第20話 開戦前

 スレイン法国内を転戦し、蹂躙したエンリ・エモット率いるゴブリン軍団は、数ヶ月に渡る遠征の後、首都エモットに帰還した。

 一箇所にほとんど止まることなく移動し続けて、ついに法国の主力兵士たちとまみえることなく、いくつもの街を廃墟に変えた。


 救出したエルフは、実際には5000人にも及んだが、エルフの森で脱出すらできずにいる多くのエルフたちから見れば、ごく少数に過ぎないのだという。

 ゴブリン軍団の強行軍を許したのは、ひとえに精強なゴブリンたちの体力があってこそである。


 エンリ自身は疲労しなかったので、強行軍だとは感じてすらいなかった。

 スレイン法国の地理はゴブリン軍師たちが入念に調べてあったが、あえてエンリが行きたい方角に任され、結果として不規則で予想がつかない行進を繰り返し、法国側はまともに対応できないまま、実に7つの都市を瓦礫の山とされた。


 しかし、人間に対する被害は驚くほど少なかった。

 抵抗する兵士たちは殺された。あまつさえゴブリンたちの食料として持ち去られたが、必要以上の殺害をエンリが禁じたこともあり、兵士以外の被害はほとんどが建物のみに終止し、食料も財宝にも手をつけず、ただエルフたちを奪って次の街に移動していた。


 そのあまりに特異な行動に、いつしか覇王エンリは人間でも亜人でもない、巨大な化け物だと噂されるようになっていた。

 そんな噂をされているとは知らず、エンリは首都エモットに戻り、絶句した。


「ごめん、陛下。ンフィーレアが……行方不明なんだ」


 レンジャーのブリタが息を切らせて報告し、エンリは大勢のゴブリンの前だからと、気丈に報告を求めた。


「話は、後で聞きます。今は……ゴブリンさんたちを労ってあげなきゃ」

「えっ……うん。わかった。エンリ、すっかり国王だね」

「やめて」


 感心するブリタに視線を投げると、ただの視線に、歴戦のレンジャーであるブリタが凍えるように青ざめた。

大げさだと思いながら、エンリは取り囲むゴブリンたちを労っていく。


 ※


 長い遠征だったが、その割に成果は少ない。

 あえて、成果を求めない戦いをしてきたからだ。

 だが、その結果は悪くはない。


 5000人を超えるエルフたちがゴブリン王国に合流し、亜人たちのあまりの数に圧倒されながらも、自分たちが生きる場所を見つけた、喜びに満ちた表情を見せている。

 たとえ耳が切られようと、エルフの特徴であるすらりとした肢体は、エンリにも羨ましかった。


 ゴブリンたちから解放され、エンリは玉座として置かれたしっかりとした木の椅子がある、大きな小屋の奥の部屋に入った。

 背後には、先ほど報告したブリタとゴブリン軍師、ゴブリン先任隊長ジュゲムが従っている。


「ゴブリン軍師さん。戦争の結果について話したいのはわかっているけど……先にブリタさんの話を聞いてもいい?」

「ほっほっほっ。私に断る必要はありません。陛下のご心痛をわからぬほど、ゴブリンは鈍くありませんので」

「ありがとう。ブリタさん……詳しく教えて」


 エンリが言うと、ブリタは頷いた。エルフたちとは対照的に、迫力ある胸が前に突き出している。

 ブリタの話によると、ンフィーレアはエンリが戦争に出かけてから、しばらくは薬師の研究に専念するために専用の小屋にこもっていたそうである。


 エンリの妹のネムも一緒だったが、ほとんど睡眠をとらないで研究を続けるンフィーレアについていけず、数日後には疲労して自室で寝ているネムの姿がよく見かけられたという。


 そこまでは、エンリがよく知るンフィーレアだ。この街に移住してから、エンリに合わせてくれていたと思うが、本当は研究に集中したかったのかもしれない。

 自分のことで精一杯で、ンフィーレアのことを考えていなかったのだろうかと、エンリは後悔した。

 ブリタは続ける。


 ネモがンフィーレアについていけなくなった頃、時々ンフィーレアは外に出て、牢の様子を見に行くことがあったようだ。

 牢には現在でも、多数のギガントバジリスクを召喚して王都エモットを襲撃した犯罪人クアイエッセが囚われている。

 他に罪人はおらず、ンフィーレアが会いに行ったとするなら、相手はそのクアイエッセだろう。


 ※


 エンリは玉座として定められた木製の椅子に腰掛けた。

 何も考えられなかった。

 ここ数ヶ月の遠征が、嘘のように頭の中から抜け出ていった。

 ンフィーレアが待っている。そう思ったからこそ、頑張ってこられたのだ。エンリは、拳を肘掛に叩きつけた。


「ゴブリン軍師さん」

「はっ」


 いつもの笑みは鳴りを潜め、ゴブリン軍師も神妙な顔でエンリの言葉を待つ。


「私はきっと、王にはふさわしくないわ。こんなこと、言っちゃいけないのはわかっている。でも……ンフィーレアを奪還して。できるだけ、無事に」

「陛下、我々が、血も涙もない王を頂きたいと思っているとは思いませんように。エンリ陛下の優しさが紛い物ではないことを皆が知っております。レッドキャップスの半分を捜索にあてましょう」


