9話 箒木左門

 九重市内に唯一ある総合病院の病床すべてが東條組のヤクザで埋まった。幸いにも死人は出なかった。瓜生静は逃げた。ひとりだけ無傷だったので逃げやすかったのだろう。

 病床のひとつはルイス・リダンパーのものになった。肩を撃たれただけなので退院しようと思えばいつでもできるのだが、残念ながらルイス、左門、それに劉青峰こと立花寅彦は事件の重要参考人だ。警察がなかなか目を離してくれない。


 しかし、立花の姿も既に九重市内にはなかった。彼も消えてしまったのだ。


 膝を撃ち抜かれながらも左門の後を追い、八房平八ことかつての八房の跡取り息子、九重海岸を呪いの土地にしたあの男を射殺した煤原信夫には、何らかの処分が下されるという話だった。

幽霊aaveを撃っただけなのに?」

「彼、煤原さん、人を撃つの二回目らしくて」

「二回?」

「そう」

 白いベッドに横たわるルイスが、訝しげに首を傾げる。

「あの人もともと警視庁にいたんだって」

「東京」

「そう。で、刑事として色々期待されてたらしいんだけど、大きな捜査の時にその……撃っちゃって……」

「ワオ」

 響野憲造から聞いた話だ。クルマで左門たちを迎えに来ると言っていた響野は浜辺で大騒動が始まったことにより現場に近付くことができず、すべてが終わるまでウロウロとその辺りを徘徊していたらしい。なんて使えない男なんだ、と左門は思った。


 響野も、間宮も、小野美佳子も、皆警察に拘束されている。


 菜生俊哉殺害の瞬間について、左門もルイスも供述を拒否した。というか「何も見てない」と言い張った。犯人は人魚なのだ。だが、そんなことを正直に述べてもまったく意味がないだろう。

 立花に手首を落とされたヤクザたちは全員が錯乱状態に陥っていた。証言は期待できない。

「左門」

「何」

「ボスはまだかな」

「ね。俺もずっと待ってる」

 箒木左門は面会時間いっぱいをルイスの病室で過ごし、残りの時間は警察が手配したビジネスホテルの一室で過ごすという生活を送っていた。常に監視が付いている。けれど気にならない。成すべきことを成したのだから。


 数日後、小野美佳子と間宮カナメが病室にやって来た。ふたりの取り調べは終了し、この土地を離れるのだという。響野憲造を運転手として置いて行こうかと言われたのだが、そもそもクルマ自体は間宮の持ち物だという話だし、響野だけが近くにいても普通に邪魔なので断った。

「あん時」

 と、小野美佳子が尋ねた。

「左門さんにも見えとったんですか? その……」

「……うん」

 囚われの人魚と、幽霊──いや、悪霊か。人魚たちの平和を何十年という年月を超え、自らの肉体が朽ちても尚執拗に脅かす八房という悪霊。そのボスみたいな存在が、左門にも見えていた。

「最終的にやっつけたのは俺じゃないけど」

「ほいでも、ありがとうございました」

 深々と頭を下げる小野美佳子が心底あの人魚を救いたかったのだと分かって、左門にとってはそれだけで良かった。

「ちなみにだけど」

 小野を先に病室から出した間宮カナメが声を潜めて言った。

菜生七人目を浜辺に呼び出したの小野ちゃんだから」

「えっ」

「えっ」

 左門とルイスの声がハモる。間宮カナメはくちびるの右端をキュッと引き上げて笑い、

「あんたたちが思ってるほど清純かわい子ちゃんじゃないからね、小野ちゃんは。人魚と何度も連絡を取り合って、あの日、菜生が弁護士ぶん殴って病院抜け出す手助けもしてるから」

「さ、殺人幇……」

「言いっこなーし、じゃね!」

 楽しげな口調で言い残し、間宮は去った。ルイスは眉を下げて笑っていた。


 二桁の回数の取り調べを受け、ようやく箒木左門とルイス・リダンパーは解放された。とはいえ指名手配犯である立花寅彦とそれなりに深い繋がりを持つ彼らが完全に自由の身になることはない。まずは警察車両で、九重市から東京まで送り届けられることになった。

 運転手は、煤原信夫だった。

 特に会話のないドライブの最中、クルマは小さなサービスエリアに滑り込んだ。

「降りろ」

 煤原が短く命じた。

 数少ない手荷物を持って下車した左門とルイスの前に、左ハンドルの真っ赤なクルマが滑り込んでくる。

「おう」

 助手席の窓が開く。立花が座っていた。

「ボス!」

「煤原さん、これは……」

 再会を喜ぶルイスと、唖然とした表情の左門に、

「俺も探偵に転職するかな」

 と煤原は肩を竦め、そのまま九重市方面へと戻って行った。

 クルマの運転席に座っているのは、見知らぬ黒髪の男だった。

関東かんとう玄國会げんこくかい山田やまだとおる

 立花が紹介し、左門はその場で飛び上がってクルマの天井で頭を打った。

 振り向いた山田という男には左腕の肩から先がなく、そういった状態でも運転できる特別仕様のクルマなのだと初めて気付く。

 長い黒髪を頭の高い位置で纏めた男──山田が、ほら、とルイスと左門に何やら封筒を投げて寄越した。慌てて中を確かめると、新しいパスポートが入っていた。

「立花さん連れてさっさと出てけ。半世紀先まで戻って来んなよ」

「ミスター山田、親切な人?」

自己中egoistヤクザや。信じたらあかんで」

 咥え煙草の立花の台詞に、ひでえな、と山田が苦く笑う。その瞳が、バックミラー越しに左門を見た。

「箒木左門か」

「はい」

箒木ははきぎ組の件は──」

 悪かった、とでも言われたらどうしようかと思った。殴ってしまうかもしれない。

「──済んだことだ。俺は忘れる。おまえもそうしろ。立花さんを頼む」

「……頼まれても困るんだけど」

 くちびるを尖らせる左門のパスポートには、箒木左門とは無関係の見知らぬ人間の名前が書かれている。

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