7.初めての図書室で

「ベル…」

「アナ…」

「ベル…」

「アナ…」

「ベル…」

「アナ…」


「……」


(あ~こちら母上の太ももの上ぇ~太ももの上ぇ~。甘ったるい匂いがムンムンと香ってきて正直息するのもつらいです)


 場所は図書館、どんな高級椅子よりも座り心地のいい母上の腿の上に腰を下ろし、眼の前には広げられた分厚い本の見開き一ページが。

 この世界のことを知るには持って来いの最高の環境、望んでいた状況。

 しかし、父上と母上の声がそれらの環境全てをぶち壊してくる。


 最終奥義である大泣きが成功し、慌てた両親二人はあの後速攻で仲直りをした。

 イチャイチャラブラブ状態に戻ったのだ。まぁそれ自体は許そう。リア姉にとってもハッツェン、ジビラら使用人たちにとっても両親、お偉いさん同士が仲睦まじいのは良いことだから。

 しかし、それには『目の届かない所で、人に迷惑を掛けないように』という枕詞が付くことを忘れてはいけない。


 目の届かないところで?

 真上でやられちゃぁ逸らしようもないだろ。

 人に迷惑を掛けないように?

 さっきから頻繁に本を読むお口が止まってるんですけど母上。


(はぁ…仕方ない)


 奥義はここぞという時に使うからこそ奥義と呼ばれる。

 一瞬、お?泣いちゃうぞ?と思ったがそう頻繁に泣いてはいざという時に十分な効果を発揮できないと考え直し、また代わりに良いことを思い付いたので身を捩って母上の腕の中から脱出。図書室の隅でそっと息を潜めていたジビラ、ハッツェンのもとへと向かう。


 夫婦水入らずの時間を大切に過ごす、大いに結構。しかし俺にとっても今この時間は大切。ある程度のことは一人で熟せる大人にとって知識とは必要最低限の教養に過ぎない。しかし一人では何もできない子供にとって知識とは何物にも代え難い力そのものなのだ。


「アル、どこへ行くの?」

「いやっ…!」


 腕から抜け出されたことに気付いた母上が父上とのイチャイチャを一旦中止し、再び我が子を抱きあげようとするも俺は拒絶する。


「…どうされましたか?若様」

「じぃびら、ごほんよんで」


 それから図書室の片隅で能面のような顔のジビラにお願いした。本読んで?と。


「いえ、私のような者ではなく。奥方様のような教養高い方に読んで頂くことが最善かと」


 しかし、そこで「はい、分かりました」と頷くわけにはいかないのが雇われの身の辛いところ。見えないけど背後でショックを受けているであろう母上を立てて、しれっと俺を送り返そうとしてくる。いいぞ、計算通りだ。

 ハッツェンに声を掛けたらこうはいかなかっただろう。

 彼女は真面目で、隙あらば自作のノートを取り出し見たもの聞いたものをメモしようとする将来有望な若手侍女だけど如何せん経験が足りないんだよね。母上奥方様若様に板挟みされたら緊張で失神してしまうかもしれない。


「えぇ~…」


 ハッツェンの云々は置いといて、俺はジビラ…ではなく振り返り母上を見て不満そうに、少し寂しそうにする。この少し寂しそうなのが味噌だ。


「だって…ははうえ、ごほんよんでくれないもん……」


 ふはは、イチャイチャばかりして息子を顧みなかったことに対して罪の意識を植え付けるのだぁ。


「…ごめんなさい、アル。今度からはしっかりと本を読むから…ね?」


 そしたらこの通り。読み聞かせ全集中母上が完成する。

 子供の強みを嫌らしいまでに活かした悪魔的な作戦である。こちとら死活問題なのだ、手段を選んでいる場合ではない。


 母上の必死さに、こちら側も罪悪感が芽生えたけど心を鬼にして一応父上にも目線を送っておく。貴方もですよ?…と。


「…悪かった。一緒に本を読もう」

「あい」


 こうして、生後一年と少しでようやっと知識を得られる環境が整ったというわけだ。




 ◇◇◇




(アルテュールは賢い…途轍もなく、だ)


 魔道具シャンデリアに照らされた図書室。古びた紙とインクと木材、そして愛する人の甘い香りに包まれながらベルトランは愛息子の頭を撫でる。


 アルテュールが賢いことには薄々気付いていた。

 いくら泣いていても自分か、或いは妻であり母であるアデリナが顔を出せばすぐに泣き止むし、こちらから話しかければ何で遊んでいようともその遊びを止め眼を合わせ聞く素振りを見せる。

 生まれたばかりの息子は文字が読めなくとも空気を読んでいた。

 これは馬鹿には出来ないことであるとベルトランは思う。


 そんなことで子供の地頭の良し悪しなど分かるものかと人は言うだろう。確かにそれらは偶発的に起こり得るものだし、空気を読む=賢いは本当に成り立つのかと聞かれればベルトランとて首を傾げる。

 だがしかし、先ほどのやり取りがベルトランに『アルテュールは滅茶苦茶賢い』という確信をもたらした。

 自分たちのせいで本が読み進められないことに怒ったアルテュールの行動はぱっと見、子供としては当然のものだったが、最後のあの眼だけは違った。


 言い聞かせるような、窘めるような…そんな眼―――。


(あれを非凡と言わざるして何を非凡というのか)


 故にこそ、ベルトランは息子に訪れるであろう未来、困難続きの将来を不安に思ってしまう。


 アルトアイゼン王国北西部、が存在する場所に位置する都市スレクトゥを領都に持つヴァンティエール辺境伯家。

 そこの長男というのはそれはそれは高貴な身分であると同時に身分相応以上の責任や義務が重くのしかかってくる立場でもある。


 ある時は数万数十万の市井の民の生活を背負い机に向かいペンを走らせ、ある時は戦場で数百数千の部下と共に敵国アマネセル傭兵国を相手に命を削り合う。


 数万数十万という民と数百数千の部下の命を背負い一生を過ごすことこそが、大貴族の長男嫡男に生まれた時から定められている生き方なのだ。

 特権階級が特権階級で在るために逃げることは出来ない。逃げることそれ即ち特権階級に在ることを否定する、王侯貴族の在り方に否と唱えるようなものだから。


 そんな特権階級の中でもさらに上位。王家、公爵家の次に来るヴァンティエール辺境伯家のトップ。それがアルテュールに訪れるであろう未来、困難続きの将来だ。


 自分の後継者が有能であることを喜ばない経営者はいないように、ベルトランもアルテュールが時折見せる非凡さに将来を期待してしまう。

 しかし、自分の子が苦しむのを見たいという親がいないように、ベルトランもまたその非凡さが反ってアルテュール自身を苦しめてしまうのではないかと不安視していた。


 人間という生き物は皆、出来の良い者に期待を寄せたがる。逆に出来の悪い者にはどこまでも冷たく残酷だ。


 どれだけ偉くとも自分も所詮は人間。期待することは止められない。


 しかし、もし彼が重すぎる期待に押しつぶされ道半ばでポキりと折れてしまったとしたら―――。


(例え世界がアルテュールに残酷になろうとも、私とアナだけは温かく寄り添おう)


 ベルトランは心に固くそう誓い、絵本に眼を奪われている愛息子の頭をもう一度優しく撫でる。


「ちちうえ、くすぐったいでしゅ」

「はは、すまんすまん」


 彼の眼に映る愛息子は年相応に見えた。

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