「半分より、多くを……」

「承知しました。では7人を向かわせます」


 レッドキャップスの数は13人だ。エンリは半分以上を要求した。7人であれば、計算は合う。ゴブリン軍師としては、ぎりぎりの譲歩だろう。エンリはそれ以上、求められないことを理解した。


「でも……ンフィーが行ったのは、法国かもしれない。人間の街よ。ゴブリンさんたちだけでは目立つわ」

「私も行くよ。心配ない。冒険者時代の仲間たちも協力してくれる。それに、行き先は人間の街だろう。ンフィーレアを発見するまでは危険はないよ。それに、冒険者時代は買うのに必死だった治癒のポーションを、ここじゃ支給してくれる。大丈夫さ」


 ブリタが豊かな胸の真ん中を叩いた。迫力ある胸が揺れる。普段は劣等感を覚えるエンリだが、今はそんなことを思う余裕もなかった。


「……ブリタさん、無茶はしないで」


 止めることもできない。危険なのは承知の上で、エンリは止めなかった。


「ほっほっほっ。私はてっきり、陛下が自ら行くと言い出すのではないかと、ヒヤヒヤしておりました。陛下は立派に国王でおられますよ」

「嬉しくないわ」


 エンリは口の中だけで呟いた。エンリが自らの立場を否定するのを聞くと、ゴブリンたちが悲しそうにするのが嫌だった。

 ブリタは一礼して退出する。


 エンリの座る玉座の前に、テーブルが用意される。ゴブリン軍師がその上に地図を広げた。もちろん、ンフィーレア捜索のためではない。戦況の確認だ。

 ンフィーレアのことは、レッドキャップスとブリタたちに任せるしかない。


 ゴブリン軍師の中では、すでに終わったことなのだ。

 その切り替えの早さに感心しながらも、エンリは広げられた地図に視線を落とした。


 ※


 広げられた地図上に、ゴブリン軍師が印をつけて行く。


「陛下が今回の遠征で落とした街は7つ……その間にもいくつもの拠点がありましたが、全て素通りいたしました。落とした街も、街の破壊とエルフの救出に全力を集中させましたので、人間の死者は千人にも満たないでしょう。当然、初戦で壊滅させた民兵は別ですが。戦いに参加していない民間人の犠牲は100にも及ばないはずです。こちらの被害もなく、大勝利と言って良いでしょう」


「少数でも、殺したことに代わりはないわ。戦争は始まってしまった。もう、引き返せないわね」

「ほっほっほっ。あちらが民兵を放置した段階で、引き返せなかったと思いますが……陛下の目的がエルフの解放にあることは、法国側も承知しているでしょう。ただし、それを高く評価するような国ではございません。今後は、エルフを人質に交渉を迫ってくることも考えられます。いえ……エルフを囮に、罠をしかけようとするかもしれません。あるいは、法国の総力を挙げて攻めてくるか……」


「法国の総力って、どんな人たちなの?」

「王国の兵士の主力は徴発された民兵、帝国は職業戦士です。それに比べて、法国は神殿騎士……六大神に使える神官たちが戦士となって戦います。その士気は王国の比ではなく、個々の能力は帝国をも大きく凌駕します。一つ柱の神殿勢力につき、一万の戦士を有していると考えていいでしょう。総力にして六万……個々の能力はゴブリン軍団の主力を超えることはないでしょうが、数的な不利は否めません」


 すでに戦争は始まっている。

 それを自覚していないほど、エンリも楽天的ではなかった。

 エルフを救出するための遠征はうまくいった。だが、法国の主力戦士たちと戦うとなれば、話は別だ。


「……アインズ様は、わたしに何を期待しているんだろう」

「ほっほっほっ。陛下はすでに一国の主人、魔導国とはいえ、他国の王の心中を気にしすぎるのはお勧めしませんが……やはり気になるようでしたら、それから考えるのもいいかもしれません」


「うん。でも……考えてもわからないわ」

「ほっほっほっ。投げだしましたな」

「ゴブリン軍師さんはわかるの?」

「……さあ。陛下にわからないことが、私にわかるとも思えませんが」


 ゴブリン軍師は朗らかに笑うが、エンリは絶対に軍師はわかっているのだと感じた。

 ただ、エンリに教えないということであれば、現在はまだ知らなくていいことなのだろう。

 疲れたが、ンフィーレアもいない。エンリは椅子から立ち上がった。


「少し……休むわ」

「承知いたしました」


 ゴブリン軍師が優雅に腰を折る。


 エンリはネモを呼ぶ。いつものように駆け寄ってきたネモを抱きしめ、妹を連れてベッドに潜りこんだ。

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