8話 箒木左門
パトカーから降りてきたのは警察官だけではない。私立探偵の間宮カナメと、その相棒の小野美佳子の姿もあった。立花が僅かに顔を顰めるのが分かった。
間宮は警察官たちとともに
小野の視線の先で、水飛沫が上がった。
(いちかちゃん)
くちびるがそう呼んだ。左門にはなぜか、それが分かってしまった。
現場検証をしている警察官以外の数名がこちらに近付いてくる。無理もない。砂浜には無数の手首が転がり、一応手首は繋がっているものの首筋に短刀を突き付けられた
「劉青峰さん──いえ、
スーツ姿の刑事の名前を左門は知っていた。ルイスの聞き取りを行った篠田という若い刑事の相棒である、
「何や、知っとったんか」
腕を少し引けば瓜生の喉笛を切り裂くことができる。そんな格好のまま、振り向きもせずに立花は笑った。
「この──手首は、あなたが?」
「過剰防衛になるんか?」
「過剰というか……」
瓜生は言葉を発さない。ひと言でも余計なことを言おうものなら、刑事の目の前だろうがなんだろうが立花は瓜生を殺す。誰よりもそれを理解しているのだろう。
「立花さん。一緒に警察に来てください」
「理由は?」
「数年前、大阪で──」
「1対20でヤクザをどつき回した? 銃刀法違反? 東條組は密室で起きた事件を警察に持ち込んだんか? そらまた……だらしない組織になり下がったなぁ!」
呵呵大笑する立花の肩越しに、刑事さん、とルイスが口を挟んだ。
「それより救急車呼んだ方がいいよ。この人たち全員出血多量で死ぬよ」
「そ、れは……」
「ルイスの言う通りやな。それに俺には、あとひとり」
立花の目付きが変わる。海に消えた八房汐海に良く似た、澄み切った水晶のような目だった。
その表情に惑わされたのか、煤原が一瞬怯んだ様子を見せる。隙を見せる。
瓜生静が拳銃の引き金を引いた。
膝を撃ち抜かれた煤原がその場に倒れ込む。煤原、と遠くから声がする。立花が目を見開く、振り向く。飛び退いた瓜生が連続して引き金を引く。鉛玉が足元の砂に着弾する。幸いにも当たらない。瓜生も最早冷静ではない。こちらには拳銃はない。立花が持っている深海産の短刀と、ルイスの私物の小さなナイフ。それだけだ。駆け寄ってきた警察官は銃を抜かない。警察はそう簡単に発砲しない。それぐらいのことは左門だって知っている。だから瓜生は撃つのだ。倒れ伏す部下を盾にするようにして、砂浜に落ちる手首から拳銃をもぎ取って、立て続けに鉛玉を吐き出す。彼が立花を殺したいのか、警察官を殺したいのか、左門には分からない。
救急車が到着した。音で分かる。だが救急隊員たちはこちらに近付くことができない。最悪の銃撃戦が行われているからだ。この場で何人死ぬだろう。左門はぼんやりと考える。刹那、瓜生の放つ鉛玉がルイスの右肩を撃ち抜いた。ぐ、と声を抑えて崩れ落ちる彼を救わねばと思う。
何も成し遂げることができなかった。箒木の一員として思う。
「左門──」
立花の声がする。ずいぶん遠くから声がする。
ルイスに近付く。血は流れているが、銃弾は肩を貫いたらしい。
見慣れた瞳が潤んでこちらを見上げていた。
「チューニング合わせえ! 左門!」
何を言ってるんだろう、俺たちのボスは。
ルイスの手からナイフを拝借した。
チューニングを合わせる。見る。聞く。ずっと見られていたし聞かれていた。ここはそういう場所だった。父も母も兄貴分たちもきっと知らなかった。
ここは八房の町。人魚に呪われた土地。
聞き取れる者だけが生き残ることができる。
「いちかちゃん!」
小野美佳子が
彼女はずっと海を見ていた。チューニングを合わせていたのだ。
ヤクザの拳銃としつこい警察官は立花寅彦に任せて、箒木左門は浜辺を駆った。立花のように優雅に走ることができない。何度も砂に足を取られて転びそうになった。菜生俊哉の遺体は無視した。彼は殺されるべくして殺されたのだ。同情などない。それより救うべき者がほかにいる。
小野美佳子は濃紺のワンピース姿で、膝の辺りまで海に浸かっていた。自死のために自ら入水する者のようにも見えた。だがそうではない。彼女は彼女にしか見えないものを、見ている。
チューニングを合わせろ。どうやって?
「いちかちゃん、今、今行くけえ!」
「俺が行く!」
小野と同じ場所で同じものを見る。そこに誰かがいると信じる。自分にしか聴こえない音がある。声がある。八房が八房の音でこの土地を染めたように、違う音で塗り替えてやればいい。
見えた。
警察の制服を着ているけれど警察官ではない。長身に白髪、五十代ぐらいの黒縁眼鏡の男。うつくしい顔をしている。つめたい目をしている。その男が、藍色の髪に血管が透けて見えそうなほどに白い肌、それに腕には青緑色の鱗がある女を海から引きずり出そうとしていた。
男に向かい、ルイスのナイフを振り下ろす。手応えがない。男がこちらを見て、嘲るように嗤った。
次の瞬間、
その笑顔が文字通り弾けた。
銃弾が男の頭を撃ち抜き、水面が血の色に染まった。
振り返ると、煤原信夫巡査部長が拳銃を構えて立っていた。
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