第5話
シェイクスピアの『ハムレット』の問題。
敬意をもって反駁されるべき主張を確認する。一つ目の論点はハムレットが自分の演技欲を満たしたいがために復讐という劇の構造を利用して世界の広大さや人生の意味(生か死か)について語り行動したいという物語創作と見ることであり、もうひとつの論点は、ハムレットが自分の想像力の過剰から行動と結果のすれ違いを起こし、それが彼の叔父に対する疑いを先に進めて復讐という正当化を持ち出すという説明である。この動機を否定するためにハムレットはホレイショーに自分の行動の理由を説明してくれと何度も頼むということ。そこでハムレットで核となる問題は何かからこれらの主張を反駁していこう。
ハムレットを語るうえで避けることができない問いはなんであろうか。それはハムレットが簒奪者であるか否か、ハムレットがクローディアスとは違う高貴な心を持っているかどうかだ。クローディアスが簒奪者であるかどうかということは、ある意味で劇の約束として内面的な自白として語られている。つまりクローディアスが悪役でハムレットに復讐されないためにあれこれの手管を弄してそれを誤魔化そうとすることに劇の主題がある、ということは間違いではない。しかしこの問題はクローディアスの味方であるボローニアスという「実際家」の父を持つ高貴なレイアーティーズの復讐にも当てはまるのではないか。なぜならレイアーティーズもまたハムレットに「実際に」父を殺され、しかも妹のオフィーリアを「実際に」狂気にされて、自殺かどうかもわからない「実際の」死に導いたのだから。それらをハムレットの狂言であり、芝居であるといって言い逃れができるだろうか。明らかにできない。つまり『ハムレット』を単に復讐劇であると考える場合、主人公はレイアーティーズであり、ハムレットは恋愛のための狂言回しをやっていて、クローディアスはそれに間接的に関わっている悪党という役回りを演じているということになる。だがそれでは明らかにハムレットが高貴であるか否かは復讐と何の関係もない。しかし復讐の悲劇とは高貴な人間が悪党の誤魔化しを暴き、それを正義の名の下に断罪することが、自分自身に対する破滅でもあるように事態を構成することなのではないか。しかしレイアーティーズは「実際には」クローディアスの言っていることがすべて事実であるという甘言に乗せられて、罠を仕掛け、それによってハムレットに復讐するのではなく、背を向けたハムレットに不意打ちを仕掛けた結果として殺され、単にクローディアスや妃と共に「実際に」毒によって破滅するということ。そこに悲劇的な要素は何もない。これで実際家でないハムレットの問題は明白になる。ハムレットは自分が高貴な心の持ち主であることを少なくとも劇的な構造においては否定しなければならないのだ。なぜならハムレットは高貴な心以外何も持っていないからである。ハムレットがホレイショーに対してだけは率直に語ったり、俳優たちに人間の模造品以下の社会的俳優に対して軽蔑的に語ったりしていることは、このことを示している。にもかかわらずハムレットに課されているのは父である王を殺した叔父に対して「王の血統(名)」において実際に復讐することであるということ。政治的に腐敗した牢獄である自国を解放して、高貴さの正義を体現しなければならないということ。これは気違い沙汰だ。
先王の亡霊はハムレットの創作なのだろうか。友人たちと共に語りをでっちあげて復讐の動機にするためにあえて悲劇の主人公を演じるための素材として毒を流す儀式を執り行っているのか。ハムレットにとってこのことの確証は母であり妃である王女の振る舞いによって決定される。というのもハムレットの疑いの原因をなすものは母の演技にあるからだ。母親が妃ではなく王女をクローディアスと共に演じていることこそハムレットが対話を拒否するための基底である。このことが典型的に現れるのは簒奪者の劇を見せられてクローディアスが動揺した後に母とハムレットが二人で(実際にはボローニアスもいるが)罪の糾弾とその弁明を行うシーンにおいてである。ハムレットは父の亡霊が見えるというが母には見えない。これをハムレットが「実際に」狂気と取るかが問題となるのだが、その「証明」がハムレットにボローニアスが殺されることによってであるということ。