第4話『リビング』

 崎谷が企画したグループカウンセリングは、好評だった。ナナイチ事件の余波を食らっているクライアントが第三者からの攻撃の可能性を自覚し、精神的な身構えができたのと同時に、完全に匿名からの誹謗中傷を受けていたクライアントは、どのようなケースでも味方を増やすことは精神的な余裕に繋がることを知った。

 少し話しただけで解決する問題ではない。たとえ情報開示請求や裁判に持ち込めたとしても、そこからさらに精神的な負荷がかかる。グループに参加したクライアントは、新規の人も含めて、多くの人が継続的に通うことになる。SNSでの問題のカウンセリングを行う、という評判も付いた。新規顧客の開拓を崎谷は果たしたのだ。


 成功を収めたグループカウンセリングから一ヶ月ほどが経ち、飲み会が開かれた。


 特に名目も無い飲み会だったが、実質的には慰労会だとは、誰が言わずとも分かっていた。

 早々に崎谷は話題の中心になっていた。口々に褒められては、言葉の一つ一つに照れて、酒を飲んでもいないのに顔を赤くする。そのうち、称賛の声にはからかいや軽口が混じり始める。無礼講というやつで、雰囲気が砕けたところで、珍しく崎谷が酒を口にした。飲み会はそれで大盛り上がりだった。

 真鍋も、途中から酒を口にした。雰囲気に飲まれたところもあったが、単にそういう気分になっていた。酒を飲んでいれば、少しは崎谷を気にせずとも済むかもしれない。そんなことをぼんやりする頭で考えていた。


(……嫉妬……か)


 喉を酒で焼かれながら、いやに冷静な思考で真鍋は思う。崎谷の周りには数人の同僚がいて、酒だのつまみだのを勧めている。流石にもう飲めない、と崎谷は断っているがそれで雰囲気が悪くなることも無い。女性職員も、何人かがあからさまなアプローチを取っている。

「大人気だな」

 真鍋はつぶやく。誰も聞いていなかった。真鍋の周りには人がいなかった。ただ、この瞬間にたまたま人がいないだけで、先ほどは上司と言葉を交わしていた。自分が孤独だと真鍋は思っていなかった。しかしそれでも、崎谷に嫉妬している自分がいる。その自覚は、この一ヶ月で日に日に強くなっていった。

 思えば、前々から嫉妬はあったのかもしれない。

 大学時代から崎谷は秀才だった。成績が良い、というだけではない。勉強の成績そのものは真鍋と同程度だ。ただ、崎谷は要領が良く、人づきあいが上手かった。おべっかが上手いとかそういうわけではなく、単純に人から好かれる才能があった。

 自分とは違う、とその時から真鍋は思っていた。

 ――別に自分が嫌われているわけではない。ただ、好かれるというわけでもない。人づきあいで何か才能があるとすれば、それは人から嫌われないようにする才能だった。崎谷の才能がプラスの方向性のものなら、自分の才能は、ゼロにする才能だった。プラスにもマイナスにもならない。そんな才能だ。

 人と適度な距離が保てるといえば聞こえがいいが、悪く言えば、それは人と親密になれないとも言えた。

 それについて、羨ましいとは思っていなかった。そのはずだった。

 ただ、崎谷を見ていると、人に囲まれて笑う姿を見ていると、酷く苛立つ。自分が放り出されたような、惨めな気持ちになる。

 そんな感情に気づかないでいられるほど、真鍋は鈍感では無かった。そもそも人間の感情に鈍感だったら、カウンセラーなどやっていない。

「あれ、真鍋さん。もう飲まないんですか?」

 酒からお冷に飲み物を変えたところを、近くの女性職員が見つけて声をかけてきた。

「弱いんだ。もう酔いが回った」

「へー、そうなんですか! 私もお酒弱くって……こういう席だと困りますよね」

 真鍋は横目で彼女を見た。受付事務を担当している、遠野という社員だ。新入社員で、まだ学生気分がどこか抜けきらない顔だちをしていた。頬のチークが目に付く。酒が入ったようにほんのり朱が差しているように見える――が、喉元は大して色も変わっていない。酒が弱いのは嘘だろう。何度か姿を見ていたが、ビールをジョッキで一杯干して平気な人間は、酒に弱いと真鍋はカウントしていなかった。

「私、友達とかだいたいお酒強い人が多くって。同じペースで飲める人がいないんですよ」

「そうなのか、大変だな」

「真鍋さんはそういうことってありません?」

 ああ、私と飲む仲になりませんかという話なのかと真鍋はようやく思い至った。こういう時は同調して、嫌になれば適当に距離を置けばいい。いままでもそうしてきた――だが。

「崎谷がいる」

「え……崎谷さん?」

「あいつも弱い」

 遠野は二、三度瞬きをして、それから食い下がるように言った。

「でも、崎谷さんとばっかり飲むってわけにもいかないんじゃないですか?」

「そうかな」

「そうですよ、色んな人と飲んだ方がきっと楽しいですよ! それに……崎谷さん、本当にお酒に弱いんですか?」

 何を、と真鍋は眉間にしわを寄せた。お前が崎谷の何を知っているんだと言いかけたが、

「だって私、見たんですよ。シーブリーズっていうバーで。ウィスキー飲んでましたよ」

 遠野は本当に驚いたような、目を丸くした顔で言っていた。真鍋は固まってしまった。ややあってから、のろのろと口を開く。

「……そうか、嘘だったのか」

「え、ええ……」

「変な嘘だな」

 真鍋は崎谷の方を見る。崎谷は上司に酒を注がれそうになって、いやそれはちょっと、などと言いながらコップを遠ざけている。あれが、嘘。あれは、仮面。酒を勧められることを避けるためのものだろうか。それとも、他に理由があるのだろうか。

