第4話 一人目の死

「実那ちゃん、飲みすぎじゃない……?」


「え? いや、いつものことでしょ」


「そうかなぁ」


 私たち二人は、数か月ぶりのお酒を飲みに来ていた。職場で最近困ったことがある、というオーラを出していたところ、察しの良い実那はすぐに感づいてくれた。


「汐里、飲み行くか」


 私は二つ返事で了承し、実那の行きつけの店に行くことになった。とはいえ、私の困ったことといえば話しにくい話題であったので、少し言い淀んでしまった。


 それを見た実那は、「どうせ斎藤のことでしょ」とビールに口を付けながら、さも当然かの如く言い切った。


「わかるんだ」


「当たり前でしょ。うちら何年の付き合いだと思ってんの? マブだよマブ。あれよ、小学生のときなんか流行ってたプロフィール帳の先頭のページに、お互いのを入れてたタイプだよ」


 何の恥ずかしげもなく実那はそう言い、枝豆を口に放り込んでいる。それを聞いた私は、照れを隠すために麦茶をすすった。


 実那はいい子だなぁ、やっぱり。心底そう思った。私たちは彼女が例えに出したように、小学生からの付き合いであった。その後は中学でも一緒だったが、高校では別々の道を歩むことになってしまった。


 しかし、そこから疎遠になることは決してなく、続けて連絡を取り合い、高校三年生になると示し合わせたかのように同じ大学を目指すことに決め、同じ学部学科に合格した。


 そして、さすがに就職先に関しては自分のことなのだからと思い、各自で就職活動を進めていた。はずだったが、なぜか同じになってしまった。


 と、実那は思っている。


 事実は全く違い、私は大学の友達にそれとなくうかがい、実那の志望する企業に片っぱしから応募していた。それから今に至っている。


 私は彼女に依存することに慣れすぎたのかもしれない。今回の斎藤課長の件についても、一切自分で対処することを考えもせず、すぐさま実那を頼ってしまった。この性格を直すべきだとは思っているのだけれど。


「実は、斎藤課長にいろいろされちゃってるんだ」


 私は決心し、正直に話した。それを聞いた実那はさも当たり前かのように、


「見ればわかる」


 と言った。私は、彼女の凄まじい観察力に思わず辟易してしまった。


「そ、そうなんだね」


「というか、みんな知ってると思うよ」


 どうやら私が凄まじく鈍いだけのようだった。


「うちらも内々で相談しててさ、これから佐藤部長に言いに行こうかと思ってたんだよね。あまりに目に余るからさ」


「そう、だったんだね。ありがとう」


 なんて話が早いんだろう。これだから実那に頼るのをやめられない。それだとまるで便利屋みたいだけど、彼女が自分で「私は汐里だけの何でも屋だから」と、胸を張って自負している。


「汐里は私らが知ってそうなもの以外で、何か嫌なことされてない?」


 私はこの際すべて話そうときめ、詳らかに明かし始めた。


「実は、会社から帰ったくらいの時間だったり、休日になると斎藤課長からメッセージが来て、何か写真送ってよ、だってさ」


「えぇ? いくらなんでも如何にもすぎない? まぁいいや、続けて」


「それで、何かってなんですか? って送ったら、自撮りで良いから、って来て」


「送ったの?」


「それくらいならと思って」


 それを聞いた実那は「あちゃー」といって、天を仰いだかと思うと、すぐにがっくりと項垂れた。やはり、彼女から見ても悪手だったらしい。


「それで、斎藤課長からは可愛いねって来て。私はさすがに相手が歳上すぎるからと思って、そこまで嬉しくもなかったけど社交辞令程度に、ありがとうございますって送った」


「何をやってんのさ、汐里さんは。その前に察せないかな君は」


「うん……私でも今振り返ってみると、だからエスカレートさせたんだと思う」


「えっ、他にも要求されたの?」


「うん、次は全身送ってって。でも、さすがに送らなかったよ? 姿見とか持ってないし」


 実那はその言葉を聞き、呆れたといった表情をしながら「そういう問題じゃない」と言って私の肩を軽く叩いた。どうやら勘違いさせてしまったらしい。これは訂正しないと。


「ごめん、今のは冗談だよ。さすがにセクハラってことくらい私でもわかるから」


「私決めた。このこと部長に電話で話すよ。明日明後日まで呑気に待ってられないよ」


 彼女は途端にそう言って、椅子をがたんと鳴らして立ち上がった。思ったからには即行動というようにして、伝票を取ると店員を呼んだ。


「もうするの?」


「当たり前じゃん。斎藤課長を許さない。私の汐里を食い物にしやがって、羽交い締めにして歯を一本一本えぐり取ってやりたい気分だよ」


 実那は少し大袈裟にこの問題を受け止めているようで、ありもしないことを想像で生み出しているみたいだ。私は食い物なんてされてないのに。そんな拷問みたいな報復までは望んでない。


