第16話 魔術学概論
「現代哲学の基本的な考え方によれば世界の構成要素は『空間』『時間』『認識』の三つだが、特に空間と認識の要素に強く依存するのが『魔術』の概念となる」
《……んがぁ……》
壇上の教員が、取り囲む生徒たちを鋭い眼光で見回す。
眼鏡をかけた痩身の男性だ。
広い講義室に響き渡る静かな声で淡々と語っている。
「ここで我々人間―――つまり『物体』もまた、なんらかの属性を得た空間のひとつであるとする。物体を限定するのが我々の体内に宿る『魔力』であり、ゆえに魔力の空間を拡張することは人間という空間を拡張することになる」
《ぐぅう……がぅ……》
手のひらを上向ける。
「今この掌上には拡張された魔力の空間がある。これは定義上私の一部であり、かつ物体としての属性を持たない空間である。これを『術域』とする。相手を漠然と認識した際には、この術域の輪郭を捉えやすい」
《…………ふごっ》
その『術域』を目視することはできない。
しかし生徒たちは、教員の手のひらがちょうどその頭と同じくらいの大きさに膨らんでいるような気がしていた。注視すればそうでないとひとめで分かるので、中には困惑する者もいる。
「術域内は完全に我々が自由にできる空間だ。想像が外部から阻まれないのと同じように、あらゆる物理法則を超越して創造ができる。ためしにここに炎があると想像してみよう」
《みゅう……むごぅ……》
そう告げる教員だが、もちろん想像したところで炎は生まれない。
「須らくこの炎は見えず、感じず、伝わらない。術域内の現象はただそこに有るだけでは無いことと同じなのだ。なぜならこの炎がどういう炎なのかは、私の想像内にしか存在しないのだから。ではこれを有らしめるにはどうするか―――ここに『認識』を利用する」
《……がぅる……んごっ》
言葉とともに文字の羅列が掌上に生まれる。
術域の境界を一回転するように巡ったそれは、一周するのにもう一文字分、といったところで止まった。
「これは『呪文』という共通言語だ。認識力を有するあらゆる生物が直感的に理解できることから世界そのものを構成する言語だと言われている。ゆえにこれは術域内にあっても外部から認識することができるのだ。諸君も漠然とした炎の想像を共有できていることだろう」
《ぐぶるぅ……》
確かにその文字はとても複雑な形でできていて読むのは難しそうだが、遠目にも眺めているとぼんやりと炎の姿をイメージできてしまうようだった。
「そしてこの文章を完成させたとき呪文により説明された術域内はあまねく生物から認識され―――諸君らはここにある炎を実感する」
《……んあ?》
ボゥッ!
手中に生ずる炎。
寝息をぐぅがぁ立てていたベルは目を覚ました。
「かくして認識によって成立した『炎』は実体となる。空間に属性を与え、それを認識によって有らしめる。それが『魔術』だ」
《なんか小難しいこといってやがんなぁ》
ぐっと手を閉じれば簡単に炎は消える。
「さて諸君、この『魔術学概論』においては基本的な呪文構文並びに小規模の術域を用いた魔術造形を学ぶことになる。これは本学の学生として確実に習得すべき事柄であり、これまで魔術を扱ったことのない生徒を含め全員が一定の水準へと達するよう期待している」
ではテキストの1ページ目を開きたまえ。
そんな彼の指示に従って講義は始まる。
必修科目その一『魔術学概論』。
新入生一発目の講義のわりに容赦がなく、ベルは開始数秒で寝た。
《なんか小難しいこと言ってんぜまったくよぉ》
目を覚ました今も全く興味はないらしく、アルフェの頭に顎を乗せてべろんと舌を垂らしていた。
アルフェはさらさらとノートの端に文字を書く。
【この機会に学んでみてはどうですか?】
《ケッ、そいつはオマエに任せるぜ》
【それは残念】
そっと笑みを浮かべるアルフェ。
もっとも内容自体は常識……とはいかないまでも学園の生徒であれば多少は把握していることだ。アルフェとしても、正直出席する価値はない。
それでもおとなしくテキストを前にしているのは必修の最高評価であるAを取るためだ。点数としてもそうだが、わざわざ受講態度を悪くして心証を悪くするのもバカらしい。
《なぁもっと面白れぇやつはねぇのかよ》
【この後に『実践剣術』があります】
《ほぉん。いいじゃねぇか》
【あなたも楽しめるかは分かりませんが】
《げはは、こんなとこでカンヅメになってるよりゃずっとマシだぜ》
るんるんと上機嫌になって絡みついてくるベル。
しかしアルフェはトンと紙面をたたいた。
【まだ講義は十分の一程度しか終わっていませんよ】
《まじかよ終わったら起こしてくれ》
【おやすみなさい】
膝の上に丸まって寝息を立てるベル。
彼女をなでなでしながらだったので、アルフェは多少楽しい気分で講義を乗り越えられたのだった。
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