第5話 満月を見上げて
遠く電車に揺られてやってきた学園。
初日の日程もつつがなく終わり、それでも寮長から案内を受けたりと忙しくしていれば、いつの間にやら日は沈んだ。
共同浴場の広々とした湯舟を楽しんだアルフェは、青色のネグリジェに湯上りの肌を透かしながら、ベッドの上でぼんやりとたたずんでいた。
『ボクはちょっと日課があってね。疲れたろう? 先に寝ていておくれ。……おやすみ』
微笑みを残して去って行ったフリエはまだ帰っていない。壁に立てかけてあった棒のようなものを手にしていたが、日課とはいったいなんのことだろう。
ほんの少しだけ気になったが、あまり詮索するつもりもなかった。
どのみち、すぐに別れる相手だ。
《満月みてぇだな》
「ええ。そうね」
ふらりと窓辺から見上げる。
円形の虹でできた月は燦然ときらめいて、アルフェはその異様な空にほんのわずか笑みを浮かべる。
ここは学園。
まるで外とは別の世界みたいだ。
「……」
アルフェはおもむろにトランクを開く。
底板の一部を押し込めばカチとズレて、開くようになっている。そこには小さな巾着の袋が入っていて、彼女はそれを取り上げると、もふっと座り込んだ。
袋を開く。
さかさまに向けて、中身を手のひらに落とす。
固く、冷ややかな感触。
―――腕輪だ。
半ばから真っ二つに分断された白の腕輪。
そして本来はそこにはまっていたはずの宝石。
学生証。
ベルの身体がざわめき、おどろおどろしい闇が膨れる。
まるで威嚇するように牙をむいて、彼女は腕輪をにらみつけていた。
「やはり、間違いないようね」
《完全におんなじだったな。ムダ足じゃなくてよかったぜ》
これこそが彼女をこの場所にいざなった。
この白い腕輪こそがたったひとつの手がかり。
覚えている。
夥しいほどの赤の中にあって、なお揺るがず、汚れず、犯されず、純潔にきらめくその鮮烈なる白を。
覚えている。
《さっそく犯人捜しだな》
「いえ。そう単純なことではありませんよ。……説明したはずですが」
《げはは、小難しいこた覚えてねぇぜ》
あっけらかんと笑うベルに苦笑する。
宝石を月にかざしてのぞき込んでみたら、視界いっぱいに広がる虹色に目がくらんだ。
「腕輪を持ち出すことができるのは生徒か卒業生だけ……どちらにしてもかなり昔のことですから、もう生徒ではありません」
《あぁん? じゃなんのためにこんなとこ来たんだよ》
「学生名簿」
ゆらりと視線をおろす。
手の中で宝石をもてあそびながら目を細める。
「学生証と生徒を結びつけるデータベースがあります。卒業後も身分証明に使えるのならつまり、卒業後の生徒情報も記録されているはずです」
《ほぉん。だったらドラちゃんにでも相談してみりゃ一発じゃねぇの?》
「それでいいのなら、わざわざこれを現場から持ち出す必要はなかったでしょう」
《げはは、愚問だったぜ》
ただ犯人を捕まえてほしいだけなら、腕輪をそのまま置き去りにしていればよかったのだ。
それを彼女は、しなかった。
誰の手にも委ねるつもりはない。
これは、自分の手の中になければいけない。
「私が直々に殺すのです。あなたがその決意でしょう、ベル」
アルフェからの視線を受けて、ベルは笑う。
笑う。
上機嫌でじゃれついてくる彼女をあやしながら、アルフェは目を細めた。
「学生名簿の参照には権限が―――色がいります」
宝石を握りしめるアルフェ。
彼女はそのためにここにきたのだ。
「白です。どんな手を使っても、私は白を得る」
十二年前から揺ぎなく、彼女はそれだけに生きている。
それが彼女の決意だった。
◆
芯を通す。
揺ぎなく、なにものにも侵されない、断固たる芯。
その芯を伝って伝播する力を切っ先に乗せる。
身体の隅々にある筋肉の、その僅かな震えさえも。
そして―――
斬
と。
ただ、振り下ろす。
全身の力を全て乗せた一閃は空気を斬獲して、まるで世界が血液を吹き出すように暴風を巻き起こす。
じっとりと浮かんだ汗を吹き飛ばされて。
そうしてまた、切っ先を上げる。
それを繰り返し、繰り返して。
やがて立っていることさえおぼつかないほどの疲弊感に包まれた彼女は、大きな吐息とともに木剣を収めた。
ポケットから小さな小瓶を取り出して、透き通った青色のキャンディを口に含む。
からころ。
元通りに布で包んだ木剣をぶら下げて。
寝巻きや入浴の準備が入った袋を肩にかけて。
最後にふと、空を見上げた。
「ああ。……今日は、満月なのか」
ドームの遥か彼方に浮かぶ月。
翡翠の瞳が虹色の夜空を見つめ、そうして呟いた。
「相変わらず―――監獄みたいな夜空だね」
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