第12話

 シェイクスピア『冬物語』の問題②


「『いや、あなたはいまや生まれながらの紳士です』

 『そうだよ、四時間前からずーっとそうだったんだ』」


 断るのはつらいが、承諾するのは死ぬ思いがする頼みとはどんなものか。今までいた忠実な働き者が国に去って行ってしまうことか。それとも王子が修養を怠けて急に金持ちになった羊飼いの娘に会いに行くことを確かめるのに付き添ってくれる相手がいなくなることか。第一幕の序幕と同じように、相手の女性を目で確認することが形式的な返礼のことばを終わらせる祝辞となる。ただし今回のケースでは登場人物の俳優が観客に変装するということを夫としてではなく父としての視線で見守るということが主調になる。父は嫉妬とは無縁の慈悲深い寛容な人物なのか。



 この劇が関心を向けるのは詐欺(金銭や言葉に関わる詐欺___オートリカスの父あるいは祖父はヘルメスだ)であり、放縦や経済の性欲や豊穣性や技芸であるが、オートリカスはそうした関心事が共存しうることを体現しうる形象だ。オートリカスは宿命とともにではなく陽気にそれを示す。彼が登場後ほどなくして言う科白「おれの売り物は布地シーツだ」(四幕三場二三行)はそうした主題をすべてふくんでいる。これは窃盗と猥談が彼の商売だという意味である。彼は小歌とかわら版ブロードシーツを売る。彼は布きれシーツを盗んだ鳥の小歌を売る。彼の稼業は小歌を盗むこと。この商売はどうやら性的な満足をも提供している。___シェイクスピアは喜んで彼自身の芸術をこんなふうに形容しただろうと考えることも十分できる。私はオートリカスのもつ芸術家的な側面を強調する。彼の〔どちらかといえば低劣な〕技芸は大詰めで言及される巨匠ジュリオ・ロマーノの芸術的荘厳さと釣り合っている。ボミヘアがシチリアにもたらしたこの技芸は、シチリアがその生存を数え直して語るのに役立っている。(スタンリー・カヴェル【悲劇の構造】)



 シェイクスピア劇の道化とは見せかけではなく本質を暴く事ができる者である。しかしこの劇で道化はオートリカスには簡単に騙される。それはオートリカスがだからである。道化の役割は物品の相互比較による一般的な価値変換の量を計算機のように正確に数えることに向けられる。だがそれは商品の包装の役割の持つ見せかけの貧しさと不幸に対して目を眩まされる立場にある。オートリカスは自分の経歴を他人事のように話すことができる話術を持っており、善意の持つ気前の良さを存分に名簿として食い物にする。王子であるフロリゼルと棄てられた姫である羊飼いの娘のパーディタが登場するのはこの前提においてである。


 まず商品は自然の彩をかたどった祝祭的形象として現れる。商品は誰かに見られることでのみ価値を持つのだからその装飾がいくら豊富で多様であったとしても卑しい身分の存在と同一であり、社会的な位階秩序に対して二義的な一般的価値しか持つことが許されない。そうであるにもかかわらず商品はある人間的関係と親密な習慣性の役割を有しており、その姿が欲望に対して与えられるのは自分自身に対する身体性の正常な方法ではなく無軌道な欲望の方向において偶然の連鎖として変装の出会いが構成される。明らかに商品と結婚することは身分違いの駆け落ちをすることと同義であり、それは父としての生まれの要素を決定的に放棄することになる。しかし商品を消費している間は楽しい気分と陽気さでその事実から目を逸らすことが可能であり、その妄想的な状況において動物的な欲望の解放は法的な形式における尊厳の遵守に幸運として限界づけられる。



 商品は動物の場合は身体的な育成そのものが素材としての価値で測られるのに対して、それが人間的身体を持っている場合はその身体的表象にふさわしい衣装を客の一人一人に価値判断の気持ちとして手渡しする必要がある。この媒介の自然性と人格を分離する形容は季節の死と衰亡の隠喩を模した花々の立場なのだが、私生児の形容だけは人間的評価の出生性と自然の人工性との区別が恣意的な社会的説明に基づくものであるので形容ではなく容貌の問題に話題をすり替えなければならない。だが花の容貌の説明とは自分自身の代理表象を表現するための媒体でもあるので不吉な自分自身の出生に対する否認的な取り合わせと美徳の数々を死骸のようにではなく抱擁の衣装として纏わなければならない。パーディタの場合は女性を演じる少年俳優であり、劇本来の失われた姫であり、それを知らずに祭りの女王を演じている田舎娘であるという三重の自己否定があるおかげで、自己存在を主張する一般的な人間身体よりも商品的な形象の方が物事をよりすばらしく映すのにふさわしい行為の威容を生み出すことができる。だから商品に対する正直な感想は素朴な感受性の体面に慎重さとして張り合うことでのみ自分たちの戯れを正当化することができる。そこには牧歌的な狭量さよりもより可愛らしい尊厳があるので、自分たちの目と耳を誤魔化すための音楽と歌で、臭いのような疑いを黙らせる礼儀が求められることになる。



