第3話『会議室』

 昼。オフィスの一角で、真鍋は日誌を読んでいた。崎谷が書き残したものだ。こうして崎谷が残した日誌を読むのはかれこれ五日目だ。

 二人で食事に行った翌日。その際に聞かされた案件が気にかかった真鍋は、崎谷の日誌に目を通した。――すると、ナナイチ事件に関連する案件を、崎谷が大量に抱えていることが分かった。

(いつの間に……)

 カウンセラーはその性質上、クライアントの担当が固定化されがちだ。病院でいうかかりつけというものに近い。そしてクライアントの中には、新規だったとしても担当を指名してくることがある。評判が良いから、というだけでは担当は割り振られないが、場合によっては指定を受け入れることがある。

 担当を決める一つの要因が、クライアントが抱える案件の傾向だ。

 クライアントによっては、同じ問題を抱えていることがある。災害や事件、事故といったものは、下手に担当を分散するよりも、担当を一人か二人に絞る方がサポートしやすいのだ。

 だからこそ、崎谷がナナイチ案件を複数担当するのは分かる。ただ、それにしても割り振られた仕事量は多く感じられた。スクールカウンセラーとしての案件と合わせると、時間数だけで考えても自分の1.5倍は相談時間が長い。それに加えて、当人の性質があれだ。恐らく業務外でも、ナナイチに関する情報を調べるなどしているだろう。


 ――何でもないような顔をして、どこまで仕事人間なのか。


 真鍋は呆れ、そして恐ろしくなり、最後には腹を立てた。


 何がここまで苛立ちを煽るのかは分からない。初めは心配だから、無茶をしている崎谷に腹が立つのかと思っていた。しかし、数多くの案件を抱えながらも、崎谷は本当に無理をしていないという顔でいた。仕事終わりに二度、オフィスで一度顔を合わせたが、柔和な微笑みをいつも崩さない。むしろ、休み時間や仕事終わりをナナイチ案件につぎ込み始めた自分の方がよほど疲れた顔をしている――と、帰宅して鏡を見た真鍋は愕然とした。

(クライアントが増えているけれど、一人当たりの相談時間は減少傾向にあるのか……守秘義務があるから他クライアントのことは話せないが、近い地域のクライアントには、会話する機会が持てるよう上手く誘導している。学校行事、町内会……行きつけのケーキ屋、短歌教室まで……)

 一見すると、持ち込まれた案件とは何ら関係のない話すらも利用している。クライアント同士の接触は危険を伴う。本来ならば、たとえ匂わせる程度だとしても慎重になるべきなのだが――自殺した生徒の親族が悪意を持った行動をしており、しかも警察はすぐに動く様子が無いとなると、事は一刻を争う。崎谷はそう判断したのだろう。

 判断が早い。そして、適格だった。

 真鍋は日誌を置いて溜め息を吐き、指で眉間を揉んだ。軽い頭痛を感じる。疲れているのだろうか。過去の記録を見るだけでも気疲れするようなことばかりが、クライアントの身に起きていた。ひそやかに起きる嫌がらせ。どこからともなく現れる、根も葉もないうわさに暴言。そこから来るストレスに、崎谷は次々対処していっている。他の誰にも頼ることなく――。

(一人で何もかも……余裕だな)

 苛立ちが募り、真鍋は勢いよく席を立った。取り上げた日誌を書類棚に戻して戸を閉める。思いのほか、大きな音を立てた書類棚の戸に、真鍋自身が驚いた。一瞬固まってその場を離れようとしたその時、周囲の目が自分を捉えていることに気づいた。

 瞬間、目が合ったような気がした。だが、すぐに視線はそらされた。別に意図して目をそらしたわけではないだろう。ただ、大きな音がしたから振り向き、何事も無かったから、視線を元に戻しただけだ。

 理性的に考えれば分かる。だが、周囲から向けられた驚きの視線が、真鍋の脳裏にこびりついて離れなかった。



 午後になって、会議が開かれた。議題はグループカウンセリングの開催について。複数人のクライアントによる、対談方式のカウンセリングは解く珍しいものでもない。いままでも月に二度か三度、行われてきていた。会議自体も本来ならば一時間ほどで済む予定だったが――。


「ごめんね、僕のせいで」


 会議室から出るなり崎谷が言った。真鍋は軽く手を振り「別にいい」と返す。

「お前は段取りを元々上手く組んでた。長引かせたのは俺が原因だ」

 でも、と言いかける崎谷に「事実だ」と短く、言い捨てるように真鍋は言いながら歩く。向かった先は給湯室だった。会議にコーヒーが出ていたが、一杯だけでは足りなかった。喉が渇き、眠気が酷い。

「俺が余計な口を挟んだ」

 黙ってついてきていた崎谷に、真鍋は言う。


 会議が始まってすぐ。グループカウンセリングの対象者と担当者についての話になった。そして真鍋は、次のグループカウンセリングが、SNSによる誹謗中傷の被害者を集めて行うものだと知った。初めて開催する議題だった。それを担当するのは、崎谷だという。

