第11話

 シェイクスピア『冬物語』の問題①。


「まあ!では、私、二度もりっぱなことを言ったのね?いつかしら?おっしゃって。おほめのことばで私を満腹させて、食用にする家畜のように。立派な行為を一つほめないままで死なせることは、あとに続くりっぱな行為を何千も殺すこと。ほめことばが私たちには糧なのです」



 子が誕生することと商品としての資本が数えられることの間にはどのような愛情が存在するのか。むしろ無が空想のような夢と結びつき、不可能な事物に飛びつくことで許される限度を超えてまで愛欲の自由を謳歌して偽物の感情を差し出そうとしているのではないか。それは夫婦の絆を危険なものにするまでに数えることの空間を返礼不能にするのではないか。お互いの形式的な返礼よりも夢のような時間を長続きさせることの方が誕生するはずの子供よりも深い感動を姉として共有してしまうのではないか。つまるところ嫉妬という今ある根拠のない感情だけが自分自身の子供という現実を支えてくれるものなのではないのか。他に生きていたいと思える口実はないのだろうか。



 シェイクスピア劇の女性は声変りをする前の少年俳優によって演じられているというのはよく知られている。そこで次のような問いを考えてみよう。王妃に変装した少年俳優は本当は実際の女性に対する不義密通の欲望を抱いていないのだろうか、と。むしろ少年俳優が不義密通を疑われるということは観客である我々が彼らを女性として承認するための条件なのではないか。それともこういうべきだろうか。私はハーマイオニのような貞潔な女性が実は少年俳優が演じている変装に過ぎず、彼女がいかに自分の無実を訴えようとも、それは役としてのリオンティーズが理不尽な嫉妬をしているという演技に対してカミローのような召使の台詞を聞いて共感していることを確信しているに過ぎないと。そしてそのことに対して我々はこう語る。それは実にいい演技だったね、と。



 言葉の応酬と名誉の返礼交換の過剰を適切に数える方法がある、ということなのだろうか。それを明らかにするような神々の証明や誓いの言葉、物理的証拠のようなものの数々が存在すれば、劇の中の登場人物はそう思っている、ということを確信することができるはずだ。それとも少年俳優が演じている女性のの方が強いのだろうか。しかしそうであるのなら、なぜ兄のようなポリクシニーズとハーマイオニが隠れて会っていて、自分にはない経験を共有していると想像することが「真実」であってはならないのか。お客様の友人の方が劇中で夫を演じている人間よりも引き留める視線に対してはるかに深い絆で結ばれているのは当然のことではないのか。そんなことが罪になるなどということは思ってもみなかったし、宗教的な原罪のようなものを引き合いに出してまでわざわざ否定することがあろうか。それに対して「自分と似ている」子役の少年俳優が自分を親だと認めたところで、それがどんな慰めになるのか。まさか変装している少年俳優を「貞潔だ」などと本気で主張するつもりなのだろうか。子供のお遊びに決闘を持ち込むべきなのか。___どうやら自分は恥をかかせられる役回りにいるらしい。しかもそれは質の悪いことにを受けることによってなのだ。




 貞潔な王妃を信じる観客は毒殺を実行しない忠実な裏切り者である召使に任せるとして、自分の実際の子供はどうしているのだろうか。彼は女装している待女達にキスされたり抱き着いたりされていてかわいそうだ。しかしそれでもお腹を膨らませている同じ少年俳優の相手をするよりはましであるのでは。しかし子供にはどうしてお腹が膨れているのかわからない。なので寒い夜のようにお化けや妖精の怖い話をして観客に対して男としての立場が墓穴を掘らないように内緒にするべきではないか。だが観客たちもお腹が膨れたのは観客と女装したハーマイオニの視線の中だけであって、それがポリクシニーズという名前で父として与えられていると内緒話をしているのではないか。どのように考えても、劇中の妊婦の役でしかないことは明らかであり、その判断力を疑うのは正気を疑うのに等しいのではないのか。例え劇中の登場人物たちがそれらしい台詞をいくら読み上げようと、それが演出をする俳優である自分にわからないとでもいうのだろうか。誰がどう考えても、観客と登場人物たちがのだ。



