此処は化物の体内(中編)
小鳥について行く間も、コーニスは時折辺りを見回している。俺も植物の調査と言いながら森の内情を観察してはいるが、露骨すぎる。横着なカムドは論外というか予想通り全く気にしていなかったので期待はしていない、かといってセトロア程冷静になれというのも酷だ。ターラからオロオロした動作を引いたくらいにはしてほしい。
確かにこの森はどうも普通じゃない。雰囲気が違う。あの小鳥以外には動物や鳥類が一匹も見当たらない。他にはアリを少し見かけただけ。個人的におかしいと感じたのはそれくらいだが、コーニスははっきりと怯えている。森の中で生きるフェルー族の勘だろうか。
とはいえ、あのままにするわけにはいかない。
「どうしたんだ、コーニス」
「ヒッ!?」
ちょっと肩を叩いただけなのに、大きくウサギ跳びした。
「怯え過ぎだぞ、コーニス」
「あ、ああ、隊長か。脅かさないでくれよ」
「……この森、怪しすぎるな」
咄嗟に声を小さくした。あの小鳥にも聞かれないくらいに。
「そんなモンじゃない、ココは!」
コーニスの表情は明らかに怯えている。全身が振動している。
「落ち着けコーニス、一体何が怖いんだ」
コーニスは空を見回した。
「……さっきの花」
「花?」
「さっきの赤い花、どうにも嫌な予感がする」
「モダチが道標として教えたヤツか?」
「ああ」
コーニスは必死で頷いた。
「あの花、知ってるのか?」
「それが……」
「それが?」
「……」
コーニスは険しい表情で視線をそらす。
「……確かに、この森は兵士達を滅ぼした恐ろしくも謎の森だ。あんな鮮やかな赤い花がおかしなものであっても不思議じゃないが」
「そうだけどもいやそうじゃなくて……、まだ思い出せないけどもさ、あれは何だかヤバい代物だったような、確かあれは……」
「キャッ!?」
……ターラの悲鳴!
「ターラ!?」
急いでターラの所へ向かうと、尻餅をついていた。その視線の先には、白骨の遺体がある。
「何だ、死体じゃねーか。ったく、これだから非戦闘員の女は肝が小せぇ……」
近くにいたカムドは荒い鼻息を吹くと去っていった。彼女の後ろにいるセトロアも呆れ顔をしている。
「……立てるか?」
「はい。ごめんなさい……」
ターラは立ち上がり、俺の腕を掴む。
「ターラ、ちょっとこの死体を調べたいから離れてくれ」
「あっ、はい!」
すぐさま腕を離す。しかし、俺の背後から離れそうもない。
「トリィ、少し待ってくれないか!」
意外にも、遠くに行く小鳥はすぐに戻ってくる。思ったよりは従順だ。
……カムドとセトロアがどうにも面倒臭そうな態度をとっているし、この怪しい森に長居したくない。手早く済ませなければ。
「さて、どれどれ……」
パッと見た限りでは、近くにあったのはボロボロの荷物だけだ。あと気になったのは、頭に近い場所に小枝が立っていたくらいだ。
「!? その小枝……」
「どうした、コーニス?」
後ろに振り返りつつ遺体に触る。
バフッ!!
「なっ!?」
「ひゃっ!?」
「何だ!?」
コーニスやターラだけでなく、俺も声が出てしまった。遠くのカムドとセトロアも、ビクッと反応していたのが一瞬だけ見えた。
先程の白骨死体が、あっという間に粉末へと変わってしまった。その時に巻き起こった風のせいか、近くの小枝が倒れた。
「……この荷に書いてある名前は……、『ホック・タトリラント』と書いてあるな」
「あっ、それは……、」後ろで退屈そうにしていたセトロアが、こちらに近づいて荷物を見てきた。「二年前、殺人で指名手配された人の名前ですね」
「指名手配?」
「ええ、確か料理人で、先輩達からイジメや心無い悪口を受け、それに逆上して
「ああ」
セトロアはテキパキと遺体だった粉末の荷物を取り出す。包丁やまな板、フライパンなどの調理器具がたくさん出てきた。
「……多分、間違いないですね。目撃情報で調理器具をたくさん持っていたとの事ですから」
「フン、犯罪者が逃げられなくなって自殺したんだろ」
今度はカムドも来た。それをセトロアが睨む。
「それは分からないですよ。同じようにあの『賢者』に頼って来て……」
「はぁ? 俺に意見する気かテメェは? ナマイキな口叩くな!」
「ぐぁっ!?」
カムドはセトロアの胸倉を掴んだ。
「ちょっ、離してください!?」
「ハッ! 軟弱魔法兵のガキが、アホみてぇな顔しやがって!」
セトロアの嫌がる顔を、とても愉快そうに笑っている。
──早く止めなければ……!
