第2話

 芸術的な生の様式の二極化が政治を宗教的ドグマ主義と金銭的所有関係の党派的敵意に分裂し、権力のを衰弱させることで性的なアクセントとしての愛すらも失ってしまうこと。ということは生の様式化としての性別化は「フェミニズム」であり、受動的対象への耽溺だ、ということになる。

 

 症候としての女性は男性の創作物であるという猥褻さとどのように折り合うのか。ここで自然的身体としての女性性は男性性より圧倒的に優位に措かれるという矛盾が全面化してくる。それゆえ宗教的な関係の恋愛は貞潔と官能の神話的な自由とは別にそれ自体としてということが、死んだ父の宗教的道徳の母性に対して提出されることになる。誕生の二重の起源。


 これを所有の地所性と独占的な愛のエゴイズムというようなドラマ的なプロットの展開に当てはめるべきではない。そうするとそれは憎み合う国民的な文化運動の芸術と同一視され民族的な基体の集団的退廃が生の様式に取って代わる。それゆえデカダンスはますます寛大にますます理知的にますます手段としての衰亡の広がりを見せるようになる。金融的なコードの自由化が仮象と実存の関係を偽造すること。それは反知性主義の温床であるかのように見せかけながら理性の無能力を徹底的に政治的敵対関係にすり替えることで教養を工作する。


 芸術的な美の完成と生の文化様式の調和が技巧的な巧妙さで極限まで遂行されると生の内実は仮面となりその雰囲気を情報としてとにかく流通させるというせわしなさに終始してしまうようになること。腐敗の完全さは生の意欲からの逃亡をもたらすためにそれだけ芸術的な感度の鋭さを意識の本体にしてしまう。したがって美の所有欲求が永遠という実在を生きることが家族関係に投影されることに家畜化が存在するのではなく、流通する商品の美のイデアそのものに生を甘美に飼いならし労働の享楽に誘惑する引き延ばされた時間に対する空白が個性の錯覚として効果的に埋め合わされる隠喩の痴呆を促進するというヒステリー化が問題となる。


 したがってこのことをキリスト教の宗教性に対する反論だ、と考えるのは留保が必要である。キリスト教の文化-政治的レトリックが自らの生を宗教的な様式だと表現する人格化そのものに曖昧な二重化があるということが核心であり、それはキリスト教の実践がニヒリズムである、ということではなく文化様式として考えられたキリスト教の政治的自己表現は、ということが告発されていることだからである。


 政治的に飼いならされた文化様式としてのキリスト教道徳に対する敵対を異教的に行うことができないということが声楽的な個別化の多様性を民主主義的に規定する表現の自由の人格的個性との混同をもたらす。それは宗教的なものを芸術的な生の表現としてレトリックに解釈=演出してしまう。ここで題材の内容がどのように表現されるかが鍵ではなく、近代の生の様式的統一は劇場的な舞台としての俳優性を性格として前面に押し出すことによってしか美学的な反映が行われないという必然性が生を硬直化するということに本質がある。だからこそ、その硬直化は技術的な進歩の工業化と歩を同じくすることで生活内容の充実をもたらすように動機づけるが、その発展の方向性は近代以前の抑圧された文化様式と変わりがなく、その演出の表面が過剰に強調されても、土台となった性格的な欠陥が露呈してくる。これが評価の平等=倒錯の転倒的な人格承認につながる。思考における律令主義。


 ニーチェの思考のタイプが親犯罪的なのは、西洋的な近代国家が生に対して干渉する口実を人権道徳の宗教的レトリックに委託しているからだということ。だからこそ、ナチでもとりわけそうであったように国家的な法律体系全体が法律的な普遍性の必要性にも関わらず全面的に敵対すべき容貌になる。アーレントのこの指摘を現代の平和主義者たちは警察機構の平和への信頼とファシズムは法律と民主主義への敵対である、という権力への批判的な対立性の言説で封殺した。ここから中国やロシアの様な国の集団的犯罪が取りざたされるが、ここで問題なのはむしろ集団的に土地面積を利用し国家的な権威を人民に響き渡らせなければならない大国の政治制度であるというよりは、狭い面積で階級的な敵対関係が文化政治的な宗教的レトリックにメディアとして置き換えられているような島国性の志向が自然的な崩壊を権力として全面的に制圧するという機械化の理性の投影として故郷の共同性に密輸入される、という構造的な把握の仕方が問題となる。平和憲法と核攻撃の理念性はこうした敵対関係の根本にあり、だから中国やロシアのとる態度が現実的に妥当であればあるほど、狭い面積を文化理念で制圧しなければならない国はメディア的な思考統制から大陸的な理解配置の誤解を全面化しなければならなくなる。


 美学的な様式の統一がインターネットのニヒリズムに対抗するためには国家的な生の様式の集団化が十分に科学的な基盤として信頼に値するものであることが必要である。インターネットに対抗して国家が美学的様式の配置を国民に要求してしまうような類型的擁護は完全にファシズム的なため、大量性と伝達可能性の高速化はいかなる生の様式の美的統一も人格として許容しないという種類の非寛容を我慢できるようにするための性的表現という隠蔽で認識化される。このことが法律的な犯罪への干渉を病気として絶えず要求することは明らかであり、認識の規定が普遍性として人格的に尊重されればされるほど、道徳的な要求内容の拘束は割に合わない障害となる。これは宗教的禁欲と全く別の問題なので、メディア的な要求としては常に消費を擁護するという享楽の禁止となる。美学的な様式の統一が危機のモメントを欠くが故の完成が作品としての人格に閉じ込められることによって、自然的な環境の解放が過剰に生理的になる。だからこそ放射能汚染は解放の二重のモーメントに対する逸脱として排除されなければならない。というのも放射能汚染の管理の形態が道徳的な普遍性の実践形態と偶然一致するがゆえに、本来科学的な要請であるはずの原子力の集団管理の権力に対してすら、それを道徳的な生の技術化の享楽性だ、というような反転として主観的に享受されるからである。津波による崩壊と地震による崩壊の人工性が決して風景の歴史性に還元されることがなくなること。濃縮は金融的な循環的増殖のアナロジーとして交換される。


 国民は自らの神に癒されても戻ってこないが、外国人は神の下に戻ってくる。こうした救いの体験はその存在の有無を各人の祝福の応答に措定する。こう考えれば「汝の隣人を汝自身のように愛せ」という要求は、国民的な生の様式の統一とは釣り合わないということがわかる。同胞愛は隣人愛から最も遠い位置にある。しかしだからこそ宗教的レトリックが国民的な「隣人愛」を訴えるときには、生の様式は「同胞愛」のように表現され、友情の基幹が類型の個別化に関わらず遂行されることになる。これはが民族様式の独立を阻んでいるときにも言える。金融的に偽造された生存が壺の中の宇宙であるような美的感性の認識的統一に一切の歴史性を負うており、その内部の葬儀が暗殺劇の代価として政治的な仮面を戦争の普遍的な代価として国民の供犠からその共同体の犠牲を獲得するとき、宗教的レトリックの論証はその批判の在り方に跳ね返り、その身分に照らされた人権の剥奪的な要求の最後の衣服を喪失し、民族の様式が「日常風景」の圧政下にある建築には宇宙の形成がその暗闇の重心の崩壊にさらされながらも、絶対的にその回帰を宇宙の法則の能動性として、形骸化した星の様式を「絶滅」させる責任を負うからだ。問題はその時、人類が創造の召喚に応じて壊変された生の様式を新たに生み出すのか、それとも自虐的な快楽の終焉を汚染された自分達の後悔と共に繰り返すのか、ということだ。

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