 ポーリーナは言う。「なりふりかまわぬたいへんな騒ぎだこと、汚点しみでないものを汚点に見せかけるために」いや全くではないか。ところで生まれてきた赤ん坊はお姫さまなので当然成長したら少年俳優が演じることになる。確かにハーマイオニと同じように罪はない。罪があるのは女のように見せかける舌でありラッパ手であり不気味な沈黙だ。だから当然胎内が見世物にされた後は何もない空気のようなものであり、大自然の法として自由であるしかない。そうであるのにポーリーナはどこからか用意された借り物の赤ん坊を自分の子供として認知するように求めるのだろうか。どう考えても自分をたぶらかそうとしているのである。自分は商品としての演劇を売りに出そうと思っているだけなのに、どうしてこの赤ん坊を私生児扱いすると呪いを受け取ることになるのか。明らかに借り物の赤ん坊の妻に気を遣っているのだ。それなのに、この芝居は自分自身の姿に瓜二つだというのか。むしろこう言うべきではないか。こんなめちゃくちゃな芝居は炎上させるべきであり、荒野で野垂れ死にさせるべきであり、無慈悲にその作品自体の運命に任せるべきであると。そうでなければ裁判も辞さないと。


 

 ところがその裁判でハーマイオニ役の少年俳優は自分に対してをしていると証言するのだ。しかもカミローは俳優で台本にも嘘をついていると載っているのに彼のことを正直者だと証言するのである。どう考えても厚顔無恥である。お客のためのを考えて芝居をしているだけなのに、自分のことを夢として訴えるつもりなのか。ハーマイオニはもし自分の父がこの劇のではなくこの劇死刑にされていることを知っていたら復讐の目ではなく憐れみの目で見ていたはずだと語る。もっともなことである。哀れな俳優がふざけた真似をしているだから。だが神託もグルであった。しかも間が悪いことに少年俳優が演じている妃の身を案じるあまりに自分の実際の子供が死んだと報告が届いた。ハーマイオニ役の失神は見事だが、神々の名前を劇であっても疑うのは明らかに天罰の鉄槌を下されるのに値する行為だった。少し考えれば、このような芝居の方が自分のように嫉妬をもって疑いを持ち込むよりも名誉を持って賭ける方が売れる可能性が高いし、商品として輝いて見えたのではないだろうか。そうである以上どんな暴言を吐かれてもこの劇を続けて恥さらしとしての役回りを最後までやり通すしか責任を取る方法はない。実際に死んでしまった自分の子供のためにも、ハーマイオニ役の少年俳優の思いを無駄にしないためにも。



 商品の生みの親は想像上の母親を持っている。それは出生と共に死に別れ、その絆は市場に流されると永久に失われ、妻のように一緒にいることはできない。だからそれは父親の領地で母親の罪のせいで捨てられる孤児と同じであり、その運命は花の姫のように儚いものである。仮に悲しみの事情があろうとも、誓約に基づいて、商品の説明とその投資額のいくらかの準備金だけを名前と共において立ち去らなければならない。しかしそれは欲望の餌食になるまでの慈悲心の断末魔でしかない。ここからは犠牲者や搾取される人々の生活が問題であり、それらの人々の前では若気の至りで商品が作られた事情など関知することではないし、まばたきするほどの瞬間しか、そのことに興味を抱く義理はない。ここでは宛名と金銭の欲望は最短経路の近道を通っていくのであって、その商品が流されてきた欲望の喰い痕に素性の非道は隠しておかなければならない。そうでなければ幸運というものは観客の心の中から去ってしまうから。だから時代の目撃者である時の説明役コーラスは詩と共に成長の時間を期待の名の下に短縮する。ここからは観客の子供の欲望を王として考えなくてはならない。

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