第19話 抱えるもの

 講義日一日目は『実践剣術』を除けばどれも必修科目であり、アルフェはつつがなく講義を終えた。

 その後はカーテシー三姉妹の下でみっちりとお茶会(どうやらサーブ側としてのスキルも必要らしく、執事みたいな服で奉仕させられた)をして、食後に講義内容を復習すればもう夜更けである。


「あれ。まだやっていたのかい?」

「ええ。ちょうど終わったところです」


 テキストを片付けていると、フリエが『日課』から戻ってくる。

 帰りに入浴を済ませてきたようで、湯上りのぽかぽかとした蒸気をまとっていた。


「入浴もまだみたいだね。お疲れさま、なにか飲むかい?」

「お気になさらず。先輩こそお疲れでしょうから」

「あはは、ありがとう」


 荷物を下ろすフリエに飲み水のビンを渡す。

 彼女はごくごくと豪快に口をつけて、口の端からこぼれた水を腕で拭った。


「……フリエ先輩は、もしかして毎日素振りをしていらっしゃるのですか?」


 こうして日課を終えたフリエを迎えるのは初めてではない。これまではさして気にしなかったが、ここ最近のフリエに対する疑問が問いかけとなって口をついた。


「あー。うん、まあそんなところだね」


 苦笑した彼女は壁に立てかけた棒をとる。

 するりと布を取り払えば、それは見るからに使い慣らされた木剣だった。むき出しの部分には細かな傷が目立ち、柄に巻かれた布だけが真新しい。


「生まれた時から剣に触れてたから。もうすっかり身体に馴染んじゃったよ」

「やはり先輩は優れた剣士なのですか」

「……そんなことはないさ」


 嘲笑うように口の端をゆがめる。

 その嘲りは、どこに向いているのだろう。


「家が少し特別でね。それだけのことさ。ボクは本当はもう剣を握るべきじゃないんだ……それなのに捨てきれもせず、惰性でこれを振っている」


 ぼんやりと木剣を見下ろす視線は、いつもの彼女の宝石みたいな瞳とはとても思えなかった。


 よどみ、濁り、落ちくぼんだ穴のようにさえ見える。


「―――なんてね」


 そうかと思えばあっけらかんと彼女は笑った。


「まあしょせん思春期の悩みみたいなものでね、本当はそう大したことでもないのさ」


 そんな彼女に目を細めたアルフェは、 膝の上でうつらうつらしているベルを優しくなでながら、呟くように告げた。


「端から見ればどうであれ、そして自分でどう考えていたとしても……そうするというのなら、そこには紛れもなく意思があるのではないでしょうか」

「……アルフェさん、キミは……」


 アルフェの言葉に目を見開き、そしてなにかを問いかけようとして言葉を探すフリエ。

 けれどアルフェはその前に、冗談めかして笑った。


「先輩から見れば私は空気をなでるおかしな後輩かもしれませんが、それでも私はこの子をなでるのがとても好きなのです」

《んー……ワタシはふさふさだからなー……》

「……そうかい」


 アルフェは言葉を飲み込み、ゆっくりと吐息する。

 そしてにっこりと笑って、


「ボクはキミのそういう優しい表情が好きだよ。そうしているときは、いつにもましてキミは素敵だ」

「ふふ、ありがとうございます」

《おいおい口説かれてんじゃねーのか? げははは》


 からかうように笑うベルの額をぐりっと押して《ぐぇっ》たしなめつつ、アルフェは立ち上がる。


「私もお湯をいただいてまいります」

「うん。他の子もいなかったしゆっくりしておいで」




 寮には大きな浴場があって、生徒たちは自由に利用することができる。

 常に循環し、温度と清潔が保たれているため、毎日一度の掃除の時間以外はいつだって入浴可能なのだ。


 とはいえこの時間に入浴する者はそうはいない。

 アルフェがやってきたときそこは無人で、広い湯舟をふたり占めだった。


《ぶるるぅ》


 心地よさそうにお湯に溶けるベルとともに、ネグリジェのような湯着に着替えたアルフェもゆったりと湯を味わう。

 ベルはアルフェのささやかな胸の間に顔を収めながら満悦していて、アルフェはそんな彼女を柔らかくなでていた。


《こんどからこれくらいに入ろぉぜぇ》

「それがいいかもしれないわね」


 ぐるると喉を鳴らして、牙を首にあむあむと押し当てながらねだるベルに、アルフェはそっと笑みを浮かべる。

 すると上機嫌になったベルは長いしっぽをアルフェの足に巻き付けて、きゅうきゅうと締めながらべろべろ頬を舐める。


《なーあー》

「甘えん坊ね」

《ここはキュークツだからよぉ……》

「それもそうかもしれないわ」


 アルフェはベルを抱き上げる。

 浴槽のふちに腰かけて、そっと持ち上げた鼻先に口づける。ふすふすと荒らぐ鼻息を感じながら、アルフェは静かに湯着の肩ひもを、すとん、と落とした。


 露になる小ぶりな胸、わずかに浮いた肋骨、細くも引き締まり割れ目のわかる腹、そして―――刻まれた痛々しい爪痕。