 問題は商品としての恋人に贈り物を与えるときの誓約とはどのような言葉なのかである。もちろんそれは「その商品を買いたい」というものであってはならない。というのもそれでは売春を斡旋するのと同じことになってしまうからである。直接的に性的身体を売り物にすることは倫理的制約に引っ掛かるということ、これは欲望を萎えさせないための措置であって、人格的な考慮を流行に沿って適用したものではない。もし流行に沿った身体を性的な視線で売買するのなら、それは身体的な魅力のになることを品位の低下とともに運命づけられる。このようなことを観客に向けて礼儀知らずにも演技することは家庭の恥のような分類に組みこまれる一般的な隠ぺいの約束を暗示する。つまり「これは実話だ」という話術のトリックを高利貸しの利殖と同じ要求から売り物の悲恋の小歌のように流通させるということを意味する。これは俗にいうダブルスタンダードの類型性である。一人の男が二人の女性に同じように言い寄って別々の同じ種類の物品を送ることを一流の言葉として約束するという陽気な気分の産物だが、その陽気さにつられて森の神の前で輪になっておしゃれに踊ることで実際の悲劇的な三者間の行動はその場の雰囲気という楽しさで回避される。ただしこれらは無礼講の祝祭の結果として飛び出してくるものであって、恋の真剣な成就を後押しするものでしかない。



 恋の告白には証人が必要であるということ、これは父の目を盗んで行為するための言い訳なのか。確かに老人の忠告は適切なものであり、その言葉は信頼できるものなのだが、行動に移すきっかけとしては役に立たないものでもある。重要なことは、自分の社会的秩序としての価値体系を貶めることを通じて、愛の越境的な侵犯性の深さを商品存在の一般性を超えて告白することにある。そのために一般的な世事に通じている老人たちの承認が必要なのだ。しかしもし老人が観客として変装している父であるのなら事態は一変する。というのも父としての立場もまた商品としての一般存在を超越してその徳としての資産を比較考慮するに値する立場をわきまえることを要求するものだからだ。まさにそのことが隠された身分である王としての身分を保証するものであるはずなのだ。この信頼を裏切ることによって生まれの血統性というイデオロギー的秩序の全体をも敵に回すことになる。なぜなら法の行使には商品としての尊厳を許容する限界というものが必然的に含まれており、それは王位継承権という名目だけではなく、王国としての継承問題全体を代理表象するものだからである。だから単に王位継承権としての身分を捨てるだけでは許されることはできない。しかしそれは愛や忠誠を失うことと同義ではない。だから例え理性を疑うことになったとしても、誓いを破ることは天地の崩壊においても優る破滅に繋がる。なので忠実なカミローは今度は王国側の立場に商品としての変装を劇の台本のようにやり直すことで、見識高く心優しいパーディタを妻として紹介させるようにと提案するのである。



 この説明の何がおかしいのだろうか。それは喜劇に政治劇の要素を接ぎ木することはお守りのようなフェティッシュの保険としての価値しか持たないという構造的理由によっている。この劇の初めでリオンティーズのような性格の人物を笑いものにしたからには、フロリゼルを婚礼の悲劇の主人公として立たせることはお涙頂戴劇のような商業的理由を上乗せすることにしかならない。そこでカミローはオートリカスと利益を度外視した取引をすることで、この劇をお涙頂戴劇のという見せかけで観客に対して辻褄を合わせようとする。オートリカスとしては不正を手伝うのにうまい汁のおこぼれをタダでもらえるわけなので特に無碍にする理由はない。ここでの問題はそこにあるのではなく、この取引がカミローの欲望に応じた産出の食事になっているという変容の仕方に観客が付いてこれないという点にある。この状況を典型的に表現しているのがパーディタの父役をしていた羊飼いと道化の慌てぶりであり、彼らは依然として観客であった王の法令に恐れおののいている。彼らは王家の血統がイデオロギー的要素にあるのではなく、王である人物の血そのものにある物品としての価値だと錯覚しているので、もし自分たちが王達の義理兄弟になったら、自分たちの血も流通する通貨の価値のように高騰してしまうと考えてしまうのである。オートリカスはこの問題を利益の天秤にかけてもっと単純になる解決策を提示する。つまり仲介としての貴族の役割を見せかけに代理することで法令の脅迫の残虐な言葉を宮廷の礼儀作法の見せかけに対するおべっかの繰り返しとして変換してしまう。オートリカスはこの劇の根幹となる要素を主張する。つまり宮廷では自分たちが「何も知らない」ということを知っており、嘘が嘘をつくということは商人の身分でしかあり得ないということを知っているほどに嘘をつくことが巧みな「正直者の」役者集団がいるということを。