 でも、なんて心強い人なんだろう。私の些細な悩みを、さも自分のことかの如く考えてくれるなんて。これだから好きなのだ。


 私たちはそうして居酒屋を出た。実那はスマホを取り出し、電話をし始める。そこまで話さなくても、と思うほど詳細に話していた。彼女はよろしくお願いします、と言って電話を切った。


「よし! 言ってやった! やるぞ汐里!」


「う、うん」


 これまで見たこともないくらいの活気を見せながら、実那は唐突に叫び出した。


「ちくしょー! あのバカ斎藤がー! 口だけ達者で何もできない無能がー!」


「ちょ、ちょっとやめてよ実那ちゃん」


「うるせー、汐里。あんたも怒りなよ、セクハラ受けてんのはあんたでしょうに」


「そうだけどぉ」


「汐里、叫ぶんだ。思いのままをこの理不尽で不条理な世界に向けて。思いのたけを全部吐き出して楽になるんだ!」


「えぇ?」


「さぁ、やれ!」


 実那にそう言われ、私はなぜかやる気に満ち溢れた。ええいままよ、どうにでもなれ。


「斎藤課長のー! バカヤロー!」


 私は人生の中で一番と断言できるほどの大声を出して、感情を吐き出した。道行く人々の視線が、大きな声に驚いてこちらに向いているのを感じる。そして私は叫び終えると、深呼吸をした。


 ひとまず落ち着いたので、実那に振り向いて、「実那ちゃん、ありが」とまで言った。


「中村さん」


 実那のそばに立っている大きな背をした男性が言った。一切の感情を表に出さず、冷酷な表情をしている斎藤課長がそこにいた。


 私はその場で何も返答できず、ゆっくりと踵を返した。そうして、駅に向かって走り出した。


「汐里、待って!」


 その言葉が後ろから聞こえた。私は心の中で「ごめん」と謝り、後ろを振り向かずに走った。


 

 二百メートルほど走ったところで、少し落ち着いて考えを巡らせることができた。そこでふと、後ろを振り向いた。そこには、斎藤課長が追いかけている姿が見えた。


 私はふたたび走り出した。私の足の速さと考えると、斎藤課長ならば追いつきそうなものなのに、なおも後ろを走る足音が聞こえている。何がしたいんだ! 捕まえられるなら捕まえれば良いじゃん! 私は疲れながらにそう思った。


 私はどうにか撒けないかと思い、入り組んだ居酒屋の合間を走り続けた。無駄な抵抗であるものの、諦めなかった。


「なんで追いかけてくるんですか!」


 どうにかして、苦し紛れに声を出した。決して足を止めずに。


「中村さんが逃げるから」


「やめてください!」


 私はそう言い、次の言葉を待った。しかし、彼は何も反応せず走り続けている。


 目の前に駅が見えてきた。このまま電車に乗れば。そう思い、走っているために大きく暴れている鞄から定期券を出し、改札へと一直線で向かう。


 そして、改札の直前になると、その異常に気付いた。多くの人々が困惑の表情をし、何やら騒いでいる。私はそのとき電光掲示板を見た。そこには「人身事故の影響で、運転を見合わせています」との表示があった。


 なんでこんなときに……私は改札を通らず、右に振り返るとその方向に走った。そのとき横目に斎藤課長が映った。まだ追いかけているのか。


 私は息も切れ切れになりながらも必死に、「もう、諦めてください」そう言った。しかし、彼はなおも無表情で追いかけ来ている。


 どれだけ走っただろうか。そろそろ倒れそうだ。苦しみながらも懸命に酸素を吸い、空気を腕で大きく掻きながら足を止めずに走った。


 そろそろ頭がくらくらしてきた。日頃の運動不足が祟ったらしい。目の前が上手く見えなくなってきている。周りに視線を動かすことができず、音を聞き分けることができなかった。


 そのとき、ふと視界が鮮明になった。余裕が出たのだと思い後ろを振り返ろうとしたその瞬間、何かにぶつかったような音がした。


「え?」


 まるで他人事のようだった。決して、自分のこととは思えなかった。


 私は数刻すると、地面に全身を叩きつけられた。あまりの衝撃に、何も声を出せなかった。上手く呼吸もできない。手を開くこともできない。腕を動かすこともできない。足を動かすこともできない。


 しかし、痛みは全くなかった。ただ、意識だけが薄れていくのがわかった。

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