第60話 出発

会社を出た後、一度電車に乗って、事前に目星をつけていたお店に向かった。店内に入って、バレンタイン向けの催事が催されているフロアを確認してから、エスカレータで目的の階を目指す。


好きな人ができたら、いつかは本命チョコを買う日が来るかもしれないと、漠然と想像していたことはあった。流石にその相手が女性になるなんて想定はなかったけど、他人事じゃなくなった自分がちょっと嬉しい。


叶野さんと国仲さんは、何でも要さんは喜ぶよ、と言ってくれたけど、折角だから美味しいと言って貰えるものにはしたい。


「えっ……?」


催事場に入って、想像もしていない状況が私を待っていた。


それなりに人がいるだろうとは思っていた。でも、まさか通路がぎっしり埋まっているような状態だなんて、考えもしなかった。


平日の夕方だけど、みんな考えることは同じということなんだろうか。


とはいえ、明日来たとしても状況が変わっているようには思えないので、ほぼ女性だけの波の中に身を潜り込ませて行く。


まさか、チョコレートを買うのがこんなに大変だなんて思ってもいなかった。


世の中にはこんなにバレンタインデーに本気で向かう女性がいることに驚きはある。でも、私もその一人なのだ。


それに、ここまで来た以上、今更退けない。


来年はもうちょっと計画的に進めようと思いながらも、何とか要さんに渡すチョコレートを購入できた。


お使いクエストかと思っていたら、難易度高めのハンティングクエストだった。





旅行準備は火曜日と水曜日の夜に、慌てて必要そうなものを引っ張り出して、カートに詰め込んだ。男性なら着替えくらいでいいけど、女性はメイク道具や基礎化粧品も準備が必要で、試供品でもらったセットを使うことにした。


その中で一番悩んだのは、凛花と選んだ服を着ていくかどうかだった。


この旅行の為に買ったものだけど、この服を見ると凛花のことを思い出してしまう。


要さんが可愛いと言ってくれたとしても、それを言葉にされれば心がまたざわつく。


今は要さんといることを私は選択している。でも、周囲とどう接するかの答えはまだ出ていない。もう少し迷いがなくなるまで、この服は封印しておこうと、別の服を着ることにした。


だって、この旅は要さんとの初めての旅で、嫌な思い出は残したくはない。


出発の日は、電車の時間から逆算して家を出る時間を要さんと事前に決めていた。


小さめのカートを引っ張りながら玄関を出ると、要さんもすぐに玄関から出て来る。


「おはようございます」


「おはよう」


要さんも同じようにカートを引いていて、声を掛けると目元が緩んだのが分かった。見慣れたとはいえ、美人がそんなことをするとどんな破壊力を持つか分かっているのか、と言いたくなる。でも、無条件にそれを見せてくれる優越感はちょっとはある。


「じゃあ、行こうか」


「はい」


今回の旅行は1泊2日で、北陸で蟹を食べることを目的にしていた。


候補地を絞る中で、私も要さんも日本海側へはほとんど行ったことがないと分かって、今は蟹のシーズンだしと、評判のいい宿を予約した。


途中で新幹線に乗り換えて、2人席に並んで座る。


「星那ちゃんは大丈夫なんですか?」


要さんのお姉さんが退院したかどうかは聞いていないものの、産後であることを考えれば、退院していたとしても星那ちゃんの子守りをするなんて無理だろう。となれば、誰かが面倒を見る必要がある。


「義兄さんが月曜日から2週間は会社で休みを貰ってるから心配しなくても大丈夫。その後はさすがに母のぎっくり腰も落ち着いてると思うしね。わたしは子守ではほとんど戦力にならないのは立証済みだから」


「後ろ向きな要さんって珍しいですよね」


「だって、子供が好きとか、そういう仕事に就いてるとかじゃないと、自分が子供を産むまで子供に接する機会ってほとんどないでしょう? 女性だから子供のことは分かるじゃないから」


「そうですね。私も兄がいますけど独身で、甥も姪もまだいませんから、子供の接し方は悩みます」


「紗来ちゃんはお兄さんがいるんだ? いくつ上?」


「5つ上です。性別も違って年も離れているので、兄妹でもちょっと遠い存在でした。実はわりと近い場所に住んでいるんですけど、強いて会う理由もないから全然会ってませんしね」


「まあ、離れて暮らすとそうなるよね。わたしもできるだけ姉の家には行かないようにしてる」


「どうしてですか?」


「わたしがビアンだってことは姉も知っていて、義兄も知っている。姉はわたしのことを昔から知ってるから、ビアンだってことは受け止めてくれているけど、義兄は一緒に暮らしたこともないから、おかしな生き物に見えるだろうなって」


「そんな風に扱われたってことですか?」


それに要さんは首を横に振る。


「理解はしようとしてくれてるみたい。でも、上辺だけと深く付き合うじゃ理解する範囲が違うでしょう? だからできるだけ表層に留めておこうっていうのがわたしの考え。近い親戚なんだからそれで済まないこともあるかもしれないけど、何かあってから考えればいいかなって思ってる」


「要さんは、自分を失わないために周囲との付き合い方に気を遣いながら生きて来たんですね」


「逆かな。そうであることでしかわたしは生きられないから」


要さんに接している方の手を要さんの手に乗せる。


「大丈夫。大丈夫。紗来ちゃん襲って欲しそうな顔してる」


「してません。そういうこと言うと、今日は離れて寝ますからね」


ちょっと感心したのに、要さんはすぐそれを台無しにする言葉を吐く。


要さんの照れなのかな。


「それを楽しみにしてるのに〜」


「今回は蟹を食べることが目的ですからね」

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