「……ひとついいですか」

 概要を崎谷が話し終えた後、もうけられた質疑応答の時間に真鍋が口を開いた。

「その議題だと、崎谷さんが担当しているクライアントが参加者の中心になると思います。うちに通うクライアント以外も来るかもしれませんが……数としては、今まで開催されたたグループの傾向から見ても、全体の三割にもならないと思います」

「はい、そうだと思います」

「しかし、うちが扱ってきたSNSの誹謗中傷の案件は、大多数が一つの問題をベースにしています。この問題は……皆が知っている通り、地域色が強いものです。こういった案件を抱えたクライアントと、全く部外のクライアントを混ぜてグループを開催することに、本当に問題はありませんか?」

 崎谷は頷き、確かに、と呟いた。

「その地域で起きている事件がベースとなっている誹謗中傷は、下手に扱えばプライバシーにも関わることになります。クライアントが犯人を特定しているケースとなると、犯人を攻撃する目的での情報拡散が起きるかもしれません」

 真鍋は軽く目を見開いた。そこまで分かっていたのなら、何故『SNS上の誹謗中傷』などという、大雑把な括りでグループを開催しようとしたのか。

「ただ……クライアントのストレスを軽減するためには、マクロな観点と、ミクロの観点、両方の視点が必要だと私は考えています」

「……どういうことですか」

「地域色の強い問題というのは、否応なく狭い視点で物事を見ることになります。原因が明白であればあるほど、クライアントは悩みの原因を何か一つにある……と固定化しがちです。

 しかし、クライアントの悩みが広義的に共通するように、クライアントのストレス源となっている人の問題も、広義的にはまた共通するものだと思います」

 崎谷は、自らを落ち着かせるように軽く息を吸った。真鍋は、呼吸することすら忘れたように、息を詰めてその弁を聞いた。

「クライアントが抱く『この人のせいで』という感情は、至極当然なものです。しかし、誰誰が悪いという形で思考が止まると、ただそれだけを排除する方向で行動してしまいかねません。いま僕が担当している案件は、特にその傾向が強いものです。

 ですが、誹謗中傷の問題は、どこにでも、誰にでも起こりうるものです。誰もが誰かを、悪意を持った言論で傷つける可能性がある。しかも現代では、SNSという匿名性の高い場所においてそれが起きます。誰が悪意を持っているのか分からない――潜在的にあるこのストレスを、クライアントは明確に認識していないと私は感じています」

「それを、あえて見せると?」

 尋ねた唇が痺れているような気がした。真鍋はカップに唇を押し当てた。コーヒーの味が分からない。

「目に見えていなくとも、ストレスはストレスです。認識していない心の痛みは、本人が気づいていないうちに蓄積していきます。風評が拡散されたことについての怒りや恐れが、いまは先行する形でクライアントに認識されています。ですが、知らない人にこう思われているかもしれない、悪意を持って風評が拡散、再生産されているかも知れないと無意識化に思い、ストレスを感じている方がすでにいます。それを直接的に指摘するのは、はっきり言ってかなり危険です。信頼できるはずのカウンセラーに脅しかけられたと感じるかもしれません」

「……その認知によるストレスを、グループカウンセリングという形で、新しい認識を多人数的に共有することで軽減する……軽減できる、ということですか」

 真鍋が、確認するように言う。崎谷は理解を得られたと思ったのだろう。それまで緊張に引き締めていた顔をふと緩めて「はい」と頷いた。

「とはいえ、真鍋さんの言ったような、プライバシーについての問題もあります。グループ参加者への説明、あるいは必要ならば事前カウンセリングも行うことを検討すべきかもしれません。また、話題的にどうしても少数派になることが予想される、新規の方へのフォロー方法も考えた方がいいでしょう」

 その後の会議は、なかなかに白熱した。そのおかげで会議はいつも以上に長引いてしまったのだった。


「でも、本当に助かったよ」


 狭い給湯室の中、崎谷の声はよく聞こえた。真鍋は首を横に振った。

「助かる? お前のあら捜しをしたようなもんだろう」

「そんなことない。粗いところは詰めていかないとね」

 崎谷にそう言われ、真鍋はそれ以上は何も言えなかった。黙っていないと、どんな嫌味が口から出るか分かったものではなかった。

 粗いと崎谷は言ったが、議題を煮詰める間、崎谷は終始話を仕切っていた。質疑に対する応答はすべてが的確で、質問も返答も、まるで用意されていたものであるかのようだった。


 何もかもが完璧さを印象付けた。会議が長引いたことすらも。それだけ論じるべき点が多い、有意義な会議だったとすら感じさせるほど。


 真鍋はコーヒーにガムシロップをぶち込んだ。かれこれ三つは入れたはずだったが、いつまで経っても強すぎる苦みばかりが舌を刺していた。

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