そう思ったその時、ターラがカムドにしがみついた。
「やめてください!」
「うるせぇぞ女ぁ!」
「キャッ!?」
振り払おうとする腕を掴む。かなり暴れるので、細い手首の方にスライドさせ、何とか抑える。
「やめろカムド!」
「何だっ!? 」
「……その両腕を降ろさないのなら、将軍にお前の悪態を報告する」
「っ!?」
「しかし降ろせば、不問に処す」
「……偉そうにすんなっ!」
カムドは睨みつけてきた。しかし怯むわけにはいかない。
「偉そうにするのは当たり前だ! 俺は隊長だ!」
「ふざけるな!」
「ふざけてはいない! お前は出世したいんだろう!」
「ああそうだ! テメェなんかよりずっとずっと上になって、ふんぞり返るんだよ!」
「俺の報告一つで、お前の出世に影響が出るぞ!」
「ぐっ!」
カムドの腕の力が無くなったのを感じる。チャンスだ。
「出世したければ、その腕を離せ!」
「ぐ、ぐぐ、っ……!」
その瞬時、セトロアの胸倉を掴んでいた手を離した。苦悶の表情を浮かんでいるセトロアが木の根に腰を撃った。
「だ、大丈夫ですか!?」
ターラがセトロアのもとに駆け付け、急いで光る杖先を腰に近づける。回復魔法をあまり多用させたくはないが、ここはターラの想いを尊重する事にした。
「クソが……」
カムドは不満全開のオーラを放ちながら、その場を離れた。槍斧を構えると、近くにあった細く小さい木を、一振りで真っ二つにした。
「おい、どこ行くんだ!?」
「……おい鳥、案内しろ!」
しかし、空中で止まったまま小鳥は動じない。カムドは小鳥にも同じように睨むが、動じない。我慢できなくなったカムドは、乱暴に刃先を小鳥に向けた。
「カムドっ!」
「さっさと動け!」
それでようやく小鳥は奥へと飛んでいった。真っ赤な顔になったカムドは荒い鼻息を吹くと、槍斧をしまって小鳥について行った。
「おい待て!」
追いかけないと! ……いや待て、セトロア達が心配だ。
振り返ると、セトロアは立ち上がっていた。
「……おいセトロア、歩けるか?」
「あ、大丈夫です隊長。……二人とも、行きましょう」
セトロアの視線の先を追うと、ターラとセトロアが、粉末状になった遺体の近くでモゾモゾと何かをしていた。
「二人とも、行くぞ」
「あっ、はい!」
「ああ隊長、行きます!」
二人は慌てて立ち上がった。その場所には、粉末になった遺体の上に新たに小枝が植えられていた。
「……遺体の近くに小枝を立てるっていうのは、フェルー族の
「へぇ、そうなんですね……」
ターラはまだコーニスとの距離を取りたがっているようだが、森に入る前と比べれば縮んだ方だ。以前のターラは、笑顔でくだけた口調で話すコーニスに対して固い表情だったが、今の笑顔は不自然な感じがしない。
「でも、あの死体にそんな事をしていたって事は、フェルー族の誰かがこの森に来たのかもしれないっすね」
「そうなりますね」
「まぁ、俺達フェルーは森と
聞き捨てならない発言があったが、ここは無視。
ターラが少し笑い、それを見たコーニスが産毛で覆われた尖り耳をピクピク動かす。さっきの険悪な雰囲気は消えたようだ。珍しく先に行っているセトロアはまだあの時の不満が消えないのか、歩きが雑に見えたが。
「何で小枝を植えるんですか?」
「ああ、そりゃ、森の中で亡くなった人間は自然に還り、樹となって蘇られるようにするため、その手本として近くに小枝を植えて模倣してほしいって意味があるんすよ」
