第4話

 思惟を試行するとはいかなる思考なのか。日常言語の哲学と生活世界の頽落という存在者の問題はどのように関りを持つのか。


 ①存在が世界に事実の一種として思惟するということが疑われる思考として表現されうる。

 ②思惟がとして表明されるためには懐疑による判断の属性を明晰にしなければならない。


 比較せよ

 ①A:「(あいつは馬鹿だ)」

  B:「(あいつは私のことを馬鹿だと思っていることを私は知っている)」


 ②A:「あなたのその発言は私には馬鹿にしているように聞こえる」

  B:「それはあなたの気のせいだ」


 ①を見てみよう。Aの主張は、それがBに言われていることを前提にするならば、Bが馬鹿ではないという世界存在の否定として機能しうる。しかし実際にはAはBが馬鹿であるような世界の存在者としての立場からその判断を事実性の一種として肯定しているにすぎない。つまり対応関係が問題なのではなく、それを存在の表現として内面的であれ「自由に」「好きに」意図の可能性を提出することに眼目がある。しかし、それは社会的な意図の相互性としては否定的に作用するから、それは制限されているのだということの不満を説明するという意味で、意図に対して寛容で肯定的であるということが他者の消去に繋がりうる。この場合、を表明することが「社会的に見て」馬鹿であるかもしれないということは考慮されないが、それが単に判断として間違っている=否定的である可能性は。それは「実は」Bは馬鹿ではなかった、という意味ではなくて、Bを馬鹿と判断することは存在者の判断として大したことではないということになるだろう。しかしBが「馬鹿であること」を主張するのはそれとは全く異なる。それが「思惟として」客観的であるのは、ここに書かれた文章のABの発言の確からしさが原本のように「客観的である」という意味で「正確である」にすぎない。(デジタル劇文学の技術措定)


 ②を見てみよう。Aの意図はBに対して挑発の意図が込められていたということを前提にするならば、その意図に限っては肯定的であることがありうる。しかしBが言いたいことはそれを単に誤魔化しているだけなのか、それとも単に挑発の意図が根本的ではないのか、この文を見るだけでは判断ができない。一方でこの文がAがBによって世界存在の肯定性を傷つけられた、という意味なら直観のカテゴリーとして完全に肯定的である。それは事実関係の対応が全く問題ではないから。(だからそれは嫉妬として再解釈される。)この場合のBの発言はAの内面の思惟を否定しているのだろうか。むしろBはAの思惟が疑わしいのではなく、判断としての懐疑を明晰にしていないということを思考として要請していると言えないだろうか。この場合、BがAに対して十分によく説明のための材料を与えていないということはありうるし、BがAの内面的な思惟に対して無関心である場合もありうるが、それが思考の判断の明晰さに対する懐疑の障害になるわけではないということが重要であって、信頼性の判断の根拠が十分ではないという意味での継続性が問題なわけではない。もし継続性が問題なら、世界存在の一種として社会内の相互性に対して寛容でありうるということが抑圧というであって、意図に対する正当化ではないという罰則の問題になってしまう。もしAが罰則の手段を持っていて、Bがそれを受ける当事者であるならば、Aの挑発の意図の感覚を否認する十分な理由があることになり、それはAのBに対する思惟の判断の正確さとは完全に思考と無関係である。(インターネットの読唇術)



 芸術表現の世界性に対する日常性の障害と、生活世界の科学的限界が有する超越性が疑似餌としての神話性を構成することは単に判断の思惟が個別的に独自な生として存在しているという内面の自由の問題であるとは思われない。例えば芸術表現の悲劇性を日常生活の障害を克服するための手段として、神話の思惟を素材として用いることが世界存在の肯定性として時代の社会的な約束事の否定性に誓約の準備として対置するのがとの非難を免れないのに対して、生活世界の持つ科学性を哲学の日常会話に翻訳=変換しても生(性)に対して大した超越になるとは思えないからである(これは私の思惟の内面性)。単に物理的に性に近づかないようになるとか、神話としての(オペラとしての)大袈裟な表現には耳を貸さないとか、そういう種類の処世術になる。こういう種類の処世術は、財産のように必要なものだが、しかし政治的なプロパガンダを大げさな表現に耳を貸さないようにすれば、その影響力から逃れられる、という判断は、単に自分の思惟はその現前性と関りを持たないという意味であって、自由の有する積極的な価値を明晰な思考として行使するという意味で、そのプロパガンダの世界存在から財産の形式を離脱しているわけではない。なぜならプロパガンダとは世界存在を社会的な種として思惟の在り様を「自由に」肯定することを通じて敵を産出する社会的抑圧の判断を思考としてではなくとして正当化するものだからである。もし個別的な生存がそれ自体としての思惟の財産性を個別的な世界の自由に対置することで、その納出と行動の広さを確保するだけならば金融的な操作が持つ上がり下がりを社会的な公共判断の客観性として名指すことで、そのを構成することができ、その日常的な悲劇性の表現だけを物価として家庭的に享受するという形式が国家神話の継続性だといっても直観のカテゴリーとは矛盾しない。それゆえ、芸術表現の悲劇性とは、社会的な種の生存の継続的な約束の信頼を個別的な思考の破滅を通じて生活世界の懐疑を構築していく創造的な方法が日常的な性の障害を克服する手段でもあるという喜劇性として誓約を模索するものであると判断することができる。そのような判断の明晰さだけが財産の相続を子供を道具にしない証人として、その神話と生活の存在の分割の正統性を承認するだろう。

 

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