第2話 死について考えてみる
電車に向かう道を、ふらふらと体を揺らしながら歩いていた。視線を定められず、疲労が表立って出ているのが自分にもわかる。すると、そばにある車道を挟んだ反対側の歩道で、かしましく騒ぐ声が聞こえた。
どうやら、仕事帰りに飲み会をしていたらしい女性らの騒ぎだったようだ。騒いでいるといっても、何かひと悶着おきているわけではなく、ただ大声を出している。
「ちくしょー! あのバカ斎藤がー! 口だけ達者で何もできない無能がー!」
「ちょ、ちょっとやめてよミナちゃん」
「うるせー、汐里。あんたも怒りなよ、セクハラ受けてんのはあんたでしょうに」
「そうだけどぉ」
あぁ、騒がしい。俺の疲れ切った様相など露ほども知らず、呑気に生きているんだろうな。人生を謳歌して、楽に生きているんだろうな。羨ましい。俺に代わってお前らが働いてくれよ。
などと自分でも卑しいと思えるほどの考えをしていて、先ほどの慈悲はある、というものはなんとやらという状態であった。
もうやめよう、無駄な考えをするべきじゃない。ますます暗い気持ちになってくるではないか。俺は頭を振ると、ふたたび足を進め始めた。
何も考えず、ただひたすらにぼうっとしながら歩いていると、どこで道を間違えたのか見知らぬ場所へと来てしまっていた。
飲食店ののぼりや妖しい看板が立ち並び、眩しさに眉を顰めた。そのそばではキャッチをしていると思われる若い男女が、未だ帰りたくないサラリーマンに次々と声を掛けている。
すると、一人の若い男が俺に視線を合わせ、狙いを定めたのか「ちょっとそこのお兄さ~ん」と近寄ってきた。そして、まるで従者のように後ろに控えていた、メイドの恰好をした若い女も寄ってくる。
「お兄ちゃん、寄っていきませんか? 一回一本で良いですよ~」
若い女はそう言って、ほほ笑んだ顔を向けてくる。おそらく一本というのは一万円ということだろうか。ということは、メイド喫茶ではない水商売の類であろうか。あいにく俺はそれらの種に金を払う気はなかった。
俺はなるべく目線を合わせないよう顔を下へ向け、無視を決めることにした。
すると、その姿を見た若い男は舌打ちを鳴らして「シカト決めてんじゃねえぞ」と言い、あろうことか俺の視線を追うようにして顔を寄せてくる。
「い、いえ、そんなことは」
「あぁ? お前、俺の声聞こえてたよな。俺が話しかけた時、明らかに聞こえてる素振り見せたもんな。目が泳いでたのが傍からみてもわかったもんな。あのさ、シカトの意味わかってんの? シカトってのはな、花札から来てんだよ。十月の十点札に描かれてる鹿が、月に背中向けてそっぽを向いてるみたいだから、そこからシカトって言葉が生まれたんだよ。俺はな、おめえみてぇな月にすらなれねぇボサボサ頭のくたびれたおっさんに背中向けられるのだけは許せねえ」
突如としてまくし立て始めた若い男に気圧され、思わず怯えた俺は「す、すいません」と声を震わせながら言った。
「お前は、そんなんで許してもらえると思っているんだね」
嫌な予感を感じる。このままでは身に危険が及びそうだ。そう思った途端、勝手に足が動いた。まさに、脱兎のごとく。
「おい! 逃げるな!」
どんどん離れていく背後からそう聞こえたものの、追ってくる様子はなかった。
息せき切ってようやく駅に辿り着き、改札を通ると下りのホームに向かった。整列位置に立つと、疲れた体を少しでも休ませようと思い、右足に体重を乗せた。
疲れた。ただただ疲れた。俺はなんて不運な人間なんだろう。もう、たくさんだ。
今から家に帰ったところで、いったい何をすればいいんだろう。思い返せば未だ余裕を持て余していた数か月前の俺は、家に帰ったあと何をしていただろうか。
テレビを観ていた? あいにくテレビは持っていない。ゲームをしていた?
ゲームなど十年以上はやっていない。
動画サイトでも観ていただろうか?
確か、何か映画を観るのにハマっていたような気がする。しかし、タイトルを思い出せない。
はたまた本でも読んでいただろうか。
そうだ、本は読んでいた。もっぱら小説ではあったが、毎週末になると、会社帰りに中古本ショップへと寄って好きな作家の入荷を追っていた。
当時は働き始めたばかりであったため、持ち金に余裕がなかった。作家に還元するために新冊を買うべきだとも思っていたが、申し訳なく思いながらも中古本を漁っていたのである。
小説を買って読むのにハマり過ぎたあまり、読むペースが追いつかず、どんどん読みたい作品が増えていく嬉しい悲鳴に嘆いていた記憶がある。
しかし、社会人となって時が経つにつれ、段々と与えられる仕事が増えていき、忙しい悲鳴に嘆き始めた。身体の不調が続き、頭を動かす余裕がなくなっていった。
そのせいで、読みたい小説は積んでいく一方となり、全く消化できなくなってしまった。家には今、何冊溜まっているだろうか。
それを、今の今まですっかり忘れていた。この数か月間で、自分の趣味の記憶すら忘れてしまうような、健忘症のような症状に侵されていたのだ。
俺はもう駄目だ。前までは、映画を観たり小説を読んだりと楽しい生活をしていたが、今は何の感慨も浮かんでこない。何も思わない。待ち遠しいとも感じない。
人生に楽しみを感じない。
それなら、何のために生きればいい?