「亡くなった人が樹になるようにって、すごい発想ですね」
「まぁ、俺達フェルー族は自然を敬うから、外の人間からしたら珍しいかもなぁ」
「……わたくしは、死んでも両親の元に帰りたいですね」
「そうか?」
ターラが俯いた。
「今、両親が寝たきりなので、心配で……」
正直、俺はターラの両親が倒れていたので知っていたが、それでもこの調査隊に加える事にした。魔法の腕も応急処置の腕も、彼女以上の回復士がいなかったからだ。
とても貧しい家の生まれである彼女だが、経済的に潤っている女性がなる事が多い後方支援の
だがやはり、両親想いの彼女を加えた罪悪感が俺の心の中にある。脚の進みが、心なしか遅くなっている気がして、意識的に速めようとしたが、ターラ達の速さに合わせないといけない。
「……だったら、」この空気を打ち破るかのように、コーニスが「この仕事終わったら、両親の所へ行ってやれよ」
「え?」
「『自分の大切な存在が生きて帰ってこない時ほど不幸な事はない』ってクオンが言っていたんだ。あっ、クオンてのは俺の友人でフェルー族の人間なんだけどよ、あいつ、大事な相棒が行方不明になってから、すごく落ち込んでばかりだったんだよな……。だからよ、生きて帰ったら、すぐに行って来いって」
「……そうですね、死ぬわけにはいきませんから」
二人はお互いに笑みを浮かべた。
ともかく、ターラの緊張感が解け、コーニスが怯えなくなったので良しとしよう。……警戒していないのは、別問題だが。
一方、少し前に進むセトロアはキビキビと進み、さらに前に行くカムドは案内する小鳥を真っ直ぐ見ながら足音を強く立てて歩いていた。
「……よし、これで調査は終了だ。ありがとう、小鳥。……いや、トリィ」
偽の調査を本当の調査に切り替えた以上、本格的に行わなければいけない。
求めた植物は全てスケッチ(コーニスのスケッチは図鑑並みにとても正確だ)し、また種や葉を一部持ち帰る事に決めた。この森を知るための必要な情報は少しでも欲しいところだ。ターラやセトロアも積極的に手伝ってくれたおかげで進んだ。
「よし、みんな。それじゃ、あの『賢者』の元へ一旦戻ろう。トリィ、案内を……」
「んな事より早く帰らせろよ、隊長さんよぉ」
周囲への警戒を頼んだカムドが、
「そういう訳にもいかんだろ。お礼はしないと」
「そうですよ、カムド」セトロアも入ってきた。今度は小声で話す。「あの子の事も調査しないと」
「何でそこまでしなきゃなら……」
「いい加減にしろカムド!」
思わず剣先をカムドに向けていた。しかしカムドもすぐさま槍斧を向けていた。
「何だそのふざけた行動は!」
「これ以上悪態を吐くな! 士気を下げる気か!」
「ブラム、偉そうにしやがってっ!」
「お前は俺の言った事を忘れたのか! 俺の報告一つで……」
「うるせぇ! もう我慢ならねぇ!」
カムドは苛立ちながら槍斧で地面を突き刺した。余りの勢いにセトロアが小さく悲鳴を上げた。
槍斧は深く埋まってしまったが、カムドはすぐさま引き抜いた。
「俺は帰る!」
カムドは早足で今来た道を戻ろうとし始めた。
「おい馬鹿かっ!? 森の中を勝手に歩くなんて自殺行為だ! やめろ!」
「知るか!」
カムドは大きな身体と装備に見合わない速さで走りだし、奥へと消えた。
「あっ、行かないでください!」
採集中だったターラが気付き、カムドを追っていった。ターラも消えていった。
──まずい!
