第6話 家飲み~一番大事なもの~

桜「いらっしゃい、どうぞ」

桜「遠慮しないで入って、こっち。ドアの向こうがリビングだから」

桜「ちょっと散らかってるけど、そこは目をつむるように」

桜「あ、クッションとミニテーブルを持ってくるから、ひとまずベッドに座って待っててねー」



桜「ごめんね、はい、準備できたよー」

桜「ミニテーブルをセットして、クッションを置いて、っと……」

桜「よしおっけー。はい、あとはグラス。じゃあお酒注いじゃうねー」



桜「おっとっとっと、うまくすりきりギリギリまで入れて、お、いい感じ」

桜「それじゃあお酒もそろったところで……」

桜「かんぱーい♪」



桜「ふふ、今日何回目の乾杯だろ」

桜「でも、あー、やっぱりおいしいね。喉に染み入る感じ」

桜「なんだろ、リラックスできてるからかもだけど、家で飲むとまた外で飲んでる時よりもちょっとまったりした味になる気がする」

桜「飲みなれたグラスで飲んでるっていうのもあるのかな」

桜「ん、このグラス? うん、モダン江戸切子」

桜「きれいだよね? 伝統的な江戸切子のデザインなんだけど、色使いとか現代風でおしゃれで。ふふ、お気に入りなんだー」

桜「え、これで飲んでたらなんだかお酒がおいしくなったような気がする?」

桜「おお、いいこと言うね!」

桜「そうなんだよ、お気に入りのグラスで飲むと絶対に普段の三倍おいしいの!」

桜「や、科学的にはなんの根拠もないんだけど、私的に!」

桜「私ね、酒器も大きく見れば日本酒の一部だと思うんだー」

桜「この江戸切子みたいに見た目がきれいで楽しませてくれるのもそうだし、お酒によってはワイングラスで飲んだ方がおいしいって時もあるんだよ」

桜「『金陵』のオリーブ酵母仕込みとか『陸奥八仙』のワイン酵母仕込みとか。ワイングラスって飲み口が上に向かって広がってるから、香りが開くんだー」

桜「あとはお猪口とかは縁が厚かったり薄かったりで飲み口が変わってきたりもするんだけど……このへんは語りだすと長くなっちゃうから今日は省略」

桜「また機会があったら解説するね」

桜「それより……じゃじゃーん、おつまみも用意したんだよ」

桜「いぶりがっこチーズ!」

桜「いぶりがっこって知ってる? 秋田県に伝わるお漬物で、囲炉裏の上に吊り下げてその人煙で燻すたくあんのこと」

桜「これがすっごく味が深くて燻された風味が最高で、それだけでも日本酒にすごく合うんだけど……」

桜「ふふー、ところがそこにクリームチーズを載せていっしょに食べると、まったく別物になるんだよ!」

桜「ま、だまされたと思って食べてみて食べてみて!」



桜「どうどう? いい味でしょ?」

桜「いぶりがっこのスモーキーさと、クリームチーズの酸味とコクがうまい具合に調和して一つになって……」

桜「おいしいしかないよね……♪」

桜「どっちも発酵食品だから合うのかな」

桜「で、そこに日本酒を流しこむと……」



桜「あー、もう最高! いぶりがっこの燻された深い味とクリームチーズの酸味を日本酒が包みこんでくれて、でもそれぞれの風味を邪魔しないでむしろ引き立ててくれて……」

桜「チーズの服を着た大根くんが日本酒の海にダイビングしてるのが見えるよね……」

桜「あとこっちはね、チータラをレンジでチンしたやつなんだー」

桜「並べて一分間チンするだけで膨らんでカリカリになって、またぜんぜん違った食感になるの」

桜「おつまみも面白いよね。ちょっとひと手間くわえるだけでぜんぜん違う味わいになるんだもん」

桜「で、そのどれも日本酒にすっごい合う」

桜「日本酒に合わないおつまみなんてこの世にないんじゃないかなって思うくらい」

桜「って、それはちょっと言い過ぎかもだけど……」

桜「でもだいたいのおつまみは日本酒にはぴったりだよ、うん」

桜「じゃあとりあえずこのおつまみといっしょに飲もー! お酒もおつまみもおかわりはいくらでもあるからねー!」


***


桜「あ、そうだ、このお酒、覚えてる?」

桜「うん、そう、『甲子』の『春酒香ばし』」

桜「きみと私が……知り合うきっかけになったお酒だよ」

桜「懐かしいよねー、もう二年近く前になるのかー」

桜「駅地下のデパートでお酒を探してたら、たまたまいたきみと同じ日本酒を手に取っちゃったんだよね」

桜「タイミングぴったりだったんだもん。や、見事な以心伝心だと思ったよ」

桜「で、最後の一本だったから譲り合いになって……」

桜「話を聞いたら、きみはご両親にプレゼント用の日本酒を探してるっていうから、だったらその世代の人たちにはもう少しクラシカルな味の方が喜ばれるかもよーってついつい熱弁しちゃって……」

