6.父と母
アルトアイゼン王国北部、ヴァンティエール辺境伯領領都スレクトゥの中心に聳え立つ青色の城―――つまりはアルが探索している城のその一角。特別区画の三階にある書斎で小さな夫婦喧嘩が起こっていた。
「…そろそろ休憩にしないか、アナ」
大きな身体を縮こまらせ机に向かう男――アルの父ベルトランがそう提案する。
「さっきから全然進んでいないのに…ですか?ベル」
しかし、ベルトランの背後から聞こえて来た妻――アルの母アデリナの冷たい声によってその提案は一蹴されてしまった。
「…む。少しは進んでいる」
「へぇ…私にはずっと同じ場所を見ているようにしか見えないのだけど?」
「……」
苦し紛れに抵抗してみるもぐうの音も出ないとはまさにこのこと。アデリナの一言でベルトランは何も言い返すことが出来なくなってしまった。事実だからである。この男、全くもって政務に集中していない。
しかしそれは仕方のないことなのかもしれない。
何せ今日までにやらなければいけない政務は全て終わっていたのだから。今は妻兼秘書であるアデリナにやれることは早めに済ませてしまいましょうと言われ、渋々机に座っている状態だったのだ。
(あぁ…ペンではなく槍を握りたい)
耳のあたりに魔力を流し聴覚を強化すれば、窓の外、練兵場の方から僅かだが男たちの叫びが、剣戟の音が聞こえてくる。
根っからの武官系男子であるベルトランはすぐにでも練兵場に走り出していきたい、紙束を放り投げて向かえたらどれだけ気持ちよいのだろうと気持ちを昂らせた。
「……」
だがすぐに考えと共に魔力を霧散させ机の上の資料にまた目を通し始める。アデリナが咎めるような眼で自分を見ていることに気付いたからだ。
羽ペンを握り資料に噛り付く。頭の中は槍、鍛錬、汗しかないが。
「さ…進めて下さい。私はお茶を入れてくるわ。それまでにここまで終わっていたら休憩にしましょう」
そんな夫の頭の中が手に取るように分かる妻は、はぁ…とため息をつきすぐそこにあるキリのいいところを指さした。これ以上追い詰めても無駄だと判断したのだ。
アデリナとしてはアルテュールが生まれてから今日まで政務続きで夫婦水入らずの時間をあまり過ごせていない、だから出来るうちに仕事を進めて捻出した時間を一緒に過ごしたい…という細やかな願いがあった。そのために今日はいつも以上に政務補佐に力を入れたというのに。
しかし、その想いは夫の心に届かなかったらしい。
「…ベルのバカ」
少しだけでもいい。せめて一緒にお茶を、とアデリナは部屋を一旦後にした。
「御屋形様、若様が城内を散策したいとのことで、ご許可を頂けませんでしょうか」
「無論、良いに決まっているだろう」
◇◇◇
「どうだアル、高いか?」
「…あ…はは…たかいたかぁ~い」
(ジビラ…ハッツェン…助けて)
「「………」」
哀れな一歳児が送る心からのテレパシー。しかし受取先である侍女二人はさっ…と目を逸らし、受け取り拒否しやがった。ブロックである。ぴえん。
それでも高い高いもとい父上の高すぎる高すぎるは続く。
そう、俺は今父上と遊んでいた。探索の最中だったので当然場所は特別区画の一階である。
ハッツェン、ジビラと共に特別区画の二階にあるという図書室へと向かっている途中に父上とエンカウントしたのだ。
「楽しいな、アル」
「あ、あい…ぼくもでしゅぅ」
正直言って早く降ろしてほしい。
あまりにも身長差があり過ぎて父上がどれくらい身長があるのかは分からないが、絶対に低身長じゃない。むしろその逆、高身長の域に入っているのは分かる。
