第6話

 シェイクスピアの『リア王』の問題。


(…)このことが示唆するのは、開幕早々に物事の調子が狂いだしてからこの場面まで、リアの主たる動機は点にあるということだ。この劇において強迫的な視覚的修辞が強調するのは、孤立すること、すなわち〔他者の〕目を避けようとする欲望である。この劇を読み解くうえで私がまず追求したいのは、この手がかりだ。【スタンリー・カヴェル『悲劇の構造』】


 一体何を認知されるのを避けるというのだろうか。恥が場違いであり、それが私生児のように地上にのさばり歩くということか。それとも生まれてきたことに対して余計な負債を帯びてこの世に放り出されてしまうことを丸裸されるまで気が付かないことか。カヴェルの主張の核心にあるのは末の娘であるコーディリアがリアの他の姉よりも黙っていて過少に愛を表現することが、リアの愛の本性についての取り違いを恥として思い出させ、リアが娘の気持ちを買収するという分割行為に対して憤激を起こすことで、その愛を回避するということである。これは認識論的な問題として扱われ、リアが愛を身代わりにすることで自然の怪物たちの想像力を呼び出して、除け者にされた人間の本性を明かすという宇宙的な狂乱や不安の種を社会から孤立した立場からまき散らし、それが私達の共感を得ないところで行われることで、誰にも非難されることのない経験を、リアの見当違いという妥当な意見から逸らすことにこの劇のドラマの真実があるのではなく、リアが私たち自身の中にいるというその視点から、登場人物の一般性を犠牲の身代わりの位置にしないように批評的な認識を行うべきであると。この意見は間違っているとは思われない。にもかかわらずこの説明はなぜこの劇が『リア王』であって『コーディリア』ではないのかを明らかにしているとはいいがたい(『リア王』をそのように読むことが可能であるかとは別にして)。いったいどこに問題があるのか。



 なぜリアは認知されるのを避けたいのか。恥ずかしいからだ。なぜ恥ずかしいのか。姿を見られることがだ。姿を見られることが恥ずかしいのか。自分が愚かしいということか。しかしリアはケントのような忠臣に批判されていても、全く恥じていないし、自分が狂気で戯言を言い荒野に吹き荒まれても恥ずかしいと思っているわけではない。世間並みの考え方からすれば二人の姉のようにリアは耄碌して愚かしい真似をしているのだから、それを控えてほしいということがなぜリアをそれほど激高させるのかわからない。リアは二人の姉に虚仮にされたことを恥ずかしいと思い、それに怒り狂う。しかしリアが一番初めに虚仮にされたと感じた娘はほかならぬコーディリアだったのではないか。ここでカヴェルが説明していることを考えるべきであると思われる。それはリアは財産で交換可能な程度の愛を公共的に表明することを求めており、コーディリアのような「本心からの」愛は拒絶しなければならないのだと。リアはそのような愛を返すことができず、そのせいで自らの精神を苛むのだと。しかしこの説明はなぜ物語終盤で二人の姉が追従を言っていることが明らかになった後もコーディリアの愛を拒絶するのかという点をうまく説明できない。リアは医者の説明によっても絶対に安静にしていなければならず、身体を自然に癒えるに任せておくべきなのだから、その口実からコーディリアの愛を型どおりに受け取ってもいいはずだ。だがリアはコーディリアの人物に世話されると解釈することで、娘から嬲り者にされるという状態を耐える。これが自己洞察だろうか。リアはコーディリアが死んだ後になって初めて彼女の死を悲しみ、それは世の中の出来事のせいで不運にも殺されたという説明によって嘆く。他の人々もリアの胸中を鑑みて、この重荷を背負っていかなければならず、リアにこれ以上苦しんでほしくないと考える。いいかえればリアはのだ。


 そろそろ私の言いたいことを言った方がいいように思われる。リアは自分が「王として」娘を愛したいのだと。だから娘が父を「世話する」とか、父を政治的な拷問から「救う」とか、献身的に自分を「愛する」とかいうことがにとってなのだということ。リアが嵐に付きまとわれていた時に起こったことは何だったろうか。父を思うコーディリアが付き添うフランス王が、自分の領地に入ってきたことだ。リアがこの世に絶望したと喚いたとき、言っていることは二人の娘は自分を王として扱ってはくれないのだという訴えだということを道化はとして表現している。グロスターやエドガーにとってはエドマンドという嫡子が手紙として無際限に増殖する。だから自然の対応物も鬼や灯となって無限大に発散する。リアの分割した財産の数え間違いが、下界の無慈悲さとなって返ってくるわけだ。フランス王は最初に言っていなかったか。コーディリアは富を失って豊かになり、棄てられることで貴くなり、除け者にされることで愛おしきものになったのだと。それは美しい水郷の公爵が何人こようとも値が付けられないと。にもかかわらずリアにとってコーディリアは自然界のすべてを前にしても恐ろしい人食いの怪物である。なぜならコーディリアはリアが姿王としてでは愛しているからだ。二人の姉はリアにとって完全に正しいことを言っている。つまりリアをからこそ、その富や権威を愛して自分のものにしたいと思っているからである。これこそ王以外のすべてであるエドマンドが代表していることだ。だから彼は貴族の血統に引け目を感じて自分の生まれにエドガーという身代わりを通して復讐するのだ。こう考えればエドガーは父であるグロスターに私生児がいるという事実を、としての自分を演じることで、哀れな父を介抱するという舞台を通して認知を回避するのだと言えよう。これこそ彼が乞食を演じて黙っていた理由ではないか?エドマンドはある意味でコーディリアと同じく愛だけを考えている。それが二人の姉の共食いを演じさせることになったとしても。だからコーディリアはエドマンドのの犠牲になる。しかしエドガーは憐れみを受けることを回避するために弟の言いなりになっている。自分よりもどん底にいる父を見た後になって初めて彼はとしての役割を自覚する。それは手紙を通して夫の座を奪われたアルバニーの招集に応じてのことだ。だがリアは王の自覚を取り戻すことは決してない。それは後継者を選ぶということに失敗したからだ、というより、後継者がを回避したからだ。権威と財産を投げ棄てても、自分が娘を愛する王だという振る舞いをやめようとしないからだ。一度も放棄したことのない自覚を取り戻すことがどうしてできようか。それはこの劇が『リア王』の劇であって、リアの劇では決してないという事実を余すことなく物語っている。

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