「セトロア、コーニス、」二人が駆け寄ってきたところで、荷物からアレを取り出した。「そのまま待機して、このロープを適当な樹に縛ってくれ」
かつてこの森に入ったヴォレスト卿が使っていた、ロープを垂らして戻れるようにする方法だ。危険な森である以上、ここに入る前に使いたかったが、あのモダチという存在に不審感を抱かせたくない為に出来なかった。しかし今はアイツがいない。
すぐさま走り出す。
「隊長!」
コーニスの叫びは、思った以上に早く森の中に吸収されたように感じた。
──ダメだ……。
二人は完全に森の中へと消えてしまった。
どこに向かっても全て同じ風景にしか見えない森の中、目立つのはあの赤い花だけだ。二人が消えていった方向を追っている最中、花粉がキラキラと撒き降ってきて、頭にすこしかかった。
──一人も見捨てたくはない、が……。
ここは一旦戻るしかない。確かロープは……。
「ん?」
視点が定まらない。
握ったロープが二、三、四……。手も二、三……。
──疲れが出たのか……。
足元がおぼつかない。脚に力が入らない。腕も握った感覚すら分からなくなっているように感じる。
──おか、し、い、あたまが、ま、わら、な……。
……ヒュオッ。
「ん?」
ゴッ!
「な!?」
一瞬、何かが後ろから襲ってきたの感じた。考えるよりも先に横に跳んだ。
──今のは?
ショックで頭は冴えたが、やはり視点が落ち着かない。しっかりと目を凝らし、襲ってきた何かを見定める。
「黒い……ヒモ? いや、ツタか!?」
黒い
──トゲのある黒いムチのようなもので絞め殺された者もいた。
「もしかして、あれが!?」
すぐさま剣を取り出し、構える。
……ヒュオッ! ビュッ! バッ!
「っ!?」
今度も黒いツタが何本も襲ってくる。猿のように右へ左へと避け、どうにか距離を取る。
ビッ!
「グッ!?」
腕を強くはたかれ、剣を落としてしまった。骨にまでくる痛みが強く伝わってくる。さらに、棘が深く刺さって血が流れだしている。
落とした剣を拾おうとするも、襲い掛かってくる多数のツタを避けるのに精一杯の状態でどうしようもない。諦めざるを得ない。
手は、一つ。
ツタが来る方向とは反対側に足を向け、……駆ける!
「グッ……」
隊長としての不甲斐なさと痛みが、今までの
必死に走り続ける内に、目印のロープを見失ってしまった。分かるのは先程負傷した腕から流れ出る血の跡のみ。
「完全に迷ったか……」
隊長である自分が迷ってしまうなんてとても情けない。しかし、ここで死んでしまったら一生情けない。
──とにかく、コーニス達と合流しなければ……。
まるで操り人形のように彷徨い続ける。しかし、森の中の風景はやはり変わらない。あの赤い花も相変わらず存在する。
──さっきの赤い花、どうにも嫌な予感がする。
そういえば、コーニスがあんな事を言っていた。あいつの悪い予感は大抵当たる。
……あの花には近づかない様にしながら歩こう。
とはいえ、東西南北の感覚も分からないこの森の中、どうやって仲間と合流すればいいのか、見当がつかない。
だが、確実に言えるのは、この森が恐ろしく危険である以上、止まってはいけないという事のみだ。
「ん、あれは……、っ!?」
遠目で複数の人影を見つけた。しかし誰かが分からない。コーニス達なのか、それとも別の誰かなのか。
「おいっ、そこに誰かいるのか!?」
しかし、反応無し。
「……おいっ、大丈夫か!」
やはり反応無し。急いで向かう。
「おいっ、大丈夫……っ!?」
それは人影では無かった。人の骨だ。
白骨死体が無造作にあった。触ってみると、先程の粉末化した死体と比べてまだ堅い。
しかも骨には防具を着けており、比較的新しい。剣や槍、盾などの装備品も散逸している。