そんな父上がブンブンと俺を上げたり下げたりしているのだ。がっしりと胴体をホールドされているから落ちる心配はしていないけど、その安心感がなければ号泣していた。それくらい怖い。一秒に一回落下するタワーオブテラーと言えば分かるかな?この恐怖が。
(でも言えない、怖いから早く降ろしてほしいですって)
俺は愛想笑いで細められた眼からリア姉と同じ、鈍く美しく光るタイガーアイのような父上の金眼を見て思う。楽しそうなんだよな父上、と。
父上はどちらかというと感情表現が豊かな人ではない。常に無表情とは言わないが表情から感情が読み取りにくい人だ。
そんな父上が目に見えて楽しそうにしている。何かから解放されたような晴れ晴れとした表情をしている。
だから俺はされるがままにしている。この笑顔を曇らせるのはちと良心が痛むんだ。
(とはいえ流石にもう降ろしてくれないかな…)
「よし、アル。どこに行きたい?父に言ってろ。連れて行ってやる」
「…ごほんがみたいです」
「よし分かった。アルは勤勉だな、偉いぞ」
高い高いが終わってもなお俺を地面に降ろすことなく、今度は肩に尻を乗せる形で担ぎ、歩き始めた父上。「あれは―――以下の者が訪れた時に使用する―――室だ」とか「あれは―――の時に使用する手筈になっている―――だ」とか、懇切丁寧に各部屋の使用用途を教えてくれるんだけど、何せ所々の単語が分からないため何を言っているのか珍紛漢紛だ。
親切心でやってくれているから無下にも出来ない。また御屋形様とハッツェンたちに言われていたあたり、身分的に止められる人物がこの場にいないというのが質の悪さに拍車をかけている。
なおハッツェンとジビラにはブロックされたままだ。
一歩一歩が一歳児の何倍もある陸戦艦ベルトランは周りの景色を置き去りにしてどんどん目的地へと進んでいき、あと少しで図書室というところまで来た。
「あと少しで図書室だ」
「あいがとうごあいましゅ、ちちうえ」
「礼には及ばんよ」
(また今度、
今日の探索は諦めて本に集中しよう、そう心に決め、父上の青色の髪を一本二本と手持無沙汰になった手で引き抜く。
「「……っ」」
そこで俺は身震いした。途轍もない悪寒に襲われたのだ。
(なんだ?)
俺と同じように、ブルりと身震いした父上の横顔を見る。
あり得ないくらい白かった。血の気が引いているのが見て取れた。そしてすぐに、父上の視線が目の前にある図書室ではなく、長い廊下の先に向いていることに気が付く。
「――あなた、そこで何をしているのですか?」
遠くから聞こえてくる鈴の音色のような綺麗な声。とても冷たかった。聞くだけで体感温度がガクッと下がる。でも同時に、心の中がポカポカする。その声を聞いて心が喜んでいるのだ。
「ちちうえ…?」
「……」
少し前まであれほど楽しそうだった父上の表情に影が差す。その影に名前を付けるなら……そうだな、後ろめたさ…と言ったところか?
「ちちうえ…おろして」
「あ、ああ…」
本能がそう感じ取ったのか、繋がった血がそれを教えてくれたのか。
ここにいては危ない。そう感じた俺は久しぶりの地面に喜ぶ間もなく、トテトテと駆け足で吹き付ける吹雪の風上へと向かい、その胸に飛び込む。
「ははうえ!」
「あら、アル。こんなところまで来れたの?」
「あいっ、がんばりますた!」
「すごいわね~」
屈み込んだ母上の腕に抱かれ、胸に顔を埋める…なるべく眼を見ないように。何故なら滅茶苦茶怖いから。
「あぁ…アル」
背後から情けない父上の声が聞こえるけど無視だ。多分父上は何かやらかして母上をキレさせたのだろう。先ほどの影、後ろめたさが恐らくだが関係している。
そう言えば、特別区画に入るときハッツェンが今は父上と母上、仕事中とかなんとか言っていなかったっけ?