桜「でもびっくりしたよー。話してるうちになんか学生っぽいなーと思って訊いてみたら同じ大学だっていうんだもん」

桜「しかも同じ歳」

桜「ま、よく考えてみればそんなに不思議じゃないのかもしれないけど。池袋だと日本酒を売ってる大きな売り場って限られるしね」

桜「あはは、だけどおもしろいよね、日本酒が繋いだ縁なんて」

桜「でも春は出会いの季節だし……春酒が出会いのきっかけになってくれても、それはそれでぜんぜんありなのかなって」

桜「なによりすっごい私たちらしいしね」

桜「でもそのおかげできみと知り合えたんだから、『春酒香ばし』にはほんっとに感謝だよ」

桜「……」

桜「ま、ちょっと思い出話とかもしちゃったけど……」

桜「というわけで、この思い出の『春酒香ばし』をこれから飲みまーす」

桜「このラベルも素敵だよね。桜の花びらの首掛けもかわいくっていい感じ」

桜「さ、それじゃ注いでっと……」



桜「……はぁ、おいしいねぇ……」

桜「微発泡の春らしいさわやかで味わいで、甘い果物みたいな風味もあって、梨とかリンゴのジュースみたいで……」

桜「スルスルといくらでも飲めちゃう感じ」

桜「……」

桜「さっきも思ったんだけど……やっぱり今日はいつもよりお酒がおいしいなぁ」

桜「おんなじお酒のはずなのに、ぜんぜん違う……」

桜「胸がドキドキして、じんわりと染みこんでくる感じがする」

桜「これって、やっぱり……」

桜「……」

桜「……」

桜「あのね……聞いてくれるかな?」

桜「私……気づいちゃったんだ」

桜「何で今日は……ううん、今日だけじゃない、きみといっしょに飲んでるとどうしていつもこんなにお酒がおいしいのか」

桜「えっと……」

桜「……」

桜「あれね、あるでしょ? いつも飲む前にコールするやつ」



桜「そう、あれ、『それじゃあ今日も……良い水、良い米、良い酵母。楽しんじゃいましょう、おいしい日本酒。おー』」



桜「うん、確かにおいしいお酒にはその要素はすっごく大事だと思う」

桜「お水とお米と酵母は、まさに日本酒を形作ってる要素って言っていいものだから」

桜「……だけどね」

桜「私、思うんだ。それを踏まえた上で、一番大事なのは……」

桜「……」

桜「『いい相手』なんだって」

桜「お水よりも、お米よりも、酵母よりも……」

桜「日本酒の味を一番よくしてくれるのは……」

桜「……その……」

桜「……え、ええと……」

桜「……」



桜「……と、飲むことなのかなって……」



桜「……」

桜「……」

桜「だ、だからかな……きみと飲んでると、すっごくお酒がおいしいのは……」

桜「甘くて、さわやかで、でも深みもあって……」

桜「たぶん、今まで生きてきた中で一番……」

桜「……」

桜「……え、ど、どういうことかって?」

桜「……」

桜「それは、だから……」

桜「……」

桜「そ、その……」

桜「……」

桜「……って、そ、それくらいわかるだろー!」

桜「……も、もう、言わせんな、ばかー!」

桜「……はー、はー、もう……」

桜「……」

桜「……ま、まあそういう鈍感なところもキミのいいとこでもあるんだけどさ……」

桜「……」

桜「と、とにかく、このこれで話はおしまい! 終了! の、飲みすぎちゃったよ……」

桜「こ、これもきみが悪いんだからね? きみと日本酒を飲む時間が楽しすぎるから……」

桜「……」

桜「……だ、だから……」



桜「……こうやってきみの肩によっかかるのも、よ、酔ってるからなんだからね……?」

桜「……全部、日本酒のせいなんだから……」

桜「……」

桜「……」

桜「あ、でも……気持ちいいなあ、きみの肩……」

桜「なんだか包みこまれるみたいですっごく落ち着く……」

桜「……」

桜「それにきみの匂い……私、好きかも……」

桜「くんくんくんくんくん……」

桜「……」

桜「なんだかお日さまの匂いみたい……」

桜「それに……」



桜「ふふ、きみの心臓の音が聞こえる……」

桜「ね、私のも聞こえるかな?」

桜「聞こえない? じゃあこうすれば……どうかな」

桜「ぎゅー……」



桜「へへー、なんか抱きマクラみたいだな」

桜「どう……聞こえる?」

桜「心臓の音ってね、聞いてる人の気持ちを落ち着かせてリラックスさせてくれるんだって」

桜「どうかな、私の心臓の音、きみを安心させられてあげられてるかな……?」

桜「もっと聞きたいって、思わせられてるかな……?」

桜「……」

桜「私は……きみの音をもっと聞きたいって思ってるよ……?」

桜「このまま、ぎゅーってし合って……」

桜「ずっと、ずうっと……」

桜「……」

桜「……」

桜「眠くなってきちゃった? ん、いいよ、このまま寝ちゃって……」

桜「明日は日曜だし、バイトも休みだし……」

桜「そうだ、よく眠れるように、トントンってしてあげる」

桜「ほら……トントン……トントン……」

桜「ふふ、私も昔よくお母さんにやってもらったんだよ」

桜「どう……なんかいいでしょ?」



桜「まだまだきみとやりたいこと、たくさんあるんだー」

桜「夏になったらたーくさん夏酒を飲みたいし、海とか山で楽しむのもいいよね」

桜「秋になったら蔵開きの季節。色んな酒蔵に見学に行ったりして……」

桜「冬にかけてはひやおろしと熱燗だよねー。ぐっと味が深くなった秋上がりを、色んな燗で楽しんだりして……」

桜「あ、その時にはこの前教えてもらったおいしいつけ方をやってみようね」

桜「ほんと、夢はいっぱい広がるなぁ……」

桜「……」

桜「だから……」

桜「……」

桜「これからも……よろしくね」

桜「おやすみなさい……」

桜「……」

桜「……大好き、だよ……」

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