人間は種を残す宿命がある。それは、人間のみならず生命ならば当然に為すべきであり、できるのが普通だと思っていた。しかし、俺にそんな縁はない。世の中にはパートナーに恵まれない人間も数々いるだろう。特に現代は豊かになったこともあって、より一人を好む人が増えていると聞く。
そんな一人を好む人間が人生に望むこと。それは、楽しさだろう。でも俺は孤独であり、かつ生きることに楽しさを見出せない。そんな人生に果たして意味はあるのだろうか。
確信を持って言える。つまらない人生など、何の価値もない。少なくとも俺はそう思う。上司から無理難題を押し付けられる日々に自我を擦り潰され、喜怒哀楽なんて感情はとうに消え失せてしまった。
いや、怒りだけはあるかもしれない。この場合、喜哀楽がないという状態か。なんと虚しく惨めな人生であろう。
俺はこれから、何を希望にして生きていけばいいのだろうか。今から趣味を見つけるか? それも億劫だ。もう、面倒くさい。
それに、近頃はちまたで異世界転生モノとやらが流行っているというのを耳にしたことがある。あれらによると、事故で死んだり事件に巻き込まれて死ぬと異世界に飛べるらしい。
そうだ、死ぬにはちょうどいいタイミングなのではないだろうか。
もういい。やめてしまえ。
俺は右足に乗せていた体重を両足に戻し、左足を前に運び、右足をさらに前に運び、ホームの端にしゃがみ込み、足を掛け、線路に降りた。
俺は今、線路の真ん中に立っている。目の先およそ二百メートルには電車が迫ってきており、危険を知らせる警笛を鳴らしているのが聞こえる。それと同時に、駅のホームで電車を待っていた人たちが、徐々に騒ぎ始めた。
「お、おい」「これまずいんじゃないか?」「じ、自殺!?」「助けたほうがいいんじゃないか」
人々は、今起きていること、そしてこれから起きるであろうことを理解し始め、焦りの声を上げている。ただし彼らは口々に声を上げるのみで、何の行動も起こそうとはしなかった。
現状を理解できても、現実を理解していないのだ。自分の身の回りには死という出来事が起ころうはずもなく、ましてや自殺など絡んでくるはずがない。そう思っているのかもしれない。
仕方もないことだろう。俺もそんな状況に遭遇したところで、何の手出しもできないはずだ。
周囲の騒々しさは頂点に達し、電車の警笛が聞こえないほどまで大きくなっていく。耳鳴りがするほどの声音に嫌気が差した俺は、耳を手で力いっぱいに押さえた。しかし、完全には遮断しきれなかった。
「だ、誰か! 駅員さん呼んでください!」「助けてー!」「やめろよ!」
電車は徐々に距離を近づけており、既に百メートルを切っているように見える。運転士はおそらく俺の姿を視認できているだろうが、このスピードから距離を落としたところで止まり切れないだろう。
この駅に停車する電車であれば間に合ったかもしれないが、あいにく通過列車であったようだ。
周りの人間は現実を受け止められていない、などと思っていた俺だったが、それは自分も同じだったようだ。今になって、本当に良いのだろうか。という思考が流れ込んでくる。
このままでは、俺のこの二十余年におよぶ人生は、電車に轢かれることで一瞬にして儚く散るだろう。両親に愛を注がれ、友人たちと謳歌していた学生時代。
学業や色恋沙汰に悩み、これからどうしようかと将来を考え、人生を懸命に生き抜いていた。その貴重だった時間は、たった数刻経てば一瞬にして消え去ってしまう。
俺の人生は一体、何のためにあったのだろうか。何の爪痕も残せず、誰かのためになることもせず、誰の心象にも残せなかった人生。価値も生み出せなかった俺の生きざま。
一度でもいいから、誰かに俺という存在を求めてほしかった。しかし、今となっては夢のまた夢だろう。そんなことは決して起きやしない
そう考えていると、俺が今死んだところで誰も何も感じないのではないか、と思い始めた。ならば、このままで良いのではないか?
俺はそうして、人生に未練を残しながらも諦めることに決めた。
電車は既に数十メートルの距離に迫っている。急ブレーキをしているとわかる金属の不快な音が鳴り響く。周りからは悲鳴と金切声が轟き続けている。
そのときふと、視界の端に手が見えた。俺は驚き、顔を向けた。サラリーマン風の男が俺を助けようとしたのか、手を差し出していたのだ。
「掴まってください!」
そう叫び、鬼気迫った表情を向けてくる。俺は彼の全身をなめまわすように見た。
彼は俺と同じかもしれない。
顔には数々の疲労とストレスが浮き出ており、皴の取れていないスーツを着ている。足元を見ると、まるで洗われていない靴があった。全身の疲れが足元にまで及んでいる。
しかし一箇所、決定的に違う部分があった。衝撃のあまり、絶望するほどまでに。
彼は鬼気迫った顔をしているにもかかわらず、その目には少しの希望をも窺わせているのだ。
少しの違いではあるが、それは決定的なまでの差であった。
俺が失ってしまった感情を彼は持っている。表情一つでここまで人は変わるものなのだろうか。一体、俺と彼は何が違うんだろうか。しかし、その違いを知ることは叶わない。
俺は絶望に打ちひしがれ、彼から目を反らして電車へと顔を向けた。どんどん迫ってくる電車に足がすくむが、何もできなかった。が、数刻も保たないだろう。
そして、目を閉じた。これから周りに漂うすべての音が消え、遂に俺の命は尽きるのだ。
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