない。これはある意味では賭けである。というのはセックスの見せられない不敬なシーンだけが庶民である女性を王侯としての女性として扱いうる王の二重の視線として宮廷に対抗できる民衆の戦争の権利だ、ということをふまえているからである。しかしこれは不義密通の場所しか自由がなく、まさに姦通の罪で告発された場合には王の眼に近親相姦と映るかもしれないという危険と隣り合わせであり、これが子供が洗礼されて生まれてくるという父と司教の認知に対してはっきりと離婚で答えることができる場合にのみ有効な選択肢である。それだけに、この状況が貴族たちに宮廷恋愛のように占拠され、酔っ払いと放蕩息子のように梅毒に感染させられるという司法の取り締まりで黙らせられることは十分にありうる可能性として残される。それが金融的な衣装の子孫に壁として成り下がることも。
エリザベスは聖書の名前からとられた洗礼名である。彼女は貴族と庶民の和解の象徴として婦人たちに支えられている。王は彼女を洗礼名から口づけと共に祝福する。クランマーの預言は喜びに満ちたものであった。だがエリザベスは二重の継承を持って生まれてくる。都市の灰燼と再生、不死鳥のような徳と太陽の焼尽、学問的な嗜みと清らかな魂。奇跡のような預言と死の処女の運命。星の巡航と枝枝の繁盛。祝日の創造と王の成長の産出。それらの連鎖が白百合のように汚染されないままでいるためには、天と地のメタファーが哀悼の声に覆われて、名君としての聖性に泥が塗られない限りにおいてだということ。なぜならもし政治の毒が回って、戦争の胃袋が称賛と非難の区別の見境がなくなるまでに科学的な汚染が空想的に薬物の処方に成り下がったとしたら、それを神話的な笑いとして劇場が炎上の焔に包まれるのに必要な律動が、歴史の反復としての死骸から羽化する棺に刻銘されるであろうから。そうして人は自分自身の作者であることを止め、シミュレーションによる実験を学園の内部で画一的に点数化するという鏡像的な恋愛に探究の論理を履歴とすることで歴史の断絶を未来の記憶の中に悪疫化した季節の世界を宇宙の果てしなさに転生のループとして閉じ込めてしまうのだ。迷宮の出口はどこにあるのか。引用に関する措定を環境的に再指定すること。終焉の回帰として印刷されたメタファーの世界の崩壊が確率的に変容するまでデータベースの集合性に召喚を貨幣の信用として認知させること。騎士王の伝説が祖国の生まれの名誉を捨てさせるまでに祝祭のネットワークが放射された霊魂を鉄のレールに敷かれたロケットではなく、潮の満ち引きの光に集積された射精の量子の悲劇を貝合わせの悦びとして
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