 我々はリオンティーズの「改悛」という劇をまじめに信じることができるのか。最初の対立はポーリーナのハーマイオニに対する忠実さと国家の血統イデオロギーの回復にまつわる子孫の問題である。この対立においては完全にポーリーナが勝利を収める。ハーマイオニはこの世に二つとない唯一性の象徴であり、女性的な特徴のすべてを引き換えにしても本来的な容貌や魅惑的な目に近づけることはできないと。それは変装した女性自身の「貞潔の」道徳的理由に関する亡霊性の論理からも正当化される。次の対立はフロリゼルとパーディタのカップルからもたらされる。リオンティーズが「理不尽な嫉妬から」台無しにしてしまった王子の将来をハーマイオニに生き映しなパーディタの兄のような親友の息子であるフロリゼルとの婚礼に重ね合わせることで、自分自身が失ったものを取り戻そうとする。「ひとたび」王の娘になったのなら、身分の違いは永久に解消されるだろう、と。この対立はシチリアの王であるポリクシニーズの使者である貴族の証言とカミローの裏切りによって道化と羊飼いの法令の恐れをパーディタ自身の出身の身分違いに重ねることで愛の誓いが失効する。ここで直接理由が触れられていないカミローの裏切りがなぜ生じたのかを考えることは意味がある。というのもそれはパーディタがハーマイオニの娘でないという証拠のなさからリオンティーズがパーディタに求婚をするためのポーリーナが課した制約をすべて満たすものだからだ。シェイクスピアが利用した『冬物語』の原作では、リオンティーズ側の王はここで彼女が実は自分の子だったということを知って恥のために自殺してしまう。したがって、シェイクスピアがどのように改作リメイクしたかがポーリーナがリオンティーズに「あなたの目は若すぎる」と言わせているのかが問題になる。



 シェイクスピアがここで使うテクニックは「これは実は本当の話だ」という種類の家庭の噂を紳士たちに広めさせることである。この話を聞こうとしているのがオートリカスであるということが何よりの証拠となる。「自然の」脅威に襲われた死骸の状況に対する目撃者の物的証拠を介在させた「真実の」ドラマの実体験を王達の自己(事故)偽装として賢明に話そうというのである。ここでもオートリカスは秘密を知っていながら利害関係と普段の自分の素行の悪さから口をつぐんでいる。一方で身分としては紳士になった道化と羊飼いの態度はどう変わったかということが、この話の伝聞に数えることの論理を接ぎ木させる信用性ということになる。さて彼らは次のように言う。例え飲んだくれのような連中が嘘をついているだけなのだとしても、彼らが改心した友達であるのならば、紳士の立場としては彼らは飲んだくれではなくあっぱれ武勇の士であると語っていることは嘘をついていないと証言するのが身分というものであると。その意味でオートリカスは正直者であり、あっぱれ武勇の士になるように努力することを期待すると。これが紳士の涙に誓って罪の許しであり、生まれながらの衣装であるのだと。



 リオンティーズとハーマイオニの像の対面は儀礼の返礼先としてポーリーナが主催する真実の改悛のドラマなのではないのか。結局、道化や羊飼いとオートリカスの会話は戯画としての裏面であって、表の芸術としての肖像は真実の価値に満たされていなければならないのだと。ハーマイオニのを嘆願するリオンティーズの苦しみはほんものであり、ポーリーナが言うような宗教的変容は見る者が参加することでしか体感することができない特殊な種類の感情的な権利を要求しなければならないはずだ。だがポーリーナが反対しつつも期待を促すように誘導することで露わになるハーマイオニの姿とはどんなものに観客には映っているのか。絵の具が付くことを恐れるキスのカットシーンと抱擁のショットを見せつけるために硬直した身体の動きから天井の声が動画のように動くことで、文字として書かれていた要素が視覚化した娘の姿の現実となった時の要素の原作に対する別々の種類の演出の対面ではないか。というのも声は死者となった後でも保存され、それが記録の中に再び読み込まれるのを待ち構えているだろうからだ。それなら身体の動きの温かさは?我々は温かい食事の映像をみて温かい気持ちにならないのだろうか。それなら当然生きている似姿の現前を再構成した身体の演出が感動を呼び起こさないはずがあろうか。つまり少年俳優が女性声優としての声をアニメーションの再現として持つのなら、それは女性が少年を演じているようにしか見えない。残っているのはカミローとポーリーナが夫婦になることで口裏合わせを完璧なものにすることだけだ。そうすれば年配の声を持つ男性が、若い女性の姿を持つ少年俳優の声優を愛することを観客といつでも共有できるのだから。

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