4.姉弟
ヴァンティエール家長女のオレリアは天才である。それも文武両道型の天才だ。
生後半年ほどで二足歩行を始め、二歳を過ぎるころにはしっかりとした受け答えが出来るようになっていた。転生者であり、子供としては些か聡すぎるアルテュールがこの子も賢いわねぇ…くらいで済んでいるのはこの幼女のお陰だ。
他貴族家の子女よりも早くに家庭教師が付き、賢さに磨きをかけているオレリアは近い将来『神童』としてその名を王国中に轟かせることになるだろう。ちなみにヴァンティエール辺境伯領がある王国北部では既に『ヴァンティエール家の神童』の異名で知られている。
そんな天才幼女。オレリアは現在、少し前に一歳の誕生月を迎えた弟のアルテュールに夢中だった。
彼が生まれてからは毎日毎日、大好きな外遊びの時間を削ってまでアルの部屋までダッシュで通い、家庭教師か或いはシスターゼルマが迎えに来るまでアルと一緒に遊んでいる。
最初は「何だこの可愛い生き物は」という初めて弟が出来た喜びで両親とともに足を運んでいた。頭の回転が早すぎるが故に同年代の他家の令嬢と話が嚙み合わず、才能が有り過ぎるが故に同い年の子から怖がられていたおままごとよりも木登りが好きなお転婆娘は毎日弟の部屋に訪れてはもっちもちの頬を触って暇を潰していたのだ。
だが少しして、彼女はその暇つぶしに飽きてしまった。当然だ。身体を動かすことが大好きなオレリアからしてみれば、足を運んでも大体は寝ていて頬を突いて起こしてもまたすぐに寝てしまう赤子なんて全くもって面白くない。
でも彼女は毎日足を運ぶことを止めなかった。
天才の勘というのだろうか。オレリアは時折自分を見つめる弟の瞳の奥に並々ならぬ知性を感じ取っていた。
不思議だった。分からなかった。だから面白いと思った。
それから少ししてアルテュールが長時間起きれるようになり、一方的な会話をしているうちに彼女は分かってきた。この子は自分の言葉を理解してくれているのだと。要は賢いのだと。
気付けば夢中になっていた。夢中になっていたが故にアルの口内を火傷させてしまい、罪悪感から泣いてしまったこともあったがその時は泣きながらも自分を気遣うような眼を向けた弟に知性以上の優しさを感じた。さらに夢中になった。
「あははっ、すごいわ!アル!」
―――そして今。自分が投げた球を紙一重のところで躱した弟を前にしてオレリアは大興奮していた。
彼女の手から放たれた球は以前、許嫁候補として訪れた他家の同年代の男子を泣かせたものだ。その球をアルは躱した。しかも完全に見切り最小限の動きで躱したのだ。そこに天才幼女は弟に宿る才能の片鱗を見た。もしかしたら自分の全力を受け止めてくれるのでは?と期待し歓喜した。
ただその一方で顔を青褪めさせている人間もいる。もちろんそれはヴァンティエール姉弟を周りで見守っていた侍女たちだ。
オレリアのお転婆具合は専属侍女アグニータに限らず、上から下の下までヴァンティエール家に仕える者全員が知っている。
『オレリア様から目を離すな。一回目を離せば一回無茶苦茶をなさる』とは使用人に広く伝わる心構えである。実際、先日も侍女たちが目を離した一瞬の隙に中庭の木に登り落下して怪我をしていた。
だがしかしそれでも。まさか上投げで、しかも剛速球を一歳児相手に投げるとは思わなんだ。オレリアはお転婆であるがどの子供よりも賢い。それくらいの分別はあると侍女たちの誰もが思っていたのだ。
「若様!」
「オレリア様!」
その場が静まり返った一瞬の膠着の後。侍女たちは顔を真っ青にさせて我先にとアルテュールのもとへ、オレリアのもとへと駆け寄る。
アルテュールに対しては「どこかお怪我はありませんか」と全身を触診し、オレリアに対しては「早い球を投げてはいけません」と叱った。
(…あっ)
そこに至ってオレリアはようやく気づいた。自分がしてしまったことの危険さに。
弟と外で遊べる喜び、姉の威厳を守るため、初めて見た自分に並ぶ才能の片鱗。興奮していて今の今まで忘れていた。アルは、自分の遊び相手は丁寧に接しないとすぐに壊れてしまう一歳児なのだ。
「ご、ごめんなさいっ、アル……」
すぐに謝りたくて、嫌われたくなくて……怖がられたくなくて。必死に堪えてもなお溢れ出てくる涙を拭うこともせず、自分の身体に伸びる複数の腕を潜り抜けて、何故か身体をくねらせていた弟のもとへ駆け寄り声を掛けた。
◇◇◇
(あっぶねぇ…)
冷や汗がツーっと背中を伝うのが分かる。
想像以上だった。まだ地味に痛む頬が、鷲掴みされていたボールがリア姉の力の強さを教えてくれたからもしかしてノーバンで届くかもしれないと思っていたけど、まさか剛速球とは。ありゃ高学年の男子が投げる球だ。五歳児が投げていい球じゃない。
前世の小学校時代にドッヂボールを真剣にやっておいてよかった。じゃなきゃ咄嗟に半身になって躱すことが出来ず、直撃して泣いていたに違いない。
「若様!」
綺麗に避けることが出来た爽快感とあと少し遅ければというスリルを味わった俺の耳に悲鳴じみた声が入る。右に眼を向けると顔面蒼白の侍女たちが駆け寄って来ていた。
まさかリア姉があんな速い球放って来るとは予想してなかったのかな?「お怪我はありませんか」とか「怖かったですね」と俺の全身を隈なく触ってくる。
(あ、ちょっ、そこ、やめっ…)
くすぐったいからやめて欲しい。しかし侍女たちはみんながみんな整った容姿をしているのでこのまま続けて欲しいという矛盾と戦ってるとリア姉の声がした。
「ご、ごめんなさいっ、アル……」
震えていた。声も、瞳も、立ち姿も何もかもが震えていた。
限りなく過呼吸に近い浅い呼吸、金色の瞳から流れ出す大粒の涙、拳をぎゅっと握りしめこれ以上近づこうか近づかないか迷っている足。
どこからどう見てもやらかしちゃったと自覚しているリア姉がすぐ傍までやって来ていた。
(やべっ、なんとかしないと…!)
