第8話

 シェイクスピアの物語創作。『冬物語』への準備。


 シェイクスピア劇において、どうして物語が必要なのか。私は基本的にはこう答える。犠牲の囮のためにそれが必要なのだと。これは『オセロー』に典型的に現れる説明だ。私が理解するオセロー像とはオセローが物語の主人公の役を演じているにデズデモーナを取られまいとするために寝取られ亭主の物語の語り手である「誠実な」イアーゴーに知識の助言を求め、デズデモーナもまた、「紳士である」イアーゴーにの政治=物語の配置を通して主人であるオセローの心の面目を教えてもらうという構図からイアーゴーの妻であるエミリアのイアーゴーに対する無知を学ぶことのを受容することに関する囮である。言い換えると、ハムレットやある意味ではマクベスもけっして引っかかることがないような誠実さに対する囮の理解しがたさがオセローの義のための殺人やデズデモーナの絞殺を要求することを物語の要素に還元=縮退することを求めるのだ。



 最初に問題をはっきりさせるために言うべきなのは、劇構造に組み込まれる物語の芸術的完成度の高さが重要ではないということだ。この条件の完璧な反例は『あらし』である(『アントニーとクレオパトラ』に関しては、『トロイラスとクレシダ』のように神話や政治に対する留保が必要だからである)。なぜならこの劇で問題になっているのは舞台の世界における約束の信頼の自由さが現実的な条件ではなく美的条件に置き換えられることで、現実の問題を隠蔽し、特定の人間の想像に合うように演出の素材を決定するということの法外さが、その劇の成功の喝采で償われて、復讐の感情の夢幻世界をかき消すことが個人の度し難さと折り合いをつける手段であるということだからだ。プロスペローが求めている結末___幸福で家柄の合った善良な男女の結婚のチェスゲーム___がキャリバンのような化け物に海の水夫達の脅威を抑えさえ、国の権威を奪った人々に神話的な幻影を見せてその供物である食事を妖精に奪わせることは、物語を劇構造に組み込んで犠牲を囮に払わせるための策略ではない。それは自分の恥を良く見せるための舞台化なのだ。したがって演じることの積極性が大切な条件である。この条件が満たされないのなら、俳優は自分の興味に舞台の物語を縮退させるだろうからである。



 

 俳優達に対して物語という「食事」を提供する劇とはどんなものなのか。我々はここでもマクベスの魔女達の反語のように反例から出発する必要がある。それは前回の『コリオレイナス』とちょうど対になるように構想された劇である『アテネのタイモン』のことである。詩人と画家が世の中の悪さに対する見せかけの追従をひけらかすことから始まるこの劇において、タイモンはコリオレイナスとは逆に公共の女神の奴隷として民衆に食わせるだけ食わさせ、自分自身を食い物にするほどに名誉を授かるという「概念」を神々に要求する。この劇のひどさはこの世で最も質の悪い俳優であるがタイモンの自己嫌悪のとして正確に応答を要求していることからも推察される。単刀直入に言うとタイモンは常に与える立場に立ちたがり、受け取ることを決してせず、疫病や呪詛や不幸や都市の破滅すらをも自分自身の教訓として受け取るのではなく、哲学者や犬やけだものの世界の他者の追従のために与えるのである。彼が自分自身のこととして応答するのは、常に与える立場にある主人に奉公する召使の追従を聞いた時であり、借金の証文のために召使が主人のためを思って忠告を与えた時では決してないということが、対等な立場で助け合うことの不可能性を存続させる。タイモンを対等な立場で認めようとする人物の一人である二人の情婦を連れたアテネの武将であるアルシバイアディーズは、タイモンに対する忘恩と、自分の部下である酔漢をあくまで法律に則って死刑にしようとする元老院の侮辱に対して実力行使に出、元老院が自分の体面に守らずに、を履行させるようになったことで初めて彼の進軍は止まる。そこにおいてタイモンは自殺しており、死後の墓碑銘においてすらも、他者に自分の不幸の思い出を追従させようとすることでこの劇は終わる。彼が都市にちなんだ名前ではなく都市のとして語られることはコリオレイナスとの違いをはっきりと示している。問題はコリオレイナスがタイモンよりも高潔であるということではなく、高潔という追従が暗黙の前提として食事に煮え湯のように飲まされてしまうかが問題なのだ。



 マクベスが魔女に追従の言葉を聞かされることに怯えるのは、それを信じたいのに信じられないからだということが追従という呪いの効き目を一層確実に保証してしまうからだということ。これはマクベスがどうしても自分自身として演技をすることができず、亡者や幻の影を自己偽装の演出にすぎないと断定することによって、その両義性に足を取られることを妃である妻に援助してもらうことである。マクベスはマクベス夫人の有名な武将にすぎないのか。しかし『マクベス』の劇はむしろ成功している。それはマクベスが「悪役」を影の舞台として演出することで亡者たる観客に幻への追従の両義性を自分自身の心臓として差し出そうとするからである。そのような亡霊がマクベスの世界には決して実在しないということによって彼の呪いは終わるが、我々に『マクベス』という劇の価値に対する追従は残り続ける。この追従はどんな誓約によれば解除されるのか。「奇跡」を信じることによってなのか。物語のどんでん返しが「ほんとう」であると思い込むことで説明されるのか。離婚の法廷で子供に言い聞かせるおとぎ話が近親相姦の錯覚ではなく、生まれ直しの商売として詐欺のように時間から言い伝えられることで、凍えた身体の骸を孕まされた嫉妬の生きがいとして魔法を犠牲に捧げる物語を芸術で証言することになるのか。『冬物語』のポーリーナが主張するようには私には決してわかっていないのである。

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