にもかかわらずハムレットは母に対して罪を真に悔いることと、罪を犯したのなら最後まで嘘をつき通せ、という二重の叱責を口にするのだから説明にならない。私がここに挿入する説明はこうである。ハムレットは俳優達に劇をやらせる前に過去にシーザー役を演じていたというボローニアスに対してこう言う。「死んでいる人間同様の、こんなのろまを殺すとは、ブルータス君、すこぶる残酷な男と見える」。私はこれと『ジュリアス・シーザー』でアントニーがブルータスを高潔で公正明大な士だ、と言って民衆を扇動したことを重ね合わせる。この問題はハムレットが過去の学友だった二人の友人を外交文書を偽造して他国の王に処刑させたことにも当てはまる。ハムレットは「実際家」ではないのではなかったのか。しかしハムレットは馬鹿ではないし阿保でもない。ハムレットを「実際に」殺そうとしていたクローディアスに加担していた人々を殺すことがハムレットを苦しませるわけではない。しかしオフィーリアに対してはそうではないということがハムレットを悲劇の主人公にしてしまうのである。
ハムレットがボローニアスや学友やクローディアスに対して取る態度は完全な皮肉であり、全くと言っていいほどの弾劾であるのに対して、オフィーリアに対してはハムレットは高貴な心を決して見せないという態度を取る。むしろ自分は陽気でスケベで野心満々であり、どんな罪も侵しかねない悪人だから、尼寺に行けと言うのである。この態度をハムレットがオフィーリアを気遣って、心にもないことを言って、政治の腐敗から身を守るように伝えるための配慮と取ることができるだろうか。ところがオフィーリアは「実際家」の父に散々男は女性の貞潔を奪うためにありとあらゆることを誓約しうわべを偽るのだ、と注意していたのではなかったか。もしハムレットがオフィーリアに対して身を守れと嘘をついているのだとしたらオフィーリアがそれに気づかないのは彼女が馬鹿であるか父の言いつけに縛られているかのどちらかであるということになるだろう。しかしオフィーリアはそのどちらでもない。にもかかわらずハムレットは復讐をしなければならない。「したがって」ハムレットは「狂って」いなければならないのだ。オフィーリアはそれを無意識であるが完全に理解した。なのでオフィーリアは自分が近づいたせいでハムレットが愛想をつかしたと見なして完全に狂ってしまった。オフィーリアが溺れ死ぬのはクローディアスと兄がハムレットを殺す算段を立てる時であり、ハムレットが自らの狂気を叔父や母に対して本当のものにするのもオフィーリアが死んだと聞かされた時である。国家の婚礼の誓約が教会の葬式の代替わりに変わってしまう。ここでもハムレットは自分の言った皮肉を確証しているように見える。「倹約だ、ホレイショー。諸事御倹約、葬式の温かい焼肉が、冷めればすぐそのまま婚礼の冷肉に役立つというわけさ。あんな不愉快な思いをするくらいなら、天国で敵にめぐりあったほうが、まだしもだ。そうではないか、ホレイショー___父がそれを知ったら、ああ、お顔が目に見えるようだ。」ハムレットがクローディアスの読み通り鷹揚にレイアーティーズとの決闘をホレイショーが制止するにもかかわらず引き受けるのは、ハムレットがレイアーティーズに引け目を感じているからではなく、伊達男に騙されているからでもなく高貴さの問題としてそれを果たさなければならないからだ。それがハムレットを復讐という宿命に駆り立てる亡霊だとも知らずに。彼はそれを神の摂理だと「信じる」。父の亡霊を信じたように。
ハムレットはノルウェーの王子フォーティンブラスに先代の王である父と同じく武人として葬られる。おそらく、それだけが高貴であることの保証として語られるものであり、もしそれが家庭の政治劇であるのなら見苦しいものになるからである。しかしハムレットが高貴であることを示すのに民衆の支持とホレイショーの言葉で足りのだろうか。『ハムレット』が『復讐劇』であるのなら足りるだろう。しかしそうでないなら___
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