「仕事を放り出して息子とお遊びとは…随分といいご身分ですね?私も子供たちと遊ぶのを我慢していたというのに」
「……」
(あ、やっぱり脱走しちゃったんだ)
どうやら父上は仕事を放り出してきてしまったらしい。盗み聞いた侍女たちの話では母上は父上の仕事を手伝う秘書的な立ち位置だったはず。そうであるなら今の母上の怒りにも納得できる。
「あなた?」
「…分かった。すぐに戻る」
「今すぐに…ね?」
「…あぁ」
俺に向けた声とは180度異なる、温かみを一切感じさせない声。嵐が過ぎるのを母上の腕の中でやり過ごしながら、脳内メモ帳に『強さ 母上>父上』と書き込んでおく。これは夫婦喧嘩などではない。尻に敷かれる夫と敷く妻の図である。
(ん~…なんだかなぁ……)
でも執務室に戻ろうとする父上の哀愁漂う背中を見て、ふと思ったんだ。本当に悪いのは父上だけなのかな?って。
前世の17年間、短いけどそれなりに太かった人生から喧嘩ってのはどちらかが完全に正しくて、どちらかが完全に悪い…なんてこと早々にないことを俺は知っている。
完全に正しいと見られている側の人間にも少しくらいは落ち度があるはずなのだ。
俺はその落ち度…母上の悪い部分を去り際の父上の瞳の中に見た気がした。
(あれは怒りだ…)
そう。小さな、本当に小さなものだったけど確かにあれは怒りの感情だった。
といっても後悔や後ろめたさ、反省の色とかで薄められに薄められて不貞腐れているような印象しか受けなかったけど。
それに…―――
「ベルのばか…」
「……」
―――…上からすごく乙女チックな囁き声がするのだ。
思っていても実際に出てしまう行動はそれと真逆で。伝えたいのに伝わらない、伝わったと思っても伝わっていない…そんな甘酸っぱい青春の匂いが上から香ってくるのだ。
(勘弁してくれぇ…)
両親のじれったい恋物語。誰が見たいんだ、そんな色物。せめて子供のいないところでやってほしい。
しかし、それは致し方ないこと、避けようにも避けられないことだと気づく。
「…ちちうえ」
「…なんだ」
トボトボと執務室に帰りそうな父上を
深海を思わせる眉辺りまで伸びた青髪、鋭利な目元とリア姉と同じく鈍色の光を放つ金眼、綺麗な鼻筋。少し不愛想な貴公子といった印象を受ける顔立ちだ。
そわそわと言葉を待っている父上を一時放置して、次に母上のご尊顔を拝見。
夫が夫なら妻も妻だ。
金髪碧眼という王道にして最強の美女特性を持ちながら、目元は少し下がっていて左目尻の少し下にはポツリと小さな黒子が一つという少しエッチな優しいお姉さんという童貞殺しの特性まで持っている。当然お約束と言わんばかりに各パーツの形、位置は整っていた。
そして何よりこの二人、若い。
この世界、
多分だけど二人とも25いってないんじゃないか?
下手したら大学生くらいの年頃かもしれない。
そりゃイチャイチャもするわけだ。十代の後半、二十代の前半なんていくらイチャイチャしてもし足りないだろ。知らんけど。
もちろんすれ違いだって多く起きる。知ら…―――
「あなた、戻らないんですか?…その…戻らないのでしたら…」
「私は今アルと話しているのだ」
「……」
(ほれ、また起きたぞ)
これが赤の他人同士のカップルとかだったらいいぞぉ~やれやれ~って思えるんだけど、やってるのうちの両親なんだよね。家族内でギスギスするのは勘弁だ。
でもこの二人本当は超が付くほど仲がいいんだよね。
俺知ってるよ?
まだまだ長時間起きることが出来ず、寝返ることも出来なかったあの頃。子供が寝ているのをいいことにベットの前で手ぇ握りあってチュッチュしてたでしょ。「家族水入らずの時を過ごしたいのだ」ってわざわざ近くで控えていた侍女たちの人払いをしてまでさ。寝たふりをしているこちら側の居た堪れなさといったらないよ。
でもあの時は確かに幸せを感じていた。恥ずかしいよりも安心が勝っていた。
いきなり知らない世界に放り込まれた異物、右も左も分からない俺を安心させてくれたんだ。愛のある家庭に生まれてよかったなって。
「どうした、アル。私に何か用があるのだろ?」
「アル…ご本読みましょ?」
「「……」」
俺の気持ちも知らないで嬉しそうに語り掛けてくる父上と母上。空気になるハッツェンとジビラ。
(あぁ、本を読みたかっただけなのにどうしてこうなるんだ)
思い通りに事が運ばない苛立ち、助けを求めてもブロックされる悲しみ、両親には仲良くいて欲しいという切なる願い。
それの想いが全てごちゃ混ぜになって、次第に視界がぼやけてくる。
しかし俺にはその時、一筋の光が何処からともなく差してきたような気がした。
(おいこら身勝手な大人たち、いいのか?いいのか?)
身体がどんどん熱くなり、目元が臨界点に達する。
(――泣いちゃうぞ?)
そう思った次の瞬間、溜まりに溜まったダムは決壊した。
「びえええええええええええええええええ!!!!!ちちうえとははうえなかよくしちぇーーーーーーーーーー!!!!!」
必殺奥義―――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます