第10話

 シェイクスピア『マクベス』の問題。


「騒ぎが終わって、戦いが敗けて勝って、その後で」



 あの血みどろの男は何者なのか。彼は反乱軍の動静をよく知っているのだろうか。マクベス劇の幕は次のような問いかけから始まる。反逆者を倒したマクベスという男は「心の正しさ」というものを手に入れたのか、という問いかけから。



 マクベス劇を批評する上で確実に考慮に入れなければならない問題が一つある。それはマクベスの恐怖心とは何か、ということである。私は単刀直入にこう答える。それはだと。


 なぜなのか。ごく単純にマクベスはオセローとは違い、傭兵ではなく国王に信頼される武人であり、実際に物語ではなく実力を示し、身の丈にあった妻もいて、嫉妬が起こる様な性的関係に悩まされているわけでもない。マクベスにはオセローのように自分を国に防衛の要請から傭兵としての実力をわざわざ売り込む必要もなければ、異国人のようにロマンチックな恋愛にうつつを抜かすような趣味もなく、館の主人としての饗応役を務められるほどに貴族や住人達からも信頼されていて、自国の兵士たちとの関係も悪くない。にもかかわらずバンクォーと共に魔女の預言を聞き、野心を搔き立てられるのである。


 マクベスの問題を子供の問題と考えるのはかなりいい線のように思える。マクベスは子供ができないから悩んでいるのだと。しかしマクベス劇の全体から言って子供の立場は王であったダンカンの息子のマグタフ以外は全員見捨てられるか死んでしまう。バンクォーの息子フリーアンスはこの劇の復讐の主人公であってもいいはずなのに、この劇ではマクベスが父であるバンクォーを殺した後を境に一切出てこなくなる。これはダンカンのもう一人の息子であるドヌルベインも似たようなものである。仮にマクベスの動機を子供ができないことの不安から、父のようなダンカンを殺し、玉座を奪い、その権威を手に入れること、だと考えてもマクベスの欲しいものは何も手に入らない。魔女が言いたいことはこのことだ。バンクォーは子供が玉座に着くことを国の安寧と考えられるがマクベスはそう考えることはできない。にもかかわらずマクベスはそれを満たすすべを王という地位に座ることでしか考えられない。ここにすべてがある。王国の座においてマクベスが欲しいものは国王になるマクベスが欲しいものではないということが。


 マクベス夫人の言い分では、マクベスはいつも名目を前面に出して、自分のことは義務でしか動こうとしないと言っている。だからといってマクベスに人間的な弱みや人情がないわけではなく、自分の舌で悪魔のように叱咤して動かさなければならないという。確かにマクベスはマクベス夫人のきっかけを使って行動の機会を手に入れる。しかしマクベス夫人は決して魔女のようにはマクベスの信念に訴えかけない。そして劇の終盤で見るようにマクベス夫人は決して悪魔のような人間ではない。私は次のように言いたくなる。マクベス夫人は確かに悪魔のように振舞いたいと思って、その行動をが、決して悪魔になることはできず、その嘘を表現するようになってしまう、と。


 問題の鍵となる要素はマクベスもマクベス夫人も幻を影だと思っていることである。これは当然のように聞こえる。しかし幻影をだと言ってしまうのはどういうことか。マクベスは演技ができないわけではない。ダンカンを殺しながら、自分の罪を他者に擦り付ける程度の変装は可能であり、その物的証拠を他人の手に渡すことが耐えられないというわけでもない。つまり事件の証拠と殺害の関係性を目撃者の証言と共に推測し、これから起こることを想像して対策を立てることはできるということだ。これはマクベスの武将としての有能さを示しているし、しきたりや礼儀の仮面をつけることが偽装に過ぎないということもわきまえている。だが、だからといってイメージの実在性が感覚から消えるわけではない。そしてマクベスが頼りにしているのは自分の肉体における男らしい勇気である。そこでマクベスはこう考える。イメージの実在性に先手を打ってそれを殺すことは可能であり、それは現実に対応する事件が他人によって実現されるまでに行動の準備を整えなければならないと。マクベスの想像力が恐怖心という実在性を拭い去るための行動性であるという根拠はここにある。


 オセローやハムレットが想像力の実在性の息の根を止めるために即座に殺人を起こすということは全く想像できない。オセローは自分の想像的な物語の実際性の欠如に気づかないためにそれをしなかったのだし、ハムレットはそもそもイメージの実在性が現実と対応するということ自体を信じていない。しかしマクベスにとってイメージは自分の思考の完全に外側にある制御(不)可能な対象である。それは触れて確かめたり、殺して存在しなくしたりするという条件連鎖と完全に一致するものでなければならない。そしてマクベスにとって想像力とは恐怖心から呼び出された悪いイメージを無限に反復するための肉体性の欠如でしかない。だからこそ、自分にはない「悪い女」のイメージでその表現の実在性を何度も確認しなければならない。ここから魔女の預言の二枚舌、正確に言えばが生じてくる。ついでに出てくるヘカテーは『夏の夜の夢』を彷彿とさせる表現で妖精の子分と儀式を行うのだが、マクベスを生死の謎でかどわかす役割は魔女達に奪われた、と言っているのである。つまりシェイクスピア的な自然の魔術ではなくマクベスの裏返された悪い自然の想像のイメージが劇では優越しているということである。だからこそ医者たちは自然の眠り以外の技で心の病を治すことに匙を投げるのである。


 王位の想像力をめぐる問題は心のつながりを試す利害関係の問題でもある。まずフォールスタッフを思い出させるような門番が利害と忠誠との関係を各人の肉体的表象に完全に相対化する。次に貴族や王の子息たちが感情的な演技の擬装から命の優先度を高く見積もり、国外に逃亡することで、位階秩序の安全性を運試しのようなものにしてしまう。武人であるマクベスからすれば、刺客たちと同じく命を奪われるかどうかは、戦場での実力と運の問題であり、その時の境遇や状況によって変動する利害でしか表象としての衣装の問題は存在しない。そうなると友と敵の実在性の関係は完全にイメージの印象でしか語られないことになる。その場合バンクォーの品位ある立ち振る舞いというものはマクベスが身に着けることができない要素である。マクベスは自分の想像的身体の表象が脅かされるのを察知する。一方でバンクォーの品位とは、位階秩序が安全に保たれている場合にのみ有用な効果を発揮するような徳であり、仮に野心があったとしても、それを適切に抑制し時間に任せて成就するような期待に想像をめぐらすことはマクベスの刺客に命を奪われることに連鎖する。そして貴族のマグタフや王の息子であるマルコムは徳としての忠誠心や道徳的な高潔さは必要な状況に応じて変動するような名目としての言葉だ、と言ってしまう。確かにマルコムは訂正可能性という演技の立場からそれをひっくり返す。そして状況の好転と共に、それはなかったことになるという。しかしマグタフと同じようにそれにはただ呆然とするしかない。そしてマグタフ自身も妻子をあえて見殺しにした、という立場が暗黙の裡に示される。彼女たちは時代の変動状況に取り残されて、妻の貞潔さが愚かさに、子供の無邪気さが皮肉に変わってしまう要素を切り捨てることで「暴君である」マクベスに復讐することを決心する。というのは神聖なる王位の立場からマクベスの首を取れば、悪業の数々が放免されるのだ、ということを了解しているからである。


 実際的にいえば、バーナムの森が自分に向かって襲い掛かってくるなどありえないことである。しかしイメージの問題として、そのようなレトリックを弄することはできるし、実際にそれを偽装しつつ、進軍することも可能である。マクベスがイメージが二重の底を持っていること、意味の連鎖は常に行動の結果に演技から先んじているわけではないということを妻の死とともに理解する。妻こそマクベスが心の在り方を手紙で報告し、それに反響する声で肉体を支えてきたものだったからだ。しかし心のつながりは断ち切られても武人としての肉体的な勇気だけはまだ残っている。マクベスにとっては肉体的な死や破滅は何でもない。しかし破滅のイメージには耐えられない。それだから盾持ちに対してマクベスは言うのだ。女から生まれてきた人間には自分は決して倒されないと。ブルータスのような徳はマクベスとは無縁であり、目の前に現れた敵はことごとくマクベスの餌食となる。それにもかかわらず、帝王切開で生まれてきたマグタフにはそれは通じない。論理的な証拠からいって女から生まれてこない男がいるはずがないのに、まさにその物証を約束という言葉で逆手に取られるのだ。こうして残されたものは運だけになった。そして盾を投げ棄てて、マクベスは最後の運試しをする。もうなにも運が残っていない、その時に。



 この劇の最後では戴冠式は裁判としての法廷の意味でしか語られない。それは敵である冷血漢どもを簒奪者として処刑するための見世物が演じられることだろう。マクベスと心のつながりがあるものは独りも残されてはならないのだ。だがシェイクスピアが次に書く劇である『アントニーとクレオパトラ』ではアントニーを愛する心以外のすべてを兵士たちは失い、アントニーはクレオパトラとともに世界の偉大なものの愛すらも失うことになる。それは法廷が先んじて政治の犠牲になることを避けるための自害で幕を閉じることになるだろう。そこには自然の慰めとなる盛大な魔術的雰囲気が残り香として漂う。だが自害ですら無意味であり、自然の魔術が現実と空想を織りなす大気の幻影に支配され、仮面舞踏会で没落が和解不可能なものののために徳を犠牲に捧げるような誕生に法廷を赴かせることで、洗礼という名の祝福を肉体の通貨のあとで与えるのなら、その時には離婚という野心の終りに至るまでに民衆の歓声を奥方とともに買うことができるのだろうか。

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