年端も行かない女の子が眼の前で泣いてる、それも自分の姉ときた。そして何より前の哺乳瓶事件の時とは違って、泣き叫びたいのを必死に我慢しているように見える。心の底から反省し謝っていることがビシビシ伝わってきた。
ここで動かねば男が廃るというもの。
(不肖アルテュール。リア姉をお助け致す)
まずは俺とリア姉の行く手を阻む侍女たちの手を退けなければ――。
まるでリア姉を危険物のように見る侍女の腕を力の限りで抓り上げた。
「痛っ…」
「……」
「…っ」
(仕事の邪魔してごめんよ)
次に急に腕を抓られた挙句、感情の籠っていない眼で見つめられた侍女に心の中で謝り周りを見回す。
俺のもとに駆け寄って来ていた侍女たちは一人を除き、そのほとんどがリア姉に対して警戒態勢を取っていた。
気持ちは分かる。だって君たちの仕事は俺を守ることだもんな。
でもそれじゃあリア姉があまりにも可哀想じゃないか…。相手はまだまだ力の制御が出来ていない五歳児。力加減で失敗することなんか山ほどある。
「若様…」
「じゃま―――。」
「…失礼致しました」
最後に侍女たちからの静止を今度は口で断り、リア姉のもとへ歩み寄り震える彼女の手を握った。
「りあねぇ…あしょぼ?」
「アル…で、でも」
「ぼくとあしょぶの…いや?」
「っ…そんなことない!」
「じゃああしょぼ?」
決して放すまいと両の手でリア姉の手を掴みながら瞳を覗き込む。
(あぁ…その気持ち。よくわかるよ。怖いよね、それ)
涙に濡れ光り輝く金色の瞳。その瞳に映るのは恐れだった。
俺自身も今のリア姉と同じような状況に陥ったことが前世であるから分かる。
誰だったか…剛君だったっけな。そんなに力を込めたつもりはなかったのに、俺に押された剛君は跳ね飛ばされるようにして後ろに倒れたんだ。
いやぁ…忘れたくても忘れられそうにないね。その後俺が何か行動を起こそうとするたびに近くにいた剛君が身体をびくりとさせて……俺の心はゴリゴリと削られたね。あれはキツイ。自分は他と違うことを嫌でも分からせてくる。
大人からしたら他と違うはむしろ褒め言葉なんだろうけど、子供にとっては不安を煽るものでしかないのだ。
「りあねぇのたますごかった!」
「へ…?」
だから褒める。君は他の子供たちと違うんじゃない。君は他の子よりすごいんだ、と。口だけでなく身振り手振りで伝える。
「ぼくもりあねぇみたいに、なげたい!」
「…ほんとに?」
「うん!」
「し、仕方ないわねっ。お姉ちゃんが投げかた教えてあげるわ!」
そしたらほらこの通り。元気いっぱいになったリア姉が完成です。
「アル、行くわよっ」
「あい!」
震えが止まったリア姉の手に引かれて地面に転がりっぱなしだったボールのもとへ向かう。
「アル、ごめんね」
その途中、リア姉が俺の眼を見てもう一度謝って来た。先ほどと違って悲壮感はそれほどない。
「りあねぇ…ぼくあいがとのほーがうえしいな」
でもねリア姉。こういう時はありがとうを言うのが正解なんだよ。
「ふふ、そうね。ありがと、アル」
「あい」
賢いリア姉は俺の言葉の意味を理解してくれたようだ。
◇◇◇
「あれで一歳なのよね…」
「やっぱりお貴族様はすごいわ」
「貴族のご子息ご令嬢、皆が皆オレリア様、アルテュール様のようにあるわけではありませんよ。ヴァンティエール家が少し特殊なだけです」
「あ、やっぱりそうなんですか…」
「はいは~い。ちなみになんですけどシスターゼルマは幼少期の頃の御屋形様を見たことありましたか?」
「ありますよ。オレリア様と同じくよく中庭でお怪我されていましたから……ほら、アルテュール様から目を離してはいけません」
「え~少しくらいなら…」
「――オレリア様から目を離すな」
「「「…一回目を離せば一回無茶苦茶をなさる」」」
「歳の功が為す勘ですが、アルテュール様も例外ではないと思いますよ?」
「「「……」」」
侍女たちは寝台に横たわり規則的な寝息を立てるアルテュールへと眼を向ける。
「むぅ…」
するとアルテュールは目を瞑ったまま口をへの字にした。それを見て侍女たちはもにゅもにゅとだらしなくにやける。
「おかわわわわぁ…」
「若様は天使のままですよぉ…」
だが侍女たちは知らない。
自分たちの声で起きてしまったアルテュールが寝たふりをしていることを、言葉の意味が分かっていることを。「中庭で喋り過ぎちゃったかなぁ…」と思っていることを。
(あ~あ、こりゃ起きてるねぇ。…耳を傾けている?はぁ…ヴァンティエールのもとには神童しか生まれないのかね…この家の養育係は大変だねぇ)
シスターゼルマはそんな侍女たちの苦労に満ち満ちた未来を視てご愁傷様と思うのだった。
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