その武器も防具も見覚えがある。……間違いない。我が王国のものだ。あの軍のものか、その後の捜索隊のどちらかだろう。
そんなに時間が経っていないはずなのに、ここまで皮膚も内臓もキレイに無くなるなど聴いた事が無い。獣が食べたのかと思ったが、骨にヒビは一つも入っていない。そもそもこの森に入ってからはあの鳥以外の獣は見た事がない。……いや、犬の白骨死体らしき物は先程見たのを確認したが、生きた獣は見た事が無い。
まるで、肉だけ溶かしたようだ。だが、その骨はあまり濡れていない。血らしき赤黒い跡餓ついてるくらいだ。
──やはり、この森はおかしい。
他にも居ないか、辺りを見回す。
……やはり生存者は絶望的だ。しかし、この森の情報に繋がるものが、少しでも欲しいところだが……。
「ん、あれは……」
見覚えのある姿が倒れていた。つい先程まで、その姿を知っている。
「……っ!? ターラッ!」
倒れている彼女の元へ駆け寄る。うつ伏せになっていたので、すぐさま仰向けにする。
「ターラしっか……クソッ!」
手遅れだった。
彼女は苦悶の表情のまま、干物のようになっていた。息も体温も無い。身体中には、
あの黒いツタが彼女を殺したのは間違いないが、明らかに見失う前とは違っている。まるで、養分を吸い取られたかのように、森が人を食べ物として摂取したかのように。
此処は、化物の体内──そう、胃袋や腸だ。
森に入った者の栄養を吸いつくし、干からびさせる。
だが、絶望している暇は無い。
──わたくしは、死んでも両親の元に帰りたいですね……。
彼女の願いを叶える為にも、一緒に帰らねば……。
……ヒュゴォッ!
「っ!?」
風切る音が背後から聞こえた瞬間、横に跳ぶ。
「くっ、来たか!」
黒いツタだ。何とか避けられた。
「さっきのようには……、あっ!?」
黒いツタは、ターラの遺体に巻き付き、締め上げていた。
ギチギチと締め上げていく。
「や、やめろ、やめろぉ!」
手を伸ばそうとした。
……バキッ!
ターラは乾燥した丸太を巨人が潰したように四散した。頭が木の根に落ちた瞬間、爆発して煙と化した。その勢いで、何かがこちらに転がってきた。
目玉だ。
「ターラ……」
拾おうとつまんだ瞬間、
バリッ!
ヒビ割れていくつもの破片になった。
それらを全てかき集め、握る。
「……っ!」
ポケットにしまい、歯を食いしばり、近くにあった木の枝を手に取る。
「……このっ!」
意識よりも先に、先程まで締め上げていた黒いツタに突進していた。
その時。
……バフッ! バフッバフバフッ!
「なっ、花粉!?」
あの赤い花が、音を立てて周囲に咲き出した。そして同時に、花粉を当てつけるようにまき散らす。目耳鼻口に入り込む。
「ゴホッ、こんな花粉な……う、く」
また視線が定まらなくなった。しかも先程よりもひどく、世界が歪んで見える。腕も、脚も、全身に、力、が……。
──な、何だ、こ、れ……。
立ち上がれない。
何とか意識を保とうと、自分に喝を入れる。
視界がマトモになったその時、黒いツタに違う何かが巻き付いているのが見えた。必死で目を凝らす。
「……そんなっ!?」
妻と娘が捕まっていた。
「あり得ない、あり得ないあり得ない!」
二人は家にいるはずだ。こんな森に現れる事自体があり得ない。
しかし、
「……助けてぇ!」
「……たすけておとうさぁん!」
聞き覚えのある声が耳に入ってくる。見慣れた顔が苦悶の表情になっている。
──今までロクに構ってやれなかったのに……。
今まで国の為に働いてばかりで、家に帰る事が少なかった。だけど、それでも、妻と娘は笑顔で出迎えてくれた。
──忙しかったでしょう、夕飯用意してるわよ。
──おとうさん、おつかれさま~。わたしもてつだったんだ~。
「……離せぇぇぇぇぇっ!」
木の枝を持ち、黒いツタへ。
……ヒュバッ!