 ケロイド状に治癒しきったその傷跡は、もう二度と消えることはない。


 ベルの前足が、そっと傷跡をなぞる。 

 鋭い爪の先端で、くすぐるように、ゆっくりと。


「っ、ふ、」


 指の真ん中を噛んで声を抑えるアルフェ。

 その姿に高揚するベルがじゃぶじゃぶと顔を舐れば、アルフェも応じるように口を開き、まるで自らも獣のように、舌を躍らせる。


「ッ、ぅあっ」


 ぷつ。

 爪の先端が皮膚を裂く。

 溢れ出す赤色を吸い上げながら、ベルの爪は、ゆっくりと傷跡をなぞって、降りていく。


「はっ、あ゛っ、んぅっ」


 舌を交わしながら痛みに悶えるアルフェ。

 目の端からとろりと零れ落ちた雫をベルは丹念に舐め上げ、そして首筋をひとつ甘噛みすると、アルフェの首筋から胸元にかけて舌を下ろしていく。


「ふっ、ふっ、」


 息を乱しながら、ベルの頭を抱きしめる。

 ベルは彼女に刻んだ傷跡を丹念に、丹念に、一滴の流血も残さないように舐めた。

 そのたびにアルフェはぴくぴくと小さく震え、声をこぼす。


 それが終わると、アルフェはまたひとつベルの鼻先に口づけた。

 ベルは満悦した様子でアルフェに身体を預け、柔らかな愛撫を堪能する。


「満足したかしら」

《んーや、まあガマンしてやるぜ》

「そう。……いずれ、貴女にも出番が来るわ」

《げはは、そりゃ楽しみだ》


 楽しげに揺らめくベル。

 アルフェはひとつ吐息して、それから湯着をまとった。


 ―――と。


 更衣室のほうから聞こえる物音。

 やがて扉が開いて、顔を見せたのは桃色の少女だった。

 彼女はアルフェに気がつくと目を見開き、わずかなためらいを見せたが洗い場に向かった。


 アルフェはちらりと視線を向けただけで気にせず、お湯を足先で遊ぶ。

 背後から聞こえる水音はやがて消えて、しとしと足音、それから桃色はアルフェから離れて浴槽につかった。


「……あ、の」


 なんどかためらった様子を見せながら、桃色はアルフェに話しかける。

 視線を向けると彼女はたじろいだが、おずおずと問いかけた。


「あなたは、その……『アルフェ』、なんです、よね」

《ンだこいつ》


 その奇妙な問いかけにベルは眉をひそめたが、アルフェは気にした様子もなくうなずいた。


「ええ。私はアルフェと申します。そちらはロイネさんでしたか」

「は、はい、そ、そおです」


 びくびくしながらもうなずくロイネ。

 彼女は視線を動揺させながらちゃぷちゃぷとアルフェの傍らにやってきた。


「あの、入らないん、ですか?」

「……少々のぼせてしまったので」

「そ、そうですか」


 確かにアルフェは耳まで真っ赤になっている。

 なるほどとうなずくロイネにベルは鼻を鳴らした。


「それでその……ごめんなさい。謝りたいと思っていて」

「貴女から謝られることなど覚えはありませんが」

「あの、ヘイロン様のことで……」


 ヘイロン。

 聞き覚えのある名だ。

 まったく興味がないので覚えるつもりもない、ということは覚えている。


 とはいえこの桃色と一緒にいた男子生徒のことだろう、というくらいは分かるが。


「どうしてか、その、あの方はアルフェさんを悪い人だと思っているみたいで」

「そうですか。けれどやはり貴女に謝られる理由はありません。嫌うのは悪いことでもありませんからね」


 もちろん嫌いだからと突っかかってくるのは非常にうっとうしいが―――しかしそれとてこの少女が謝るべきことではない。


 当然にそう思っているアルフェに、ロイネは目を見開き、そうかと思えばぎゅっと手を握り、アルフェを睨みつけた。


 刺々しい視線だ。

 だがアルフェは、それがよく向けられる嫌悪感とはまた違うように感じていた。


「……あなたは、どうしてそうなんですか……?」

《はぁー?》


 苛立ちさえ感じさせるベルは、ぶわ、と身体を広げて威嚇している。

 だがロイネはそんなものに気が付いた様子もなく、ただまっすぐにアルフェを睨む。

 見ればその目の端には涙の粒さえ溜まっていて、アルフェは僅かに眉を上げた。


「……どうして、と言われたところで私は私です。貴女が貴女であるように」

「わたしが、わたし……?」


 呆然とつぶやくロイネ。

 彼女はうつむくと、それっきり沈黙した。


 話は終わったようなので、アルフェは立ち上がる。

 あまりこうしていると湯冷めしてしまうが、かといってさすがに湯につかればまた出血してしまいかねない。


 ―――そうして一人きりになった湯舟で。


 脱衣所からさえ気配がなくなって。それでもまだ彼女は沈黙して、髪の毛が半分くらいはもう乾いてしまうころ、ぽつりとつぶやいた。


「こんなの……私じゃない」


 呟きが湯面を揺らす。

 そこに映った桃色の少女を、彼女はただ静かに見下ろしていた。

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