「上手いことやるもんだな……」

 その言葉に、遠野は何も言わなかった。そっと席を離れる遠野を横目で見やり、真鍋は卓上に誰かが置いていた焼酎の瓶を手に取った。



 慣れない酒に、真鍋は悪酔いした。

 その後どうにか家に帰り着くことはできたのだが、二日酔いが酷い。翌日が休みでよかったと心の底から真鍋は思った。

 ともかく、午前中はずっと水だけを飲んで過ごした。二日酔いの薬など、そもそも深酒をしない生活をしてきたので常備していない。気分がマシになるまでともかく寝て過ごすしかない。ああ、くだらないことで貴重な休みが削れていく――と、ともかく最悪な気分で真鍋が家のソファで横になっていると、スマートフォンにメッセージが入った。見ると、崎谷からだった。

『昨日酔ってたけど大丈夫? 薬ある?』

 昨日まで抱えていた嫉妬心すら感じる余裕もなく、薬が無いことを伝えていた。

 ほどなくして、崎谷が家を訪ねてきた。

 マンションのオートロック、そして玄関の鍵を開けてやると、崎谷は部屋に入ってきた。

「薬持ってきた。今日、何か食べた?」

 ソファに座りなおすと、真鍋は「いや」と短く現状を伝えた。吐き気がまだ残っていたし、頭も痛い。ろくに食事を取れる体調ではなかった。

「そうだと思った。ほら、ゼリー。あと薬」

 持っていたエコバッグから、崎谷は色々と出してくる。ゼリー飲料に二日酔いの薬、粥のレトルトパック、スポーツドリンクなど。

「買いすぎだ……」

 真鍋は思わず言った。そこまでしなくていい、とも言おうとしたが、そこから先は言葉にならなかった。起き上がったせいで吐き気がこみ上げてきた。えづくように唸って、ソファの背もたれに体を沈ませる。

「飲めないのに、なんであんなに飲んだの」

「……なに、怒ってるんだ」

 いつもよりキツイ口調に感じた。なんでお前が怒るんだ、といっそ理不尽にすら感じて、真鍋は溜め息を吐く。

「酷い酔いかたするって、分かってたのに」

「……そうだな、よく……知ってる」

 そう言って、さらに真鍋は、

「お前が酒に強いのは……知らなかった」

 そう付け加えた。崎谷は、うん、とだけしか言わなかった。

「なんで、嘘をついてたんだ」

 ゼリー飲料のキャップを開けようとして、思っていたのとは違う感覚でキャップが開く。崎谷があらかじめ開けていたらしい。真鍋は飲み口に口をつけた。

「一度言ったよ。口実だって」

「…………」

 覚えが無い。真鍋は思い出そうとしてみたが、頭痛が酷くなりそうだったので、考えることを止めた。もしかしたら本当に言っていたのかもしれないし、もしかしたらそれも嘘なのかもしれない。崎谷に疑いをかけることなど始めてで、少しマシになった気がした吐き気もこみ上げてきた。

「遠野さんに飲まされたの?」

 真鍋は答えなかった。答える義理は無いと思った。崎谷は、それ以上は聞いてこなかった。



 ゼリー飲料を飲み干すと、それで気力が尽きたのか、真鍋は気を失うように眠った。次に目を覚ましたのは夜中の二時過ぎで、気分はだいぶマシになっていた。崎谷が買ってきたレトルトの粥をレンジアップして口にし、薬も飲んで寝直した。

 寝る前に、時計を見て少し迷ったものの、真鍋は崎谷にメッセージを送った。

『今日は助かった。ありがとう』

 夜中だったからか、既読はすぐにつかなかった。読まれたのは次の日の朝で、

『気にしないで、頼ってくれて大丈夫』

 という、逆に気遣うような言葉が返ってきていた。崎谷らしい。こういういことを、当然のように言ってくる。ただお人よしなだけだと昨日までなら思っていたが、いまとなってはこれが素なのか、それとも何かの意図を持った演技なのか分からない。ただ、演技かもしれない、嘘かもしれないと、そう思うと真鍋は笑い出したくなるような気分になった。

 面白かった。何もかも完璧だと思っていた男は、もしかしたら継ぎ接ぎだらけの超人だったのかもしれない。


 数秒ほど笑って、そして冷静になると、酷く虚しくなった真鍋は、しばらく呆然と、顔を洗うために出していた洗面台の蛇口の水の、流れる様を眺めていた。

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