ビシッ!
「ぐっ!?」
いつの間にか、右腕に黒いツタが縛られていた。その途端に視界が明瞭になった。
妻も娘も、そこにはいなかった。
悲鳴も無くなった。
代わりに、自分が悲鳴をあげている。
「グァァァァァァァォォォ……。痛い、痛い、痛い痛い痛痛痛痛痛痛痛いっ!」
右腕の血が止まる、筋肉が裂けていく、骨が粉々になっていく、それらが一気に感じられる。明確に。
──は、早く、解かないと。
もがこうとした、その瞬間。
ベギィッ!
「ガアアアアアアッ!」
激痛で涙が出る。しかし、黒いツタからの束縛が無くなったのを機に、すぐさま距離をとった。
今の自分は、不思議な程に冷静になれた。
右腕が無くなっているのに。
「グ、グ、グ、ァ……」
情けない声を上げながら、息を整える。
黒いツタは、俺から奪い取った右腕を、まるで捕食するように絞り潰している。そして血を絞り出すだけ絞り出して、投げ捨てた。それは最早原型が無かった。
ターラの遺体を再生不能にさせ、右腕を奪った、忌々しい黒いツタ。そして、妻と娘の幻覚。
──逃げないと!
今までに無い種類の恐怖心がそれを上回った。
ヒュババババッ!
黒いツタは間髪入れずに襲ってくる。
──逃げ……。
「グァッ!? ァ……」
奪われたはずの右腕から壮絶な痛みがほとばしる。悶えるしかない。視界も再び歪み始める。
──逃げ、逃げないと……!
しかし、黒いツタは目前に迫ってきた。
──もう、ダメか……。ターラと同じように……。
……ヒュッ!
突然、耳元で風切る音が聞こえたと思った、その瞬間だった。
ツタの先に、矢が刺さった。
「特製の矢だ、食らいやがれ!」
後ろから馴染みある声が聞こえたと同時に、幾つもの矢が黒いツタに向かっていく。
……ボォッ!
今度は炎の帯がツタに襲い掛かった。ツタの勢いを止めることは出来たが、燃え広がらず煙を上げるだけで終わった。
「ウソ、燃えないなんて……」
この炎と喋りも、覚えがあった。
振り向くと、そこには見慣れた二人の姿があった。今度は幻でないとハッキリとわかる。
「コーニス、セトロア! ……ぐっ!」
立ち上がろうとするも、痛みがまだ治まらず、うずくまる。二人はこちらに駆け寄ってきてくれた。
「た、隊長、大丈夫ですか? その腕……」
セトロアの声が、現実感を取り戻させたような気がしてきた。
「はやくここから逃げるぞ! この花は危険だ!」
コーニスはナイフを取り出すと、花粉をまき散らし続ける赤い花を全部切り払った。
「隊長、いきましょう!」
セトロアはすぐさま俺の左肩を背負おうとしたが、それよりも早く立ち上がった。
「だ、大丈夫だセトロア、歩ける、から、グ!?」
腕の痛みは先程よりも引いていたが、それでも森のささやかな風に当たるだけで激痛が走る。
「た、隊長!?」
「逃げるぞ!」
逃げようとすると、セトロアが慌てて別の方向を指し示した。
「こ、こちらに向かいましょう!」
いつもは冷静でどこか卑屈そうに伏し目がちなセトロアが、とても感情的で、真っ直ぐ俺の目を見ている。
──心配している、のか?
そんな事を考えている場合じゃない。
「ああ、ありがとうセトロア! ……コーニス!」
「あ、ああ、隊長! っ、その腕!?」
コーニスが今になって俺の存在しない右腕に気が付いたが、その時の表情を見る余裕もなく、セトロアが示した方向に従ってその場を逃げた。
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